第16話 限界
仕事を始めて3か月。淡雪の様子は徐々におかしくなっていき、淡雪の思考の歯車も狂い始める。
淡雪が仕事を始めて、3か月がたった。7月が目前になり、急に夏の暑さが本気を出し始める。園ではプールの準備が進み、このころには淡雪は職場になじんでいるように良助には見えていた。
淡雪は午前のみの出勤なので、家に帰るといつも出迎えてくれる。
「お帰り、良助さん」
仕事に行き始めて、淡雪はやはり痩せたように思う。前ほどじゃないけどがりがりに近い体型になってしまっているし、前のような純粋な笑顔ではないように感じてならない。
「ただいま。淡雪、」
「ごはんできてるよ。それともまた今日もすぐ抱いてくれるん?」
良助の声をさえぎり、玄関でそっと抱き着いて背伸びをして耳元でささやく。この手法で何回も流されてしまったが、流され続けるわけにはいかない。大人の意地で、良助は理性を握りしめる。鞄を置いて淡雪の肩に手をかけて、そっと淡雪の体を離した。
「抱かないよ」
良助のそれを聞いて、淡雪の表情が固まる。良助のまっすぐな視線が怖い。
俺のことが好きじゃないって、目が覚めてしまったのかもしれない。
女の方が抱いて気持ちがいいことに、気づいてしまったのかもしれない。
この人はもともと男じゃなくて女が好きなんだから、目が覚めて当然だったのかもしれない。
追い出されるんだろうか。どこで生きて行こう。
まだ職場に居場所がない。どこにどう落ち着けばいいんだろうか。
車で生活するなら、コインランドリーが近い場所を選びたい。どこにあっただろう。この土地のことを、あまりにも知らな過ぎる。
まだお金が貯まり切ってない。ワンナイトの相手はどこで探せばいいんだろう。全然見当がつかない。
どうしよ、どうしたらいい? 捨てられた後、どこでどうやって生きて行こう。
とにかく良助さんと二度と顔を合わせちゃいけないから、この近くじゃないところで都合のいい場所を探して……。
淡雪の目の奥が揺れる。
薬が切れる時間じゃないはず。
どうしてこんなに動揺してしまうのか。たしかにセックスは最高に気持ちがいいし幸せな気持ちで満たされるけど、それありきの関係になったなんて良助は思っていない。セックスがなくても、一緒に居続けて幸せだと感じられる関係だと思っていたし、そう信じている。
「淡雪」
「ごめんなさい、ごめんなさい! 俺調子に乗って、良助さんから大事にされてるって勘違いして、求められていい気になって誘ってしまって、女の人にかなうわけなんかないんに」
なにかがプツンと切れてしまったように淡雪は声を上げ、良助に背を向けて狼狽し始めた。
「勘違いなんかじゃないよ。落ち着いて、どうしちゃったの……!」
想像していなかった淡雪の姿。声をかけるが、淡雪は手で耳を塞いでしまい、その場にしゃがみこんだ。
「まだもう少しここに置いてください。……ごめん、なさい」
出ていく気でいる。小さく小さく縮こまって、消え入るよな声で淡雪は"ごめんなさい"と何度も唱える。
「ずっとここに居ていいんだよ! 出て行かないで。俺はずっと淡雪と一緒に居たい。でもセックスしなきゃ一緒に居られないのか? そんな関係じゃないじゃないはずだろ? 淡雪が嫌いだから抱かないって言ったんじゃない。淡雪と話がしたくて、待ってほしいって意味で抱かないって言ったんだよ」
落ち着け落ち着けと、淡雪に念じながら声をかけて淡雪を抱きしめた。そして、落ち着け落ち着けと、良助は自分にも言い聞かせる。
淡雪は少しずつ良くなっていて、このままずっとよくなっていく道を歩いて行くんだと信じてた。
甘かった。心の病を良助はなめていた。それが身にしみてわかる。
追い詰めたかったんじゃない。
でも今淡雪は確実に追い詰められていて、どうしてこうなったのかを知らなきゃいけない。
これからもずっと一緒に暮らしていく。だからこそ目を背けるわけにはいかないのだ。
しばらく膠着状態が続いた。
淡雪は小さな声を上げて泣いていて、泣かせてしまったことを良助はそっと後悔する。
もっとほかに、言い方があったんじゃないか。そもそもこんなになるまで放っておいたのが、いけなかったんじゃないか。どのタイミングでなんと声をかければ、淡雪はここまでならなかったんだろう。
なんのためにおっさんになるまで生きてきたのか。本当に大切にしたい人にしっかり寄り添うこともできないまま、おっさんになってしまって。情けないったりゃありゃしない。
淡雪が泣きやんで、淡雪の前に良助が座り直し、もう一度淡雪を抱き寄せた。
「俺は淡雪のことを愛してる。だから淡雪に万が一のことがあったら耐えられない。最近痩せて、元気もなくて、造り笑顔になってたって気づいてた。それなのに気にかけてあげられなくてごめん。今からでも遅くなければ、淡雪の気持ちと今の状態が聞きたい」
愛してるなんて、今までいわれたことがなかった。中途半端で都合のいい"好き"という言葉は、人を抱いて抱かれているうちに、何度となくささやかれたことがある。中身のないそれに心が動くわけもなく、普通の人がかわす可もなく不可もない挨拶のような意味合いとして受け取ってきた。
でも良助が言ってくれる"好き"は、他の人が言う"好き"とは全く重みが違う。中身がぎゅっと詰まった、重みのある温かいそれ。
その上を行く"愛してる"なんて言葉が、自分に向けられる日がくるなんて、思いもしなかった。
ただ怯え、捨てられるかもしれない危機感にまみれていた感情の中に、体温よりも少しだけ高い温度の温かなお湯が注がれたような。そんな気持ちになった。
隠し通すはずだった、人への恐怖心。
いじめなんて今の園にはないし、みんないい人なのに、名前を呼ばれただけで心臓の血管がどうかなるんじゃないかと思うほど強つ脈打つ。
「前行ってた園の人が、1ヶ月勤務したあたりでサービスタイムはおしまいって言って、それ以降ずっと虐められてた。……そんなんあの園のあの人だけって分かってんのに、あんなことする人今の園にはおらんって分かってるはずなんに、いつ先輩のサービスタイムが終わるんやろうって怖くて怖くて仕方ない」
ソファで膝を抱え、顔を突っ伏して、声を震わせる。
淡雪は戦ってた。いいや、戦いきれず、すり減らしながら怯えて、それに耐えてたのだ。
言わなきゃわからない。それが良介の本音だし、他人同士なんだから言葉にしなきゃ気持ちなんて伝わらない。
でも今そんなことを言うと、淡雪にトドメを刺してしまう。
俺の大事な淡雪。もうこれ以上、傷つかないでほしい。
どうするのが正解なのか、それはまだわからない。でもこのまま、「じゃあどうしよっか?」なんて呑気なことを言ってられない。
「淡雪。ごめんね。俺は淡雪に仕事をやめてほしいと思ってる。向いてないんじゃないよ。でも、このままだと淡雪が壊れてしまう。淡雪が壊れてしまうのは、絶対に嫌なんだ。だから俺のために、仕事をやめてくれないか」
酷いことを言っている。生きがいかもしれない仕事をやめてほしいだなんて、嫌われても仕方ないし恨まれるかもしれない。
でも、もし今嫌われて恨まれたとしても、淡雪が潰れてしまうのをただ見ているだけなんてことは出来なかった。
愛してるから。ずっと一緒居たいから。
ひとまず今は、職場から離れてほしい。
その思いひとつだった。
淡雪はまた静かに泣き始めた。部屋の中に、小さな淡雪のすすり泣く声が響く。
声をかけるか。でも今声をかけても、傷つけることしかできないかもしれない。
こちらがどれだけ棘を取った言葉を並べても、バックリと傷口が開き切った淡雪の心には、どんな言葉も痛みを伴う凶器となる。
「ここで逃げると、……俺は俺が許せんくなる!」
もう一度立ち上がりたい、働きたいと言ったのは自分だった。主治医と良助にたくさん話しを聞いてもらって、時間を割かせて手間を取らせてしまって職場に出るよう準備をしたのに、たった3ヶ月の勤務で限界が来るなんて。
そんなの許せない。自分で自分が許せないし、こんな自分が大嫌いで仕方がない。嫌われて然りであり、やっぱり存在していることそのものが迷惑なんだと、そのことばかり頭の中をぐるぐる渦巻く。
「今のまま頑張り続けると、ここに来る前の状態に戻るどころの話しじゃなくなってしまうかもしれない。もっとひどくなると入院措置になるかもしれないだろ?」
「そんならそれでも、もういいんよ! もういい、入院なら入院になってもいいから、俺はやれるとこまでやり切って、」
良助はこんなに優しくて、こんな自分に優しい言葉をかけてくれるのに。その優しささえも、自分の心を逆なでにしていく。怒る相手が違う。怒鳴っていいわけがない。でもどうしても、怒りの納まる場所がない。どうして腹が立つのか、その理由さえ考えられないのにと思うも、淡雪は怒鳴り声を上げずにはいられなかった。
「いいわけないだろ! それじゃ俺が困るんだよ!」
淡雪の怒鳴り声に、良助が怒鳴り声をかぶせた。初めて聞いた良助の怒鳴り声は、悲痛な色さえ感じるほどの気迫がにじんでいた。
――良助さんにこんな声出させたくなかった。なにやっとるんやろ。俺
自分を大事にしてくれる人。一番大事にしなきゃいけないとわかっているのに、自分の気持ちとは正反対の行動と言葉しか表に出ず。もう自分なんか大嫌いだと、声にならない声を上げることもできず、ボロボロと涙を落した。
悔しさをにじませて、めいっぱい下唇を噛みしめて、喉の奥で唸り声を絞め殺しながら睨んでくる淡雪。愛しい人の手を握り、良助はかなり強引に自分の太ももの上に乗せてさらに握りしめる。痛いかもしれないと思えるほど、力を込めて淡雪の手を握った。
「いいわけないじゃないか……! 大事な人が壊れていくのを、指をくわえて見てるだけなんて。俺にはできない! 入院なんてしてほしくない、また淡雪に笑ってほしい。ずっと一緒に居たいって、何回も言ってるだろ!」
伝われ、少しでも俺の思いが伝われと願いながら、良助は淡雪にもう一度怒鳴った。
自分を大事にしてほしい。自分との未来を見据えてほしい。
もっと明るい未来を想像してもいいはずなのだ。
もっと楽しい毎日を送る権利があるはずなのだ。
「一緒に居たいから。もっと、もっと一緒に、いろんな場所に行きたいし、いろんな景色が見たいから。……俺のために、仕事を辞めて、また心から笑えるようになってくれないか」
42歳にもなって、こんな大粒の涙が流れることがあるのかと思えるほど、ぼとぼとと良助の目から涙が落ちる。
大人の男の人は泣くのを、淡雪は初めて見た。
――俺が泣かせた。一番大事にしなきゃいけない人を傷つけて、俺は一体なにを……
全身から体温が引いていく。驚きとか、焦りとか、そういうものが全部吹っ飛んでしまって。謝らなきゃいけないのに、謝罪の声も出ないまま、淡雪は心の中が空っぽになって涙だけがさっきの悔しさの名残のようにぽろんと落ちた。
なにも伝わってない。
多分淡雪は自分を責めてる。
声が届かない。
それなら体温を伝えればいい。一人じゃないんだと、もう俺の所に居てくれと、良助は強引に淡雪を自分の胸の中に抱き込んで抱きしめる。
「俺を一人にしないでくれ……」
良助の心臓の音。良助の震える声。温かい胸の中。スーツ越しに、良助の体温が少しずつ淡雪に伝わる。
あったかい。
声も、体も。
心も。全部。あったかい。
お互いぐずぐずに泣いてかわしたキスは、涙が入り混じる味がした。ずっとずっと、お互いの存在を確かめ合うように、時間をかけて丁寧にキスをした。
心の傷に、飲みこんだ涙が痛みを伴って染みていく。痛いのに心地いい。もっともっとと求めて、求めた分だけ与えてもらえる。
時間を置いて、淡雪は眠れなくなっていたことを良助に話した。
滝のように汗をかいていたこと。
朝ごはんは全部吐いていたこと。
もう、限界かもしれないとわかっていたこと。
全部全部、泣きながら洗いざらい話した。
医師と相談して、後悔が残るものの、鬱の悪化によって淡雪の退職が決まった。
鬱の悪化。認めたくなかったそれに抗うことはできず、淡雪は職場の退職を余儀なくされた。再度療養することになった淡雪。体調を考慮し、退職の意向を良助が園に伝えに行くことになる。
評価などいただけると嬉しいです。
活動報告に解説や裏話みたいなものを少し書いてます。




