第15話 放浪
午前中のみ仕事を始めた淡雪。少しでも良助の助けになりたい。働きたい。その思いは、やはりまっすぐに走ることはなくて……。
3月中旬。淡雪は近くの保育園で出ていたパート募集をみつけた。このまま仕事をしない状態はよくない。良助に頼りきりで、金銭的な負担をかけ続けるのは淡雪の気が済まない。甘え切るのはよくないという気持ちはもちろん大きいけど、万が一良助との関係に終止符を打つことがあったとき、生きていけるようにしておかねばならない。
良助のことを信用してないのではなく、絶対の未来はないというのが淡雪の持論。絶対の未来はない。これだけは100%合っている。
「近くの保育園で募集出てて、パートで働こうと思ってる」
晩ごはんを食べた後、良助に背を向けて皿洗いをしながら声だけ飛ばした。良助はソファに座っていて、淡雪のそれを聞いてすぐに台所に入ってきた。
「どうして? なにか欲しいものでもあるの?」
良助は保育現場に淡雪を復帰させたくない。せっかくここまで持ち直してきて、骨と皮だけだった体に人並みの肉がつき始めた。また前みたいな状態になってしまうのは、絶対に避けたい。
良助の不満と不安が前面に出た表情を見て、淡雪は少し驚いた。自分だって働ける。というか、つい最近まで働いていたではないか。
「ほしいもんとかない。一緒に暮らしてるんやから、ずっと養ってもらうわけにはいかんやん。甘えっぱなしになりたくないんよ」
物欲そのものがほとんどないので、なにか買いたくて働くわけではない。不確定な未来への保険。それは大いにある。でもそれだけではない。
「甘えてていいんだよ! 甘えてほしいし」
良助は優しい。今も必死になって仕事の再開を反対している。甘えていいんだと、こんなにも気持ちを込めて言ってくれる人と一緒に居るだからこそ、あぐらをかいて甘え続けるわけにはいかないじゃないか。
「甘えっぱなしになって、それが当たり前になっちゃって。わがままになってるんに気づかんような人間になりたくない。短時間、午前中だけでも働きたい。ダメやと思ったら辞めるし、良助さんから見てダメやと思ったら辞めるよう声かけてほしい。このままずっとここにおるんやなくて、生活にメリハリをつけるためにも保育士として働きたい。子どもは好きやし」
本当はどこにも行かせたくない。ずっと家に居て、家のことをやって、仕事から帰った俺のことを迎え入れてほしい。でも淡雪の意思を無碍にもできない。ようやく朗らかに微笑むようになった淡雪。もう一度現場に出て、無理なく働いて、自信を取り戻してくれるなら。そんな思いが、ふっと良助の中に湧いた。
淡雪の職場復帰は、医師とも話し合いを実施。今の淡雪の状態を考慮し、今後どうあったら休職もしくは退職に踏み切るかを明確に決め、午前中のみ仕事働いてもいい許可が下りた。
絶対に無理をしないことをしつこいほどに医師と良助を確認し合い、近場の保育園で面接を受け、午前中のみの勤務が決まった。
勤務は3月末から。採用が決まって勤務開始まで、あまり日がない。良助は心配で仕方がなかった。
「絶対無理しないって約束して」
毎日毎日良助は寝る前に、ベッドの中で必ず淡雪を抱きしめる。出会った当初の淡雪の姿が、脳裏から離れない。薬の過剰摂取や酒で薬を飲んでいるのを見ているし、薬が切れてると驚くほど凹んでしまう。今ようやく精神的に安定しているので、なんとかこの状態を保ちたい。
「無理せんよ。心配しすぎ」
精神的な安定は、淡雪本人が誰よりも実感している。昔みたいに一人じゃない。自分と良助のために働いて、お金を稼ぐ。今の生活をよりよくできるし、自分だって人並みに働けるんだと証明したい気持ちも、もしかするとあったのかもしれない。
3月末。淡雪は午前中だけ保育園に勤務し始めた。
徒歩圏内にある、かなり大きな園。田舎なので、小さな園を合併させた結果大きな園になったと良助が言っていた。こども園とまではいかないまでも、淡雪が前勤めていた園より規模は大きい。少し身構えはしたものの、午前中のみなので過度にビビるなと自分に言い聞かせながら淡雪は仕事を始めた。
仕事を始めてすぐ。淡雪は前勤めていた保育園のことを夢に見るようになった。
最初はみんな優しくて、勤め始めて1か月を過ぎたころから、「サービスタイムおしまーい。明日から新人育てまーす」と、お局と主任が、大きな声で笑顔で言っていた。なんのことかわからなかったが、あの日を境に新人全員に濡れ衣をかぶせ、どんな反応をするか見ていた。
一番謝って反省して委縮していた淡雪は、すぐに標的になった。
自分の腹の虫の居所が悪いと、聞こえるように舌打ちして睨む。
自分のミスを擦り付け、「ほんとに使えん。給料泥棒」とののしる。
力仕事を押し付け、「男のくせに力がない」とできないことだけを指摘する。
職員室に入れない雰囲気を作り、保育室で仕事をするよう仕向け、一人で仕事をしているところに乗り込んできて「ていうか四季先生さー」とイライラをぶつける。
先生と思ってない。男のくせに役立たず。あんたなんかいなくていい。
蓄積した前の職場の先輩たちからかけられた言葉が、心の中で石ころのように固まってごつごつと心の内側に傷をつけて転がり続ける。
今の職場は違う。先生たちは優しくて、いじめなんてないと信じたい。
でもまだ仕事を始めて1か月経ってないから、サービスタイムなのかも。
1か月経ったら、あの先生と同じ中年の先生から目をつけられるかもしれない。
もっと頑張って早く仕事を覚えないと、また目をつけられる。またいじめられる。
男なんだから、力仕事は全部俺がやらないと。
おむつの交換は俺がやってもいいのか? 女の子の保護者からクレームが来るかもしれない。でもおむつ交換をしないと、それもできない使えない人間と思われるのか。
早く子どもの名前と保護者の顔を覚えなきゃ、クビになる。
もっともっと頑張らなきゃ捨てられる。
仕事ができないと職場に居られない。
クビになったら良助さんが幻滅する。捨てられる。
もうワンナイトを繰り返す生活に戻りたくない。でもあの生活が俺にはお似合いなのか?
わからない。
わからないなんて言ってられない。
頑張らなきゃ。もっともっと頑張らなきゃ。
頑張らないと、後がない。
仕事に行き始めて、1か月を迎える目前。淡雪は眠れなくなった。
良助と一緒に暮らす前。前の職場に出ていたときと、全く同じような症状が現れ始めた。淡雪の心はどこに落ち着いていいかわからず、眠れなくなったことをひた隠しにしたまま仕事に行き続けた。
淡雪が仕事に行き始めて、1か月が経過。まだ5月なのに、淡雪は滝のような汗をかく日が増えた。
「大丈夫。暑がりなんよ」
そういって良助に笑う淡雪の目の下にはクマが出来ていたし、明らかに痩せた。ようやく少し隠れ始めていたあばら骨が、また浮いて見えるようになった。
そして、週末体を重ねるとき。そんなにしちゃ怪我をすると思えるような、激しさを求めるようになった。「もっと突いて」「押さえつけて」と無茶なことを言うようになって、言葉が加速して「殴って」と言い始めて。さすがにおかしいと思い、週末良助は淡雪を散歩に誘って話をすることにした。
休日。一緒に歩く、近所の河原。桜の木が、青々とした若葉をぎっしり蓄えて風に葉を揺らす。昼下がりの、寒く無く暑くない季節。
手を繋いだまま少し前を歩く淡雪は、今日もきれいだった。葉の間から日の光が当たる背姿。声をかけて話をしなきゃいけないと思うも、なかなか声がかけられないまま、ただ2人で手を繋いで歩く。
田舎なので、ほとんど人が歩いていない。田んぼが広がるのどかな場所。田植えの耕運機がゆったり走っている。
「淡雪」
優しく、とにかく優しく、淡雪がこちらに歩み寄ってくれるよう願いを込めて、良助は淡雪の背に声をかけた。振り向いた淡雪は、やはり少しやつれているように見えた。笑顔に力がない。
「なん?」
バレてない。まだ大丈夫。まだ頑張れる。まだ頑張りたい。頑張らないと、まだ1か月しか働いてない。
笑顔の裏側で、淡雪の心は確実に焦りを抱え混んでいた。
「無理、してないか?」
してるって言ってほしい。本当は辞めたいって、本音を言ってほしい。俺の胸に飛び込んで、自分のことを頼ってほしかった。
「無理してないよ。全然。毎日楽しい」
でも現実は、そういうわけにはいかない。
頼っていいって分かってる。分かってるから頼れない。
信頼してるから、もう少し頑張らせてほしい。
もう少し頑張らないと、見捨てられてしまうような気がしてならなかった。
笑顔を作るのは得意。実家に居たとき、姪と甥を育てるとき笑顔を作ってた。園で仕事をするときも、この笑顔で乗り切っていた。
笑顔は武器。全てを覆い隠すことができる、とても便利なヴェール。
本心でない笑顔。それで誤魔化される良助ではない。
「……そう。なにかあったらすぐ言って」
造り笑顔で本心を隠されてしまうと、追いかけることができない。
こちらを向いていたはずの淡雪が、自分に背を向け放浪しているような。
そんな気がしてならない。
胸騒ぎが止まらず、それと同時に淡雪が自分にも余所行きの笑顔を向けたことに対する悲しみが、良助の心に広がった。
踏みとどまれない、心の落下。メンタルのゆらぎが、持ち直してきた淡雪の心をむしばむ。
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活動報告に解説や裏話みたいなものを少し書いてます。




