第11話 猫の巣立ち
12月。淡雪の園退職が近づいてくる。保護者にその旨は伝えられておらず、退職当日になり起きたこととは――?
熱が下がって以降、淡雪は淡々と仕事をこなした。良助との生活と引っ越しが決まって以降の淡雪は、職場で基本的に喜怒哀楽の喜の感情しか出していない。子どもを叱るときは表情を険しくし、子どもに寄り添うときには子どもの心情に合った表情で心を込めて寄り添う。
主任やお局が、完全に静かになったわけではない。現在園長が常に保育現場に参加しているため、目に見える嫌がらせはかなり減った。しかし、靴の中に砂利を入れたり、職員用の食器棚からわざわざ淡雪のコップだけを取り出してゴミ箱に捨てるなど、陰湿な嫌がらせは継続。
先輩や同期も、主任たちと一緒になって淡雪にかなりひどいいじめをしてきたが、淡雪の退職が決まって以降それが嘘のように沈黙。「四季先生~、手伝ってくださぁい」と、当たり前のように戦力として淡雪に声をかけてきている。
今までいじめるだけの対象だったのに、なんとも滑稽だと思えて仕方がなかった。
12月後半に入ると、今いる家の荷物をうっすらまとめる作業を開始。しかし、良助と淡雪双方ともに、ものを多く持つ質ではない。淡雪に関しては、実家を出るときに車に乗せた衣類と一眼レフカメラだけが財産。そのため、まとめる荷物そのものがほとんどないような状態だった。
淡雪は、実家から持ってきた一眼レフカメラを、とにかく大切にしている。ちゃんと手入れをして、写真は撮らないにしても、レンズの蓋を取ってファインダーをのぞき込んでいる時間がちらほら見られた。仕事が終わって、夕食を食べた後。ベッドに腰かけてぼーっとテレビを眺める良助の足元で、淡雪はカメラをいじる。
「良かったね。大事なもの、手元に戻ってきて」
淡雪のつむじをツンと人差し指で押しつつ声をかけると、すぐに淡雪が振り返ってこちらを見上げてきた。目が合って、ニコッと嬉しそうに微笑み、淡雪がうなづく。
「……うん。嬉しい。カメラは大事やったから」
「写真撮るの好き?」
「好き。自分で撮った写真は嘘がない」
食べ物も服も含めて、淡雪は今で好き嫌いを語ることがなかった。なにが好きか聞いても答えなかったし、嫌いなものがあっても主張はしない。
「どんな写真撮るか見てみたいな。メモリーに残ってない?」
淡雪の目に、世界はどう映るのか。怖さはあれど、興味もある。
「メモリーには残ってないと思う。撮った写真、姉ちゃんに全部消されてたから。前みたいに賞を取るようなもんはなかなか」
カメラを弄りながら、結構凄いことをポロンとこぼした。
「賞……?」
良助は写真やカメラに対しての興味が全くないままだったので、賞といわれてもピンとこず。
「そう。写真のコンテストで。賞状もらったけど捨てられたから、証拠出せって言われてもないんけどね。賞金も全額持っていかれたし」
あまり興味を持たないまま淡雪は話しているが、もしや凄い事なのでは……。
「賞もらうってすごいんじゃない? 賞金も出たなんてすごいよ! いつか淡雪が撮った写真、見てみたいなぁ」
全く知識はないが、賞を取るほどの写真を撮るということは、恐らく凄い事なんだろう。淡雪がどんな写真を撮るのか、すごく興味がわいた。はしゃいでいる良助を見上げると、淡雪の表情が自然と綻ぶ。
「引っ越して時間が出来たら、撮りに行きたいな」
淡雪からやりたいことが聞けたのは、このときが初めて。良助の心が一気に弾む。
「行こう! 旅行も行きたいと思ってるから、そのとき撮ってほしいな」
「楽しみ。嬉しい」
小さな約束。小さな幸せ。狭い部屋で満る、なんでもない幸福。それがものすごく贅沢に感じた。
12月末。淡雪の勤務最終日。
良助は一足先に休みに入った。というのも、引っ越しをしなければならないためである。クリスマス前の金曜で、ここでの勤務が終了。淡雪は28日まできっちり園に勤務。最後の出勤日に、子どもを迎えに来た保護者から、たくさん声をかけてもらった。
「急に退職が決まったって園だよりに書いてて、びっくりしました」
保護者はみんな口をそろえてこういい、別れを惜しむ。主任がやってのけた、最後の嫌がらせだった。1か月前に退職は決まっていたはずなのに適切な時期にそれを公表せず、退職直前に口頭で数人の保護者にのみ知らせた。そのため、淡雪が今日最後の勤務と知らない保護者も多い。
淡雪の退職は、保育園内の立ち話で保護者同士共有されてしまい、園内に留まった保護者が捌け切るまで時間がかかった。登園時に共有された情報は降園時には更に拡散していて、職員の声掛けに保護者が応じず園内に留まり続け、保護者と園児が飽和状態。
いきなり出勤最終日であると告げられたため、四季先生にお別れをいう親子。四季先生にお世話になった、発達になんらかの問題を抱えていた子どもと保護者。四季先生が今日で最後と聞き、泣き出す子ども。淡雪が在籍しているクラスの前にはたくさんの人が溢れ返り、お局もこれにはびっくり。
「早く挨拶しに行きなさい。邪魔でしょうがないでしょ」
保育時間終了と同時に淡雪は保育室から出され、廊下で子どもと保護者に頭を下げた。
「本日をもって、この園を去ることになりました。急な申し出をしてしまい、先生方にご迷惑をかけ、保護者の皆様並びに大切な子どもたちにも混乱する事態を招いてしまい……」
深々頭を下げて、挨拶をする。最後の日まで、淡雪は主任とお局の尻拭いをした。
挨拶文なんて考えてなかったけど、案外スルスル感謝の言葉が出てくるなと、淡雪自身客観的に思いつつ最後のご挨拶を済ませて顔を上げた。
「お世話になりました」
「これ、次の園でも使ってください」
「居なくなるなんか知らんかったから、凄く寂しいです」
保護者の波にもまれ、淡雪の手元には到底持ち切れないプレゼントが置かれていく。握手をして、子どもたちを抱きかかえて、丁寧にお別れをして。いつもなら保育室やトイレの掃除をする時間も体が空かず、結局閉園間近の時間まで子どもと親とのお別れの挨拶は続いた。
たったは8か月ほどしか勤めていないのに、こんなにしてもらって。誰でもこれくらいしてもらうのが当たり前なのかもしれないが、それでも淡雪は嬉しかった。
持ち切れない荷物を抱え、どうしようもなくなってしまい、良助に迎えに来てもらうことにした。園長の許可は得ている。電話をして良助が迎えに来るまでの間、もらった餞別を園から支給された紙袋に入れていく。かわいいタオル。新しいエプロン。小さなお菓子の詰め合わせ、靴下、子どもが描いた似顔絵……。
自分にはもったいない。全部全部、善意で贈られたものだなんて。どう受け止めていいかわからないまま、荷物をまとめた。
誰もいない保育室。電気がついていて、子どもがいないこの空間は広く感じる。職員の見送りなんて、そんなものはない。一人きりのこの部屋で、子どもたちからもらったものに触れて。
嬉しくて。寂しくて。申し訳なくて。こんな自分のために、泣いてくれた子もいる。
「……ごめんなさい」
後悔ではない。でも、子どもたちを捨てていく事実は重くのしかかり、素直に一歩踏み出す勇気が持てずにいた。
「すいませーん……。四季淡雪の迎えなんですけど……」
職員室のドアをそろりと開けて、良助が蚊の鳴くような声を職員にかける。バッと職員の注目が集まり、笑顔で主任が良助を淡雪の元に案内した。
「四季先生は人気者だったので、子どもたちや保護者の方からいただいたものを整理してました」
そういって通された保育室は、暖房なしで電気しかついていない保育室だった。保育室の隅に座り込み、大きな紙袋にもらったものを入れている淡雪。こちらを見て、主任と目が合い、淡雪はバッと立ち上がる。
目の奥は怯え、表情は凍り付いていた。
――そんな顔、初めて見たよ
怯えきった淡雪の顔を、良助はこのとき初めて目にした。
「淡雪」
良助が声をかけ、保育室に入る。
「手伝うよ。すぐ帰ろう」
淡雪に声をかけ、紙袋の中に大事に大事に贈り物を入れて行く。淡雪は動けなくなっているし、その様子を知っているのに主任が退場する様子もない。
さっさと紙袋に物を詰めた。紙袋3つになる大荷物。良助が全部持って立ち上がり、まだ固まっている淡雪の手を取った。
「そうだ。つまらないものですか。淡雪がお世話になったので」
良助は手に持っていた菓子折りを主任に手渡す。緊張しすぎて、紙袋に入れた菓子折りを持っていることさえ忘れていた。その緊張がバカみたいだと思える。
大事な淡雪を、こんなにビビらせておいて。この場から立ち去りもせず、ずっとこっちを見ている。気持ちが悪い人だと、良助は不快感を押し殺して笑顔で主任に菓子折りを渡した。
「まあぁ、気を遣わなくてよかったのに。今日でどうせ最後だし」
「最後だからです。お世話になりました。淡雪、ご挨拶して」
手を引いた淡雪は、上手く喋れずにいる。急に主任が来てしまって、心の準備ができていなかった。なにを言われるかと思うと、言葉が上手く出てこない。
深々頭を下げることしか、淡雪にはできなかった。
「お世話になった人に対して、なにも言わずですか」
主任の声が淡雪の耳に刺さる。
「言えないんじゃないでしょうか。そんな高圧的な態度で来られれば、誰だって声も出ません。まだ20歳の若者にそんな嫌味しか言えないのは、とても残念だと思います」
淡雪の手を握る良助の手が、ギュッと握力を強める。守るからと、良助から言われているようだった。
「はぁ?」
主任の声が一気に曇る。顔を見ずとも、機嫌が悪いのがわかる。淡雪の心拍数が上がった。
「年配者が若い芽を摘むような現場は、長く続かない。現にこうして、子どもや親から人気があった淡雪は、退職の道を選んでます。もし故意に淡雪を追い込むような言葉をかけていたとするなら、到底許せない。淡雪が壊れきる前に、ここから出られてよかったと思います」
良助自身、言わなくていいことを言った自覚はある。でも、黙っていられなかった。
会釈をして、良助から手を引かれて淡雪は園を出た。職員室から音もなく職員が出てきて、淡雪を迎えに来た男の姿を目に映す。
どこにでもいるような、全部の中央値みたいなおじさんだなという印象。恋人というから女かと思っていたが、なんとおじさんだったなんて。驚きと同時に、職員の大半が僅かに笑いをこぼした。
人の幸せも応援できない。
人間として失ってはいけないものを、失ってしまっている人が多い職場だったのかもしれない。
子どもや保護者からもらったものは、全て淡雪の宝になった。一気に物が増えたので、引っ越しまでに余っているダンボールに全部詰めなければならない。
退職した日の帰り道。手を引かれて歩く淡雪は、しくしく泣いていた。ごめんなさいとつぶやいて、泣いていた。
翌日から、良助に手伝ってもらって荷物をダンボールに詰める作業に入った。お菓子は食べなきゃ期限が来てしまうので、作業しつつ2人でつまむ。結構な量あったので、お昼ごはんの時間になっても全然おなかが空かない。
作業はすごく和やかに進んだ。かわいい似顔絵。ちょっと個性的な靴下。キャラクターデザインが施されたエプロン。一番多かった、実用的なサイズのタオル。文房具も結構多かった。
「俺だけ幸せになっていいんやろか」
作業を進める中、淡雪がぽつんとつぶやく。
「幸せになるって思ってくれてることが嬉しい。絶対幸せにするよ」
主任に見せた、あんな顔。もうさせたくない。させないと、心に誓う。
自然と目が合って、キスをして。笑い合って、作業に戻る。
年末に差し掛かる寸前のよく晴れた引っ越し当日。
淡雪の車が業者の手で先に運ばれていく。
業者に荷物を運び出してもらい、最低限の荷物だけを持って2人でアパートを出た。
どうか幸せな日々になりますように。
幸せな日が長く長く続きますように。
そんな思いを抱えながらタクシーで駅に向かい、チケットを買って新幹線に乗る。
淡雪は生まれて初めて新幹線に乗って、良助と共に古巣を巣立った。
自分だけ幸せになっていいのか。この思いを引きずりつつも、淡雪は良助の故郷へと共に旅立つ。新な土地で、2人の新たな生活が幕を開ける。
評価などいただけると嬉しいです。
活動報告に解説や裏話みたいなものを少し書いてます。




