二十八話
ロベルトの証言をもとに、リィたちは南地区、ファーレン川沿いの下水道へ向かった。
川沿いを下っていくと、証言どおり、大きな横穴がぽっかりと口を開けている。
「……間違いなさそうですね」
ニーナが足を止め、周囲をひと通り確かめてから言った。
人気はない。昼間だというのに川沿いは妙に静かで、水の流れる音ばかりが耳につく。
「なんか、すごく臭うぞ……」
「下水道ですから」
リィのしかめ面に、クラリスが淡々と返す。
もっとも、クラリス自身も平然としているわけではないらしく、わずかに眉を寄せていた。
ニーナは小型のランプに火を灯すと、警戒を崩さぬまま先頭に立った。
三人はそのあとに続き、下水道の中へ足を踏み入れる。中央には濁った水が流れ、その脇に細い通路が伸びていた。
湿った石壁が、わずかな物音でも大きく跳ね返す。
ニーナは腰の剣に手をかけたまま、慎重に歩を進めていく。
「本当に、こんなところにイリスはいるのでしょうか」
クラリスが周囲を見回しながら、小声で言った。
「ロベルト殿も、確信がある様子ではありませんでした」
ニーナのはっきりした声が、湿った通路に反響する。
「でも、ほかに当てもないんだろ?」
リィが前を見たまま言う。
「はい。少なくとも、今ある手がかりの中では一番有力です」
クラリスがそう答えたときだった。
ふいに、先の方から足音が聞こえた。
誰かが走る音だ。しかも一人ではない。
さらに、何かがぶつかるような音まで混じっている。
三人は同時に足を止めた。
「……何か聞こえます」
ニーナが低く言う。
「争ってるのか?」
「その可能性は高いですね」
言葉が終わるより早く、リィは駆け出していた。
「ちょ、リィ様!」
クラリスが慌てて呼ぶが、止まらない。
ニーナとクラリスもすぐにそのあとを追った。
通路を蹴る足音が、狭い下水道に反響する。
リィが角をひとつ曲がる。さらにもうひとつ先へ進み、そこで視界が開けた。
広めの空間だった。
下水道の分岐点らしく、天井も少し高い。
その中央に、二つの影があった。
一人はイリスだった。
息を乱し、青い髪は乱れ、腹のあたりには赤黒い染みが広がっている。
その正面に立っていたのは、黒い外套をまとった女だった。
横顔には、狸の面が覗いている。
女の前には石の矢がいくつも浮かんでいた。
耳障りな笑い声が、薄暗い空間に響く。
次の瞬間、その石の矢が一斉にイリスへ向かって放たれた。
リィは迷わず地を蹴った。
イリスの前へ滑り込むように割り込み、飛来した石の矢を片端から弾き飛ばす。
「よーし、たぶんお前が悪いやつだな!」
イリスが、かすかに息を呑む気配がした。
そこへニーナたちも追いついてくる。
ニーナは状況を一目で把握すると、即座に斬りかかった。
狸面の女は後ろへ跳び退き、その手を払う。
次の瞬間、今度は石礫が宙に生まれ、ニーナへ襲いかかった。
ニーナは剣でそれを弾き飛ばし、距離を詰めようとする。
一方、クラリスはすぐにイリスのもとへ駆け寄った。
「しっかりしてください」
腕を取って支えると、イリスの身体は思っていた以上に軽かった。
それだけ消耗しているのだと分かる。
「やはり、ローゼンベルク家と繋がっていたか……」
狸面の女が忌々しげに呻く。
その周囲に、再び石の矢が浮かび上がった。
今度は狙いが明確だった。まとめてリィへ向いている。
リィは一歩も引かず、真正面から駆け出した。
飛んでくる石の矢を弾き飛ばし、そのまま一気に距離を詰める。
狸面の女の動きが、一瞬止まった。
「なっ――」
「えいやっ」
リィの拳が、狸面の女を正面から打ち抜いた。
女の身体が吹き飛び、下水道の壁へ叩きつけられる。
鈍い音が響き、そのまま崩れ落ちた。
リィはすぐに振り返る。
イリスはもう立っていられなかった。
腹を貫かれ、血は止まらず、意識も失いかけている。
「大丈夫そうか?」
「かなりの重傷です」
クラリスがイリスを支えながら答える。
「早く医者に見せた方がいいでしょう」
その横で、ニーナが狸面の女へ素早く近づき、縄で縛り上げた。
完全に気を失っているのを確かめてから、こちらを振り向く。
「ひとまず危険はなさそうです」
クラリスが短く息を吐いた。
「とにかく、別邸へ戻りましょう。ここで長居はできません」
三人は気を失ったイリスを連れ、急いで下水道をあとにした。
※※※
イリスの目が覚めたのは、翌朝だった。
薄く目を開けた先に、黒髪の少女の顔がある。
ベッドの横に座り込んだリィが、じっとこちらを覗き込んでいた。
「大丈夫か?」
イリスはまだ状況が飲み込めないのか、ぼんやりとリィを見返す。
「ここは……?」
「アデルの家だ」
リィはほっとしたように言った。
「クラリスたちを呼んでくる」
そう言うと、部屋を飛び出していく。
ほどなくして、クラリスとニーナが部屋へ入ってきた。
イリスを前にして、三人が集まる。
クラリスは温かい紅茶を注ぎながら、静かに口を開いた。
「イリスさん。あなたが下水道で襲われているところを助けました。狸面の女は捕縛しています。あなたは重傷でしたので、手当てをしてここへ運びました」
イリスはしばらく天井を見ていたが、やがて小さく息を吐く。
「そう……ありがとうと言うべきかしらね」
「アデル様の状況はご存じでしょうか?」
「いえ……しばらく一人でしたから」
「あなたを逃がした件で、現在拘束されています。今日これから監査会が行われます」
クラリスの言葉に、イリスは目を見開いた。
だが、それも一瞬で、すぐにいつもの笑みが戻る。
「よほどアデルお嬢様が目障りな方がいるみたいですね」
「原因は、あなたを逃がしたことです」
「分かってますよ」
イリスは苦笑するように言った。
「その監査会……私も出ましょう」
そう言って起き上がろうとした途端、痛みに顔をしかめる。
クラリスが慌てて肩を支えた。
「無理しないでください。かなりの重傷ですよ」
「いえ、死にはしないでしょう」
イリスは息を整えながら答える。
「それより、先に向かっていただきたい場所があります」
「どういうことです?」
「南西区画、旧市壁沿いの屋敷です。帝国間諜の隠れ家があります」
クラリスとニーナの表情が引き締まる。
「下水道で襲ってきたあの女が戻らないと分かれば、連中は姿を消すかもしれません。今なら、まだ間に合うはずです」
三人は顔を見合わせた。
そこへ、リィが口を挟む。
「そこにいるやつらを捕まえてくれば、アデルは助かるのか」
イリスは少しだけ目を細めた。
「ええ。助けにはなるでしょう」
「わかった」
リィは迷わなかった。
クラリスは少し考え込み、それから低い声で言った。
「では、ニーナさんはイリスさんを連れて王宮へ向かってください。私とリィ様で、その屋敷へ向かいます」
ニーナが頷く。
イリスも苦しげに息を吐きながら、それに従った。
こうして、リィたちは二手に分かれることになった。
※※※
南西区画、旧市壁沿い。
その一角は、王都の中でも妙に空気が淀んでいた。
古い石造りの屋敷が、ひっそりと建っている。
大通りから少し外れた場所にあり、昼間だというのに人通りも少ない。
窓は固く閉ざされ、人気がないわりに門回りだけが妙に整っていた。
少し離れた路地の陰から、クラリスが屋敷を見つめる。
「……あれですね」
隣で、リィは屋敷を見上げた。
「ふつうの家に見えるぞ」
「だからこそ、隠れ家に向いているのでしょう」
クラリスは低く返す。
視線は正門、塀、屋根、窓と順に流れていった。
「リィ様。中に人の気配は分かりますか?」
問われて、リィは鼻をひくつかせた。
しばらく黙り込み、それから小さく頷く。
「うん。何人かいるぞ。……五人、いや六人かもしれない」
「思ったより少ないですね」
クラリスは小さく息を吐く。
そのまま少し黙り込み、屋敷を見つめた。
「では、どうしましょうか?」
リィが首を傾げる。
「えっ、考えるまでもなく壊して入るんじゃないのか?」
クラリスは一瞬だけ眉を寄せた。
だが、今回はその案を否定しなかった。
「……今回は、それで構いません。下手に時間をかけて逃がすよりはましです」
「よし!」
リィは嬉しそうに拳を握る。
クラリスは最後にもう一度だけ周囲を確認した。
「私は後ろから入ります。リィ様は正面をお願いします。相手の狙いは証拠の処分か逃走です。取り逃がさないことを優先してください」
「わかった」
リィは力強く頷いたあと、少し考えてから言い直す。
「全員ぶっ飛ばせばいいんだな」
「……生け捕りが理想ですが、逃がすよりはましです」
次の瞬間には、リィはもう地を蹴っていた。
石畳が砕ける。
小柄な身体が、目にも留まらぬ速さで正門へ突っ込んだ。
「えいやあっ!」
門扉が、轟音とともに内側へ吹き飛ぶ。
屋敷の静けさが、一瞬で破れた。
「なっ――!?」
「敵襲だ!」
中から男たちの怒声が上がる。
玄関ホールへなだれ込んだリィは、目の前にいた二人組を見つけた。
一人は剣を抜きかけていた。
もう一人は懐から何かを取り出そうとしている。
リィは迷わず床を蹴った。
剣を抜きかけた男の懐へ一気に入り込み、そのまま腹へ拳を打ち込む。
鈍い音とともに、男の身体がくの字に折れて吹き飛んだ。
もう一人が短剣を振るう。
だが刃は、見えない壁に当たったように止まる。
「うわっ、なんだこれ!?」
リィはその男の襟首を掴んで持ち上げ、勢いよく床へ叩きつけた。
玄関ホールに悲鳴が響く。
「もうおしまいか?」
答える者はいなかった。
いや、一人だけいた。
階上に、一人の壮年の男が立っていた。
こんな状況でも余裕の笑みを浮かべている。
「どこまでも予想外な女だ」
「誰だ、お前は?」
「アドルフ・ノイマン。帝国の人間だ」
リィはその男――ノイマンを睨みつける。
「お前も悪いやつだな……」
「王国の人間からすれば、そう見えるだろうな」
ノイマンはリィを見下ろしながら答えた。
「厄介な女だ。だが、こちらもこのままやられるわけにはいかない」
そう言って、手の中のものを持ち上げる。
黒い鎖だった。
「帝国の呪具『黒牢の鎖』という。かつて、竜さえ封じたことがある」
階上から鎖が投げ放たれる。
黒い鎖は蛇のようにうねりながら、リィへ向かって飛んできた。
リィは反射的に身を引く。
だが、鎖はなおも追いすがってくる。
「なんだこれ!?」
リィが走る。
だが鎖は生き物のように軌道を変え、執拗に追いかけてきた。
ついに鎖がリィの腕へ絡みつく。
そこから一気に、全身へ巻きついていく。
「むむむ……!」
リィは力を込める。
だが、鎖はびくともしなかった。
「お前ごときでは破れまい。これを破れたのは、かつての勇者くらいのものだ」
ノイマンは笑いながら階段を下りてくる。
そのまま、身動きの取れなくなったリィの前に立った。
「悪いが、このまま逃げさせてもらうぞ。お前は殺すには惜しい。アデル・ローゼンベルクには死んでもらうがな」
その言葉に、リィの顔つきが変わった。
ぎり、と鎖が軋む。
「……アデルは殺させないぞ」
ノイマンが眉をひそめた、そのときだった。
黒い鎖に、ひびが入る。
「な――」
「うりゃああっ!」
次の瞬間、鎖が弾け散った。
ノイマンが振り返る。
その顔には、あからさまな驚愕が浮かんでいた。
「まさか……黒髪黒目……そうか、お前、勇者の末裔か」
「違う」
リィは一歩踏み出した。
「僕は黒竜ヴァルの娘、リィだ」
床石が砕ける。
次の瞬間には、その姿はノイマンの目の前にあった。
渾身の拳が、ノイマンの胸を正面から打ち抜く。
鈍い衝撃音とともに、ノイマンの身体が宙を飛ぶ。
背後の壁へ叩きつけられ、石壁に大きなひびが走った。
崩れ落ちたノイマンは、かすれた息を漏らしたきり動かない。
屋敷は、一瞬で静まり返った。
そのとき、クラリスが奥から姿を現した。床に伸びた男たちとノイマンをひと目で見回す。
「帝国との関係を示す証拠は、いろいろとありそうです」
リィはそこでようやく拳を下ろした。
「……じゃあ、アデルを助けられるんだな」
クラリスは一瞬だけ手を止め、それからはっきりと頷いた。
「ええ。この男の身柄と証拠があれば、大きな助けになるはずです」
その言葉を聞いた瞬間、リィの張りつめていた肩から、ふっと力が抜けた。
「そっか」
短くそう答えると、リィはその場にぺたりと座り込む。
さっきまでの勢いが嘘みたいに、どっと疲れが押し寄せてきた。
「……本当に、無茶ばかりなさいますね」
クラリスはそんなリィを見て、わずかに息をついた。
屋敷の外では、ようやく駆けつけてきた治安隊の足音が響き始めていた。




