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濡れ衣令嬢と竜姫  作者: 白保仁
四章

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二十八話

 ロベルトの証言をもとに、リィたちは南地区、ファーレン川沿いの下水道へ向かった。

 川沿いを下っていくと、証言どおり、大きな横穴がぽっかりと口を開けている。


「……間違いなさそうですね」


 ニーナが足を止め、周囲をひと通り確かめてから言った。

 人気はない。昼間だというのに川沿いは妙に静かで、水の流れる音ばかりが耳につく。


「なんか、すごく臭うぞ……」


「下水道ですから」


 リィのしかめ面に、クラリスが淡々と返す。

 もっとも、クラリス自身も平然としているわけではないらしく、わずかに眉を寄せていた。


 ニーナは小型のランプに火を灯すと、警戒を崩さぬまま先頭に立った。

 三人はそのあとに続き、下水道の中へ足を踏み入れる。中央には濁った水が流れ、その脇に細い通路が伸びていた。


 湿った石壁が、わずかな物音でも大きく跳ね返す。

 ニーナは腰の剣に手をかけたまま、慎重に歩を進めていく。


「本当に、こんなところにイリスはいるのでしょうか」


 クラリスが周囲を見回しながら、小声で言った。


「ロベルト殿も、確信がある様子ではありませんでした」


 ニーナのはっきりした声が、湿った通路に反響する。


「でも、ほかに当てもないんだろ?」


 リィが前を見たまま言う。


「はい。少なくとも、今ある手がかりの中では一番有力です」


 クラリスがそう答えたときだった。


 ふいに、先の方から足音が聞こえた。

 誰かが走る音だ。しかも一人ではない。

 さらに、何かがぶつかるような音まで混じっている。


 三人は同時に足を止めた。


「……何か聞こえます」


 ニーナが低く言う。


「争ってるのか?」


「その可能性は高いですね」


 言葉が終わるより早く、リィは駆け出していた。


「ちょ、リィ様!」


 クラリスが慌てて呼ぶが、止まらない。

 ニーナとクラリスもすぐにそのあとを追った。


 通路を蹴る足音が、狭い下水道に反響する。

 リィが角をひとつ曲がる。さらにもうひとつ先へ進み、そこで視界が開けた。


 広めの空間だった。

 下水道の分岐点らしく、天井も少し高い。


 その中央に、二つの影があった。


 一人はイリスだった。

 息を乱し、青い髪は乱れ、腹のあたりには赤黒い染みが広がっている。


 その正面に立っていたのは、黒い外套をまとった女だった。

 横顔には、狸の面が覗いている。


 女の前には石の矢がいくつも浮かんでいた。

 耳障りな笑い声が、薄暗い空間に響く。


 次の瞬間、その石の矢が一斉にイリスへ向かって放たれた。


 リィは迷わず地を蹴った。

 イリスの前へ滑り込むように割り込み、飛来した石の矢を片端から弾き飛ばす。


「よーし、たぶんお前が悪いやつだな!」


 イリスが、かすかに息を呑む気配がした。

 そこへニーナたちも追いついてくる。


 ニーナは状況を一目で把握すると、即座に斬りかかった。

 狸面の女は後ろへ跳び退き、その手を払う。


 次の瞬間、今度は石礫が宙に生まれ、ニーナへ襲いかかった。

 ニーナは剣でそれを弾き飛ばし、距離を詰めようとする。


 一方、クラリスはすぐにイリスのもとへ駆け寄った。


「しっかりしてください」


 腕を取って支えると、イリスの身体は思っていた以上に軽かった。

 それだけ消耗しているのだと分かる。


「やはり、ローゼンベルク家と繋がっていたか……」


 狸面の女が忌々しげに呻く。


 その周囲に、再び石の矢が浮かび上がった。

 今度は狙いが明確だった。まとめてリィへ向いている。


 リィは一歩も引かず、真正面から駆け出した。

 飛んでくる石の矢を弾き飛ばし、そのまま一気に距離を詰める。


 狸面の女の動きが、一瞬止まった。


「なっ――」


「えいやっ」


 リィの拳が、狸面の女を正面から打ち抜いた。


 女の身体が吹き飛び、下水道の壁へ叩きつけられる。

 鈍い音が響き、そのまま崩れ落ちた。


 リィはすぐに振り返る。


 イリスはもう立っていられなかった。

 腹を貫かれ、血は止まらず、意識も失いかけている。


「大丈夫そうか?」


「かなりの重傷です」


 クラリスがイリスを支えながら答える。


「早く医者に見せた方がいいでしょう」


 その横で、ニーナが狸面の女へ素早く近づき、縄で縛り上げた。

 完全に気を失っているのを確かめてから、こちらを振り向く。


「ひとまず危険はなさそうです」


 クラリスが短く息を吐いた。


「とにかく、別邸へ戻りましょう。ここで長居はできません」


 三人は気を失ったイリスを連れ、急いで下水道をあとにした。


※※※


 イリスの目が覚めたのは、翌朝だった。


 薄く目を開けた先に、黒髪の少女の顔がある。

 ベッドの横に座り込んだリィが、じっとこちらを覗き込んでいた。


「大丈夫か?」


 イリスはまだ状況が飲み込めないのか、ぼんやりとリィを見返す。


「ここは……?」


「アデルの家だ」


 リィはほっとしたように言った。


「クラリスたちを呼んでくる」


 そう言うと、部屋を飛び出していく。

 ほどなくして、クラリスとニーナが部屋へ入ってきた。


 イリスを前にして、三人が集まる。

 クラリスは温かい紅茶を注ぎながら、静かに口を開いた。


「イリスさん。あなたが下水道で襲われているところを助けました。狸面の女は捕縛しています。あなたは重傷でしたので、手当てをしてここへ運びました」


 イリスはしばらく天井を見ていたが、やがて小さく息を吐く。


「そう……ありがとうと言うべきかしらね」


「アデル様の状況はご存じでしょうか?」


「いえ……しばらく一人でしたから」


「あなたを逃がした件で、現在拘束されています。今日これから監査会が行われます」


 クラリスの言葉に、イリスは目を見開いた。

 だが、それも一瞬で、すぐにいつもの笑みが戻る。


「よほどアデルお嬢様が目障りな方がいるみたいですね」


「原因は、あなたを逃がしたことです」


「分かってますよ」


 イリスは苦笑するように言った。


「その監査会……私も出ましょう」


 そう言って起き上がろうとした途端、痛みに顔をしかめる。

 クラリスが慌てて肩を支えた。


「無理しないでください。かなりの重傷ですよ」


「いえ、死にはしないでしょう」


 イリスは息を整えながら答える。


「それより、先に向かっていただきたい場所があります」


「どういうことです?」


「南西区画、旧市壁沿いの屋敷です。帝国間諜の隠れ家があります」


 クラリスとニーナの表情が引き締まる。


「下水道で襲ってきたあの女が戻らないと分かれば、連中は姿を消すかもしれません。今なら、まだ間に合うはずです」


 三人は顔を見合わせた。


 そこへ、リィが口を挟む。


「そこにいるやつらを捕まえてくれば、アデルは助かるのか」


 イリスは少しだけ目を細めた。


「ええ。助けにはなるでしょう」


「わかった」


 リィは迷わなかった。

 クラリスは少し考え込み、それから低い声で言った。


「では、ニーナさんはイリスさんを連れて王宮へ向かってください。私とリィ様で、その屋敷へ向かいます」


 ニーナが頷く。

 イリスも苦しげに息を吐きながら、それに従った。


 こうして、リィたちは二手に分かれることになった。


※※※


 南西区画、旧市壁沿い。

 その一角は、王都の中でも妙に空気が淀んでいた。


 古い石造りの屋敷が、ひっそりと建っている。

 大通りから少し外れた場所にあり、昼間だというのに人通りも少ない。

 窓は固く閉ざされ、人気がないわりに門回りだけが妙に整っていた。


 少し離れた路地の陰から、クラリスが屋敷を見つめる。


「……あれですね」


 隣で、リィは屋敷を見上げた。


「ふつうの家に見えるぞ」


「だからこそ、隠れ家に向いているのでしょう」


 クラリスは低く返す。

 視線は正門、塀、屋根、窓と順に流れていった。


「リィ様。中に人の気配は分かりますか?」


 問われて、リィは鼻をひくつかせた。

 しばらく黙り込み、それから小さく頷く。


「うん。何人かいるぞ。……五人、いや六人かもしれない」


「思ったより少ないですね」


 クラリスは小さく息を吐く。

 そのまま少し黙り込み、屋敷を見つめた。


「では、どうしましょうか?」


 リィが首を傾げる。


「えっ、考えるまでもなく壊して入るんじゃないのか?」


 クラリスは一瞬だけ眉を寄せた。

 だが、今回はその案を否定しなかった。


「……今回は、それで構いません。下手に時間をかけて逃がすよりはましです」


「よし!」


 リィは嬉しそうに拳を握る。

 クラリスは最後にもう一度だけ周囲を確認した。


「私は後ろから入ります。リィ様は正面をお願いします。相手の狙いは証拠の処分か逃走です。取り逃がさないことを優先してください」


「わかった」


 リィは力強く頷いたあと、少し考えてから言い直す。


「全員ぶっ飛ばせばいいんだな」


「……生け捕りが理想ですが、逃がすよりはましです」


 次の瞬間には、リィはもう地を蹴っていた。


 石畳が砕ける。

 小柄な身体が、目にも留まらぬ速さで正門へ突っ込んだ。


「えいやあっ!」


 門扉が、轟音とともに内側へ吹き飛ぶ。

 屋敷の静けさが、一瞬で破れた。


「なっ――!?」


「敵襲だ!」


 中から男たちの怒声が上がる。

 玄関ホールへなだれ込んだリィは、目の前にいた二人組を見つけた。


 一人は剣を抜きかけていた。

 もう一人は懐から何かを取り出そうとしている。


 リィは迷わず床を蹴った。

 剣を抜きかけた男の懐へ一気に入り込み、そのまま腹へ拳を打ち込む。


 鈍い音とともに、男の身体がくの字に折れて吹き飛んだ。


 もう一人が短剣を振るう。

 だが刃は、見えない壁に当たったように止まる。


「うわっ、なんだこれ!?」


 リィはその男の襟首を掴んで持ち上げ、勢いよく床へ叩きつけた。

 玄関ホールに悲鳴が響く。


「もうおしまいか?」


 答える者はいなかった。

 いや、一人だけいた。


 階上に、一人の壮年の男が立っていた。

 こんな状況でも余裕の笑みを浮かべている。


「どこまでも予想外な女だ」


「誰だ、お前は?」


「アドルフ・ノイマン。帝国の人間だ」


 リィはその男――ノイマンを睨みつける。


「お前も悪いやつだな……」


「王国の人間からすれば、そう見えるだろうな」


 ノイマンはリィを見下ろしながら答えた。


「厄介な女だ。だが、こちらもこのままやられるわけにはいかない」


 そう言って、手の中のものを持ち上げる。

 黒い鎖だった。


「帝国の呪具『黒牢の鎖』という。かつて、竜さえ封じたことがある」


 階上から鎖が投げ放たれる。

 黒い鎖は蛇のようにうねりながら、リィへ向かって飛んできた。


 リィは反射的に身を引く。

 だが、鎖はなおも追いすがってくる。


「なんだこれ!?」


 リィが走る。

 だが鎖は生き物のように軌道を変え、執拗に追いかけてきた。


 ついに鎖がリィの腕へ絡みつく。

 そこから一気に、全身へ巻きついていく。


「むむむ……!」


 リィは力を込める。

 だが、鎖はびくともしなかった。


「お前ごときでは破れまい。これを破れたのは、かつての勇者くらいのものだ」


 ノイマンは笑いながら階段を下りてくる。

 そのまま、身動きの取れなくなったリィの前に立った。


「悪いが、このまま逃げさせてもらうぞ。お前は殺すには惜しい。アデル・ローゼンベルクには死んでもらうがな」


 その言葉に、リィの顔つきが変わった。

 ぎり、と鎖が軋む。


「……アデルは殺させないぞ」


 ノイマンが眉をひそめた、そのときだった。

 黒い鎖に、ひびが入る。


「な――」


「うりゃああっ!」


 次の瞬間、鎖が弾け散った。


 ノイマンが振り返る。

 その顔には、あからさまな驚愕が浮かんでいた。


「まさか……黒髪黒目……そうか、お前、勇者の末裔か」


「違う」


 リィは一歩踏み出した。


「僕は黒竜ヴァルの娘、リィだ」


 床石が砕ける。

 次の瞬間には、その姿はノイマンの目の前にあった。


 渾身の拳が、ノイマンの胸を正面から打ち抜く。


 鈍い衝撃音とともに、ノイマンの身体が宙を飛ぶ。

 背後の壁へ叩きつけられ、石壁に大きなひびが走った。


 崩れ落ちたノイマンは、かすれた息を漏らしたきり動かない。

 屋敷は、一瞬で静まり返った。


 そのとき、クラリスが奥から姿を現した。床に伸びた男たちとノイマンをひと目で見回す。


「帝国との関係を示す証拠は、いろいろとありそうです」


 リィはそこでようやく拳を下ろした。


「……じゃあ、アデルを助けられるんだな」


 クラリスは一瞬だけ手を止め、それからはっきりと頷いた。


「ええ。この男の身柄と証拠があれば、大きな助けになるはずです」


 その言葉を聞いた瞬間、リィの張りつめていた肩から、ふっと力が抜けた。


「そっか」


 短くそう答えると、リィはその場にぺたりと座り込む。

 さっきまでの勢いが嘘みたいに、どっと疲れが押し寄せてきた。


「……本当に、無茶ばかりなさいますね」


 クラリスはそんなリィを見て、わずかに息をついた。

 屋敷の外では、ようやく駆けつけてきた治安隊の足音が響き始めていた。

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