二十九話
王宮の騒動がようやく収まったのは、すでに日が傾いてからだった。
イリスの証言。南西区画の屋敷から押収された書類。
ノイマンの身柄、そしてレオノーラ・グレイソンの動揺。
ひとつひとつが積み重なり、もはや誤魔化しきれないところまで来ていた。
アデルへ向けられていた追及はいったん止み、代わって監察の矛先はグレイソン家と、その周辺へ向いている。
もちろん、それですべてが明らかになったわけではない。
ジークフリートがどこまで知っていたのか。
帝国と王国内通者の繋がりが、どれほど深いのか。
まだ見えていないものは多かった。
それでも、監査会の広間を出たとき、アデルはようやく肺の奥に溜め込んでいた息を吐き出した。
たった一日しか経っていないはずなのに、何日も閉じ込められていたような気がする。
「アデル」
呼ばれて振り向くと、廊下にコンラートが立っていた。
怪我が癒えているはずもないのに、背筋だけはいつも通りまっすぐだ。
「父上」
その一言を口にした瞬間、張りつめていたものが少しだけほどけた。
コンラートは娘の顔を見つめ、やがて低く言った。
「……よく耐えた」
短い言葉だった。
けれど、余計な飾りがないぶんだけ、まっすぐ胸に落ちてくる。
「父上こそ、ご無理を」
「無理をしたのは、お前も同じだ」
厳しいようでいて、声はどこかやわらかかった。
その少し後ろでは、ディートリヒが珍しく隠しきれない安堵を滲ませている。
さらにその隣には、テオパルトの姿もあった。
「宰相殿には助けられました」
アデルが頭を下げると、テオパルトはわずかに肩をすくめた。
「礼なら、イリス嬢にも言っておくといい。あの場で戻ってこなければ、もう少し面倒なことになっていた」
「……そうですね」
そう答えながらも、胸の奥は複雑だった。
助けられたのは事実だ。
けれど、イリスの罪が消えるわけではない。
敵でありながら、あの少女は確かにこちらへ手を伸ばしてきた。
そのことを、今すぐ綺麗に割り切ることはできそうになかった。
「アデル!」
勢いよく飛び込んできた声に、廊下の空気が少しだけ軽くなる。
リィだった。
その後ろには、呆れたような顔のクラリスと、静かなニーナが続いている。
「アデル、大丈夫だったか!」
迷いなく抱きついてくるのを、アデルは苦笑しながら受け止めた。
「ええ。なんとかね」
「なんとかじゃないぞ。閉じ込められてたんだろ」
頬を膨らませて怒るリィに、ディートリヒが小さく吹き出す。
コンラートも咎めはしなかった。
その真っすぐな怒りが、今は不思議なくらいありがたかった。
アデルはリィの頭をそっと撫でる。
「ありがとう。あなたが動いてくれたおかげよ」
クラリスが一歩前へ出る。
「屋敷から押収した書類と、ノイマンの身柄は監察へ引き渡しました。グレイソン家に対する調査も、これから本格化するはずです」
「ご苦労だった」
コンラートが頷く。
ニーナも短く頭を下げた。
「イリスは現在、監察側で保護と拘束を受けています。命に別状はありません」
「そう……」
アデルは小さく目を伏せた。
この件は、誰か一人を捕まえれば終わるような話ではない。
王宮の窓から差し込む夕陽が、長い影を床へ落としていた。
テオパルトが窓の外へ視線を向けたまま、静かに言う。
「王都の火は、ひとまず抑えられた。だが、帝国はそうもいかん」
その一言で、場の空気が変わった。
アデルは顔を上げる。
「戦況が……」
「まだ予断を許さぬ。解除薬が届いたことで持ち直しはしたが、帝国がこれで終わるとは思えん」
コンラートの横顔は、もう父のものではなく軍務卿のものだった。
「内通者を潰したからといって、戦そのものが消えるわけではない」
アデルはゆっくりと拳を握った。
「……休んでいる暇は、なさそうですね」
そう言うと、ディートリヒが苦笑した。
「せめて今夜くらいは休め。さすがに今回は、お前も疲れた顔をしている」
長い一日だった。
廊下の先では、文官や兵たちがまだ慌ただしく行き交っている。
アデルは窓の外に滲む夕焼けを見つめ、そっと目を細めた。
※※※
もっとも、アデルの罪が完全に消えたわけではなかった。
独断でイリスを逃がしたのは、事実だからだ。
だが、イリスは戻ってきており、王国への協力姿勢も見せている。
加えて、レオノーラやノイマンが公爵家を陥れようとしていたことも明るみに出た。
そうした事情も酌まれ、結果としてアデルに下されたのは三か月の謹慎だった。
学園へ戻るのは、しばらく先になりそうである。
アデルは私室で、クラリスの淹れた紅茶を飲んでいた。
部屋の中は静かで、窓から差し込む夕暮れの色が床にやわらかく伸びている。
リィは退屈そうに、アデルのベッドの上でごろごろしていた。
ときおり寝返りを打っては、こちらをちらちら見てくる。
アデルはしばらく、そんなリィを眺めていた。
「ねえ、リィ」
声をかけると、リィがすぐに起き上がる。
「どうした、アデル?」
「もし嫌でなければ、樹海に戻ってもいいのよ。黒竜たちを襲った者は捕まったわ」
そこで一度、言葉を選ぶように間を置く。
「帝国との緊張は続いているけれど……それは、私たち人間の側の問題だもの」
アデルがそう言うと、リィは何を言われたのか分からないような顔をした。
それから、みるみるうちに悲しそうな表情になる。
「アデルは、僕と一緒にいるのが嫌なのか?」
今にも消え入りそうな声だった。
アデルは慌てて首を振る。
「いえ、そんなことはないわ。あなたと一緒にいると楽しいもの」
それから、少し困ったように笑う。
「ただ、あなたまで巻き込みたくないの。もちろん、公爵家が守るつもりではいるけれど……樹海にいた方が、あなたには穏やかに暮らせるのかもしれないでしょう?」
リィがむくれた顔をした。
「それなら大丈夫だ。僕はそんなこと気にしないし、悪い奴がいたらぶっとばす」
「そう……それならいいのだけれど」
アデルは紅茶の残るカップを見つめる。
琥珀色の表面に、窓からの光が揺れていた。
「私のために、無理をしてほしくないだけよ」
リィはベッドから飛び降りると、ためらいなくアデルのもとへ駆け寄ってきた。
そのまま、ぎゅっと抱きしめてくる。
上目づかいで、まっすぐアデルを見上げた。
「アデル。アデルは……僕のこと、大好きか?」
「ええ、まあ……リィのことは大好きよ」
アデルは照れくさくなりながらも答える。
するとリィは、ぱっと嬉しそうに笑った。
次の瞬間、リィがアデルの頬へちゅっと口づける。
「僕もアデルのことが大好きだ。これからも一緒にいよう」
「……わかったわ。よろしくお願いね」
アデルは顔が熱くなるのを感じながら、そう答えた。
帝国との戦争は、まだ終わっていない。
王都の火種も、すべて消えたわけではない。
きっとこれからも、さまざまな騒ぎに巻き込まれるのだろう。
けれど、差し込む夕暮れの中で感じるリィの体温は、驚くほどあたたかかった。
不器用で、まっすぐで、時々あまりにも無茶で。
それでも、隣にいてくれるだけで心が少し軽くなる。
どんな嵐がまた来ようとも。
この手の温もりを知ってしまった今なら、きっと乗り越えていける。
アデルはいつものように、そっとリィの頭を撫でた。
窓の外では、暮れゆく空の向こうに、夜の気配が静かに満ち始めていた。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
また続きを書くかもしれませんが、ひとまず区切りのよいところまで書けたので、一旦完結とさせていただきます。
もっと筆力があれば、さらに丁寧に描けたのではないかと思う部分もありますが、まずはここまで書き切れたことを嬉しく思っています。
これからも何かしら書き続けていくつもりですので、またお付き合いいただけましたら幸いです。




