二十六話
アデルの名乗りが終わると、広間に短い静寂が落ちた。
最初に口を開いたのは、監察卿補佐官エーヴェルトだった。
痩せた指先で机上の書類を整え、感情の見えない声音で告げる。
「それでは、アデル・ローゼンベルク嬢に関する監査を始めます」
淡々とした口調だった。
そこに好悪はない。ただ、手続きを進める者の顔だった。
「本件は、王国に敵対する間者の逃亡を幇助した疑い、ならびにそれに付随する一連の不審行動について、事実関係を確認するものです」
そこで一度、視線を上げる。
「まずは、本人の口から説明をいただきたい」
アデルは背筋を伸ばしたまま、静かに頷いた。
エーヴェルトは書類をめくる。
「間者を逃がした事実については、あなた自身がすでに認めておられます」
「認めます」
アデルははっきりと言った。
「ですが、それは王国に害をなすためではありません」
その言葉を、別の声が遮った。
「彼女なりの正義感、というやつだろう」
ジークフリートだった。
椅子の背にもたれ、余裕ありげな笑みを浮かべている。
「昔からそういうところがあった。自分が正しいと信じれば、周囲がどうなろうと気にしない」
コンラートの目が鋭くなった。だが、まだ口は開かない。
アデルは感情を表に出さず、ジークフリートではなくエーヴェルトへ向き直った。
「私情で動いたわけではありません」
「では、順を追ってお話しください」
エーヴェルトが促す。
アデルは息を整えた。
「以前から、ローゼンベルク家の中に内通者がいることを疑っていました。そうした中で、屋敷内で殺人事件が起きたのです」
広間の空気がわずかに揺れる。
「被害者はエステル。内通者として疑っていた者の一人でした」
文官たちの間に、小さなざわめきが走った。
エーヴェルトはそれを無視して問いを重ねる。
「その時点で、イリス・ラヴァンにも容疑がかかっていたのですね?」
「ええ。ただし、殺人の実行犯ではありません」
「では、実行犯は誰です?」
「ロベルトという我が家の料理人です。治安隊にはすでに引き渡されています」
エーヴェルトは細い目をさらに細めた。
「ロベルトを引き渡したのなら、なぜイリスも同時に引き渡さなかったのです?」
「その時点では、イリスには殺人に関する明確な証拠がなかったからです。軟禁はしていましたが、あくまで公爵家内での独自判断でした」
「なるほど」
エーヴェルトは書類に目を落とした。
「そして、そのイリスをあなたは後に解放した」
「はい」
「理由は?」
アデルは一拍だけ置いた。
「北東部の戦況です。父と兄が前線にいる中、帝国軍が新薬によって歩兵を強化しているという情報が入りました」
その場にいた何人かの顔色が変わる。
だが、エーヴェルトだけは表情を動かさない。
「その新薬と、イリス解放に関係が?」
「ありました。ロベルトが捕縛時に使用した薬が、帝国の新薬と同種ではないかと思ったのです」
「ロベルト本人からは聞き出せなかった?」
「薬を渡されたことしか知らなかったのです。入手経路も、詳しい中身も分からない。だから、イリスに聞く必要がありました」
「それで、話さないから逃がしたと」
「ええ。新薬の情報と引き換えに、一時的に解放しました」
広間が静まり返る。
エーヴェルトは視線を上げた。
「つまりあなたは、正式な手続きを経ず、自分の判断だけで帝国の間者を野に放った」
アデルはその言葉から逃げなかった。
「結果だけを言えば、その通りです」
そこへ、ジークフリートがまた口を挟む。
「ずいぶんと素直に認めるじゃないか、アデル」
その笑みには嘲りがあった。
「だが、認めたところで変わりはしない。王国法を無視した独断だ」
コンラートが低く言った。
「殿下」
広間の空気が一気に張りつめる。
「ここは戯れの場ではありません。発言にはお気をつけいただきたい」
ジークフリートは冷たく笑った。
「公爵。娘可愛さに、ずいぶん余裕がないようだ」
「父としてではなく、王国の臣として申し上げております」
コンラートは一歩も引かない。
「北東の戦場で何が起きていたか、殿下もご存じのはずだ。新薬の情報が王国軍に必要だったのは事実でしょう」
エーヴェルトが、二人の間に言葉を差し入れた。
「必要性があったことと、手段の妥当性は別です。今ここで問うているのは、その点です」
落ち着いた声だった。
だが、議論をあえて原点へ引き戻す意図も明確だった。
アデルは前を見たまま口を開く。
「では、逆に伺います」
エーヴェルトの眉がわずかに上がる。
「私があの場でイリスを治安隊へ引き渡し、正式な手続きを待っていたとして、新薬への対抗は間に合ったのでしょうか」
広間が静まり返った。
「その間にも、北東では兵が死にます。父も兄も、王国兵も、対策のないまま怪物のような敵と戦わされることになる」
エーヴェルトは即座に返した。
「それは結果論です」
「結果論ではありません」
アデルも譲らない。
「戦時下においては、迅速さが優先される局面もあります」
レオノーラが、そこでおずおずと口を開いた。
「……でも」
皆の目がそちらへ向く。
彼女は怯えたように肩をすくめ、恐る恐る続けた。
「理由がどうであれ、間者を逃がしたこと自体は事実ですよね? それが許されるなら、皆が自分勝手な判断をしてしまうのではありませんか……」
か細い声だった。だが、場を揺らすには十分だった。
文官たちの表情が再び硬くなる。
アデルはレオノーラをまっすぐ見た。
「ええ。その通りね」
レオノーラの目が、ほんの一瞬だけ揺れる。
「本来なら、あの形を取るべきではなかったと思うわ」
広間の空気がわずかに変わった。
アデルは言葉を継ぐ。
「だからこそ、私はここで自分の判断について説明しているの。責任から逃げるつもりはない」
そこで一度、視線を巡らせる。
「けれど、秩序を守るために動かず、その結果として多くの兵が死んでいたなら――それもまた罪でしょう」
沈黙が落ちた。
レオノーラはもう何も言えなかった。
エーヴェルトは再び口を開く。
「あなたは、自分の判断が危ういものであったことは認めるのですね」
「ええ」
「それでも必要だった、と」
「はい」
「そして、イリスが戻ると信じた」
「……信じました」
エーヴェルトはその答えを聞いて、静かに頷いた。
「しかし現時点で、そのイリスは戻ってきていない」
その言葉が、広間に重く落ちる。
「つまりあなたの判断は、成功したからよかったのであって、失敗していれば国家の危機を拡大させていた可能性もある」
アデルは唇を結んだ。
それは否定できない。
「……はい」
逃げずに答える。
「私はイリスを信じました。そこに賭けました」
ジークフリートが、そこでゆっくりと身を起こした。
「聞いただろう、エーヴェルト殿」
その声音は柔らかい。だが、冷えきっていた。
「彼女は法や手続きを無視し、自分の判断を優先した」
「判断です」
アデルは即座に返す。
「感情で動いたわけではありません」
「結果として何に基づくものであれ、王国の秩序を踏み越えた事実は変わるまい」
ジークフリートはわずかに笑った。
「王族として、それを見過ごすわけにはいかない」
エーヴェルトは慎重に言葉を選んだ。
「現時点で明らかなのは、アデル嬢が独断で間者を解放したこと。そして、それに一定の軍事的成果が伴ったことです」
そこで一度区切る。
「問題は、それをどのように量るかでしょう」
ジークフリートは待っていたかのように言った。
「王国法において、内通者の逃亡幇助は重罪だ。違うか?」
「……通常であれば、無期懲役もあり得ます」
エーヴェルトの答えに、場が凍る。
ジークフリートは静かに続けた。
「今回、情状酌量の余地があるとしても、軽くはできまい。二十年か、三十年といったところか」
その言葉を聞いた瞬間、広間の空気が一気に沈んだ。
アデルは表情を崩さなかった。
だが、その年数は鉛のように胸へ沈んだ。
テオパルトが静かに口を開く。
「殿下」
それだけで、場の視線がそちらへ集まる。
「まだ監査の途中です。処分の話を先に定めるのは、いささか早計でしょう」
ジークフリートが視線だけを向けた。
「本人は独断を認めている。それでも早いと?」
「独断であったことと、どう裁くかは別問題です」
テオパルトの声音は穏やかだった。
「しかも今回は、軍事的成果が明白にある。単純に罪状だけを積み上げて済む話ではありますまい」
ジークフリートの笑みが、わずかに薄くなる。
「宰相閣下は、ずいぶんとアデル嬢に甘いようだ」
「甘いのではなく、拙速を戒めているのです」
テオパルトは一歩も引かなかった。
「北東の戦況は、まだ予断を許しません。ここで性急な処分を下し、それが公爵家や軍の動揺を招けば、王国全体に響く」
エーヴェルトは沈黙した。
痩せた指で書類の端を揃え、しばし考え込むように目を伏せる。
広間のあちこちで、押し殺した囁きが広がった。
そのときだった。
不意に扉が開き、ざわめきがぴたりと止まった。
先頭に立っていたのはニーナだった。
彼女は広間の中央へ進み出ると、深く一礼する。
そして、その後ろから現れた姿を見て、アデルはわずかに息を呑んだ。
イリスだった。
広間の視線が、一斉に彼女へ集まる。
ニーナが、はっきりとした声で告げる。
「エーヴェルト様、アデル様。イリス・ラヴァンをお連れしました」
広間が静まり返った。




