二十五話
コンラートが痛む身体を押して駆け回り、ようやく宰相に会えたのは、王都から数刻離れた街だった。
宰相テオパルトは、見るからに顔色が悪かった。
「フェルディナが、帝国に落ちた」
憂鬱そうな声で、テオパルトが告げる。
フェルディナ王国は、カルディア王国の北に接する友好国だった。
エルンシュタイン帝国はすでに大陸東部を制圧している。フェルディナまで奪われれば、カルディア王国は帝国に大きく囲まれる形になる。
「北の警戒を、さらに強めねばならぬな」
「アイゼンハルト伯爵領への侵攻を、ようやく退けたばかりだというのに」
自然と話は、帝国への備えに移っていた。
テオパルトとコンラートは、しばし王国防衛について言葉を交わす。
だが、コンラートはひとつ息を吐き、意識を切り替えた。
「――それで、コンラート殿はどうしてこんなところに?」
テオパルトに問われ、コンラートは頷いた。
「そうだった。こちらにも急ぎの用件がある」
つい先ほどまで軍人として帝国の話をしていたが、今はそれどころではない。
「テオパルト殿。最近のジークフリート殿下の動きは、ご存じか?」
「ここ数週間、王国内を飛び回っておられたが……殿下がどうかしたのか?」
「アデルとの婚約破棄を申し出られた」
「なんと……」
テオパルトの表情が、はっきりと固まった。
コンラートはそのまま続ける。
「それに加えて、アデルに殺人未遂と、間諜逃亡幇助の疑いまでかけている」
「それで、アデル殿はどうなったのだ?」
「監察省と近衛省に拘束されている。もちろん、殺人などやっておらんし、間諜逃亡の件にも理由がある。王国を守るための判断だった」
「……新兵器の件か」
「ああ」
コンラートは短く頷いた。
「とにかく、殿下は明らかに暴走している。止められるのは、テオパルト殿か、陛下くらいのものだろう」
テオパルトは険しい顔のまま、すぐに答えた。
「わかった。今すぐ王都へ向かおう。まさか、そんなことになっているとは思わなかった」
そうして、テオパルトとコンラートは急ぎ王都へ向かった。
※※※
王都へ戻る道中、コンラートはほとんど口を開かなかった。
アデルは自分の身を危険に晒してまで、王国を救おうとした。
それなのに、その功を讃えるどころか、罪を着せて拘束する。どう考えても理が通らない。
王都へ入る頃には、空はすっかり暮れていた。
それでも二人は休まず、そのまま王宮へ向かう。
コンラートたちが監察側との面会を求めると、現れたのは監察卿補佐官エーヴェルトだった。
「どうなさいました、このような時間に」
丁寧な口調だった。
だが、その目には温度がない。
コンラートは低く言う。
「アデルの件だ。解放してもらう」
「それは難しいですな。少なくとも、彼女自身が間者を逃がしたことは認めておられます」
「帝国に与するためではない。戦に勝つためだ」
「それを判断するのが、我々の仕事です」
エーヴェルトは、コンラートの迫力にも動じなかった。
テオパルトが横から口を挟む。
「今回の件には、ジークフリート殿下が介入していると聞いたが」
「ええ。殿下を通じて、近衛卿の方から回ってきた案件です」
「殿下はアデル嬢に婚約破棄を申し出ている。個人的な感情で動いている可能性が高い」
エーヴェルトは肩をすくめた。
「ですが、だからといって監察の調査まで左右されるわけではありません。先ほども申し上げた通り、アデル様は逃がした事実そのものは認めておられるのです」
「では、問題がないと分かれば解放すると?」
「明日には監査会が行われます。ジークフリート殿下も出席なさいますが、裁き自体はあくまで公正になされるはずです」
コンラートたちは黙り込んだ。
「それまで待て、ということか」
「勾留はしておりますが、粗雑には扱っておりませんよ」
それが慰めになると思っているのか。
コンラートは奥歯を噛みしめたが、ここで怒鳴っても事態は動かない。
「……わかった」
短く吐き捨てるように言う。
エーヴェルトはわずかに一礼した。
「ご理解いただけて何よりです」
これ以上ここにいても無意味だった。
二人は監察省を後にする。
王宮の回廊を歩きながら、テオパルトが小さく息を吐いた。
「監査会とやらも、どこまで公正なものか分からん」
コンラートは答えず、拳を握りしめた。
アデルをすぐに救い出せない苛立ちが、胸の内で燻っている。
「申し訳ない。ジークフリート殿下にも、あらためて話をしてみる」
「よろしく頼む」
コンラートはテオパルトに頭を下げた。
そしてそのまま、痛む身体を引きずるようにして別邸へ戻った。
※※※
翌日、テオパルトはジークフリートのもとへ向かった。
フェルディナ陥落の件もあり、結局ほとんど眠れぬまま、仕事に追われていた。
王宮の朝は早い。
まだ陽も高くないというのに、回廊には侍従や文官たちが慌ただしく行き交っている。
そんな中でも、第一王子の私室へ続く一角だけは妙に静かだった。
まるで外の騒ぎとは無縁だと言わんばかりに、空気がよどんでいる。
取次を受け、通された部屋の中では、ジークフリートが優雅に茶を飲んでいた。
傍らには見慣れぬ令嬢がいる。何度か見かけたことはあった。レオノーラ・グレイソンだ。
少し離れた位置には、近衛のバルクも控えている。
「おや、宰相閣下。朝から珍しいですね」
ジークフリートは笑みを浮かべた。
その声音は穏やかだが、どこか薄気味悪い。
テオパルトは一礼だけを返し、まっすぐ本題に入った。
「アデル・ローゼンベルクの件で参りました」
レオノーラの肩が、わずかに揺れる。
ジークフリートはそれを横目で一瞥し、わざとらしく首を傾げた。
「殿下のお考えを伺いたいのです」
テオパルトは感情を乗せずに言った。
「婚約破棄、殺人未遂、間諜逃亡幇助――いずれも、この戦時下にしては随分と手際がよろしい」
ジークフリートの目が、わずかに細くなる。
「王族として、不穏分子を見逃すわけにはいきません」
「不穏分子、ですか」
テオパルトは繰り返した。
「帝国の新兵器への対抗手段を探るために動いた者を、そのように?」
「結果として、間者を逃がしたのは事実です」
ジークフリートは平然としている。
「王族たる者、情に流されて判断を誤るわけにはいきませんから」
「情に流されているのは、殿下の方では?」
「……どういう意味でしょう?」
「アデル嬢に、含むところがないとおっしゃるので?」
室内の空気が、かすかに冷たくなる。
ジークフリートは笑みを崩さない。
「感情で物事を判断したりはしない」
「そもそも、公爵家を敵に回しては王位も危ういですぞ」
ジークフリートは冷たく笑った。
「僕が、いつ王位を欲していると言いました? 守れるものを守れればそれでいい。僕でなくとも、マクシミリアンが王になれば済む話です」
「殿下が守るべきは、この国です。王位が揺れれば国もまた荒れますぞ」
ジークフリートとテオパルトが、しばし無言で睨み合う。
やがてジークフリートが先に口を開いた。
「どちらにせよ、このあと監査会がある。その結果を待とうではないか」
「もちろん、私も出席させていただきます。ですが、荒れますぞ。どのような結果になろうと、殿下もこのままではいられますまい」
「覚悟はしているよ」
テオパルトは深く頭を下げることもなく、ただ静かに頷いた。
「それを聞いて安心しました。そのお言葉、どうかお忘れなきよう」
それだけを残し、テオパルトは部屋を出た。
※※※
アデルが監禁されてから、一日が経った。
扉が開き、近衛騎士団副官のバルクが姿を現す。
「これより、監査会が行われます」
低く通る声だった。
アデルは寝台から静かに立ち上がった。
「……そう」
短く返し、裾の乱れを整える。
バルクは扉の脇に控えたまま、無言でその様子を見守っていた。
濃い色の髪はきっちりと撫でつけられ、軍服にも皺ひとつない。
一見すれば実直な軍人だ。だが、その目には冷たいものがあった。
「監査会はエーヴェルト殿が主導されます。アデル様は、問われたことにお答えいただければ結構です」
「わかったわ」
アデルが頷くと、バルクは一礼だけして廊下へ出るよう促した。
部屋の外には近衛兵が二人立っている。
王宮の回廊には朝の光が差し込んでいた。
窓の外には整えられた庭と、きらめく噴水。穏やかな朝だ。
けれど、アデルにはそれが別の世界の景色のように思えた。
歩くたび、靴音が石床に響く。
バルクは半歩前を歩き、振り返らない。
やがて、ひときわ大きな扉の前で足が止まった。
近衛兵が扉に手をかける。
重い音を立てて、扉がゆっくりと開いた。
その向こうには、長机が据えられた広間があった。
正面には監察側の人間たち。壁際には文官たちが控えている。
宰相テオパルトに、コンラートの姿もあった。
そして、第一王子ジークフリート。
なぜか、その傍らにはレオノーラまでいる。
視線が一斉にアデルへ集まった。
けれど、アデルは足を止めない。
背筋を伸ばし、堂々と歩く。
会場の中央まで進むと、バルクが一歩下がった。
「アデル・ローゼンベルク嬢をお連れしました」
その声が、広間に静かに落ちる。
バルクはそのままジークフリートの後ろにつき、控えるように立った。
アデルはゆっくり顔を上げる。
ジークフリートと目が合った。
小さく息を吸い、礼を取る。
「アデル・ローゼンベルクです」
声は震えていなかった。
こうして、アデルの監査会が始まった。




