第52話 フィニアス逃亡
夜は、やけに静かだった。
風がない。
ーーいや、違う。
抑えられている。
あの家にいると、時々そういう瞬間がある。
風の流れそのものが、何かに遠慮しているみたいに止まる。
「……」
フィニアスは、軒先に寄りかかったまま、目を閉じた。
思い出すのは、あの子だ。
リリベット。
まだ幼いはずの、あの目。
何も知らない顔で、全部見ているような目。
ーーあれは、人間の子供の目じゃない。
トーマスの件が、頭から離れない。
あれは偶然じゃない。
生半可な魔法じゃ起きない。
しかも、あの場で。
あの子が、そこにいて。
「……関わりすぎたな」
吐き出した言葉は、やけに軽かった。
その実感だけが重い。
自分は、どこまで踏み込んだ?
どこからが、戻れない領域だった?
風の貴婦人が、背後でわずかに揺れる。
<今さら、ですか?>
皮肉でも、責めでもない。
ただ、事実を告げる声音。
「うるせぇよ」
短く返す。
だが否定はしない。
分かっている。
あの子はーー
放っておいていい存在じゃない。
だが同時に、
関わっていい存在でもない。
「……笑えねぇな」
守るだの、見届けるだの、そんな言葉は簡単だ。
だが、それを選んだ瞬間、自分はあの子の内側に入ることになる。
あれの内側に。
あの静かな、底の見えないものの中に。
ーー冗談じゃない。
フィニアスは、ゆっくりと視線を上げる。
視線の先には、あの家の扉。
開ければ、あの子がいる。
何も変わらない顔で、こちらを見るだろう。
そしてたぶんーー
止めない。
「……だろうな」
確信に近い感覚があった。
あの子は、引き留めない。
泣きもしない。
ただ、『そういうものだ』と受け取る。
それが分かるから、余計に厄介だ。
「……最悪だ」
思わず、笑いが漏れた。
逃げる理由はいくらでも並べられる。
手に負えない。
領分じゃない。
全部、本当だ。
ーーでも、それだけじゃない。
「……怖えんだよ」
ぽつりと落ちた言葉は、風にも乗らなかった。
あの子が、何になるのか。
あのまま育ったら、どこへ行くのか。
そしてーー
自分が、それにどこまで巻き込まれるのか。
それが、分からない。
分からないものに踏み込むほど、
自分は出来た人間じゃない。
「……だから、ここまでだ」
それでいい。
そう決めるしかない。
フィニアスは、扉に背を向けた。
足は、迷わない。
一歩、二歩。
砂を踏む音が、やけに大きく響く。
止まらない。
止まれば、多分戻る。
戻れば、終わりだ。
「……」
それでも、一度だけ。
本当に一度だけ、振り返った。
家は静かだった。
ーー見ている。
何も言わずに。
「……悪いな」
届かない声で、そう言った。
ただの自己満足だ。




