第50話 その夜
その夜、騒ぎが起きた。
ノアラの孫ーートーマスが、消えた。
理由は、分からない。
ついさっきまで、乳を飲んで眠っていた。 リオーネが、ほんの少し目を離した、その間に。
いなくなった。
窓は閉まっている。 鍵も、かかっていた。
扉も同じだ。
壊された形跡はない。 争った跡もない。
ただーー
いない。
それだけだった。
「……は?」
思わず、声が漏れる。
ありえない。
ここはエラドーラだ。 銀の森に隣接した、神殿騎士の町。
結界は幾重にも張られている。 見張りもいる。
それを、どうやって。
俺は、ふと視線を上げた。
窓。
閉まっている。 だが。
ーーわずかに、風が動いた。
冷たくも、強くもない。 ただ、通った痕だけが残るような。
触れられた。
壊されてはいない。 拒まれてもいない。
ただーー
通られている。
「……なんだ、これ」
知らない。
光の魔法使いの術式じゃない。
もっと粗い。 だが、強引に道を作る。
そんな力。
外では、もう人が集まっていた。
灯りが増える。 声が重なる。
「トム!!」
リオーネの声が、裂ける。
ノアラも、叫んでいる。
さっきまでの家じゃない。 ただの家族の声だった。
俺は、扉の前で立ち止まる。
出るか、一瞬だけ迷う。
だが。
腕の中の重みが、それを止めた。
リリベットは、眠っている。
さっきと同じ顔で。 何も知らないみたいに。
小さく、呼吸している。
変わらない。
外の騒ぎとは、何も繋がっていないみたいに。
「……お前は」
低く呟く。
返事は、ない。
当たり前だ。
それでも。
昼間のことが、引っかかる。
乳を吸わなかった。
泣きもしなかった。
ただ、見ていた。
それだけ。
もう一度、窓を見る。
風は、もう動いていない。
痕だけが、残っている。
まるで。
最初から、そこに道があったみたいに。
「……違うな」
リリベットを見る。
軽い。静かだ。 何もしていない。
なのに。
何かを引き寄せていた気がする。
向かっていた先はーー
「……お前、か」
言葉にして、すぐに消す。
証拠はない。
繋がりもない。
ただの勘だ。
外で、怒号が上がる。
「結界を調べろ!!」
「誰が通した!?」
神殿騎士の声だ。
動きが早い。
もう、時間はない。
ここにも来る。
腕の中の温度が、わずかに上がる。
リリベットは、眠ったまま。
何も知らない顔で。
ただ。
その呼吸だけが、やけに静かだった。
「……クソが」
俺は、低く吐き出す。
嫌な予感だけが、残る。
外から来た。
『そいつは、リリベットを連れていくつもりだった』
それだけは、分かる。




