第49話 リリベットの性
神殿の監査官に、『観測対象』と呼ばれた赤子。
俺は、新生児の世話なんてしたことがない。
どうすればいいのか分からず、しばらく立ち尽くしてーー思い出した。
乳母だった、ノアラのことを。
俺の母親は、体型が崩れるのを嫌って、俺を産んだあとすぐに手放した。 育てたのは、あの女だ。
確か、エラドーラ町で所帯を持ったはずだが。
「まあーー! フィニ!?」
扉を開けた瞬間、変わらない声が飛んできた。
「大きくなったと思ったら結婚してたなんて……あの噂は嘘だったのかい?」
舌打ちが出る。
口だけは昔のままだ。
「怒った? 顔に出るとこも変わらないね」
勝手に笑って、勝手に中へ通す。
変わっていない。
……はずなのに。
ノアラの視線が、一度だけ、俺の腕の中で止まった。
ほんの一瞬。
何も言わずに、逸らす。
気のせいだと思った。
「母さん、誰か来たの?」
奥から声がする。
「あんたの乳兄弟の兄さんだよ。ロイル家のフィニアス」
返事がない。
少しだけ、間があった。
それから、足音。
扉の向こうで、止まる。
「……娘か?」
俺か、聞く。
「そう。一ヶ月前に男の子を産んだばかりだよ」
何気ない会話。
そのはずだった。
俺は、腕の中の重みを持ち上げる。
「ちょうどいい。頼む」
リリベットを差し出す。
「こいつに乳をーー」
言いかけて、気づく。
こいつは。
寝てるか、泣くか。
それだけで。
一度も、何かを欲しがったことがない。
腹が減ってる様子もない。 喉が渇いた様子もない。
ただーー
そこにいる。
「……腹、減ってんだろ」
確認みたいに呟く。
目を落とす。
相変わらずの無表情。
視線だけが、こちらを見ている。
「ノアラ、頼む。乳、やってくれ」
「あいよ。待っとくれ。今、孫のトーマスにやってるからね」
軽い返事。
奥の部屋へ入っていく。
少しして。
声が、止まった。
赤子の泣き声も。
何も聞こえない。
「……?」
眉をひそめる。
静かすぎる。
普通なら、泣く。
腹が減っていれば、なおさらだ。
だが。
音が、消えている。
妙な間。
やがて、ノアラが戻ってくる。
リリベットを抱いたまま。
その顔に、笑みはある。
いつも通りの。
だがーー
ほんのわずかに、引きつっていた。
「……どうした?」
何気なく聞く。
ノアラは、一拍置いてから答えた。
「……吸わないね」
「は?」
「口に含ませても、吸わない」
軽く言う。
いつもの調子で。
だが、目が笑っていない。
「でも、嫌がってるわけでもない」
視線が、リリベットに落ちる。
「ただ……」
言葉を切る。
「……見てるだけだ」
沈黙。
フィニアスは、ゆっくりと腕を伸ばす。
「貸せ」
リリベットを受け取る。
軽い。
相変わらず、何も変わらない。
目を開けている。
泣かない。
欲しがらない。
ただーー
こちらを見ている。
「……クソが」
低く吐き出す。
腹が減らない赤子なんて、聞いたことがない。
なのに。
こいつは、生きている。
呼吸している。
体温もある。
なのに。
必要としていない。
その事実が、じわりと背筋を冷やした。




