第45 アルデバランの農夫
その日。
アルデバランの貧しい農夫の家に、神殿からの使いが訪れたことをーー誰も知らない。
小さな家だった。
風が吹けば、壁が軋む。
冬を越えるだけで精一杯の暮らし。
戸を叩く音に、農夫は顔を上げた。
現れたのは、見慣れぬ衣。
神殿の紋章。
膝が、勝手に折れる。
「……此度の件について、問う」
短い言葉。
だが逃げ場はない。
農夫は、何も答えられない。
いや、答える言葉がなかった。
知っている。
何を問われているのか。
視線が、無意識に外へ向く。
森の方角。
何も、なかったはずの場所。
沈黙が落ちる。
「……子は」
神官が、淡々と続ける。
「どこに捨てた」
農夫の肩が、震えた。
言い訳は、用意していない。
正当化する気も、もうない。
「……食えなかった」
掠れた声。
「冬が、越せねぇ」
それだけだった。
神官は、表情を変えない。
理解も、同情も、ない。
「位置は確認済みだ」
ただ、事実だけを告げる。
農夫は、顔を上げない。
見てはいけない気がした。
「……生きて、いましたか」
絞り出すように。
神官は、一瞬だけ間を置きーー
「回収した」
それだけ言った。
生死には、触れない。
農夫の指が、土を掴む。
爪の間に入り込む。
それでも、顔は上げない。
上げられない。
「処罰はない」
意外な言葉だった。
農夫の肩が、わずかに動く。
「……は?」
「神殿命令だ」
それ以上の説明はない。
神官は、踵を返す。
来た時と同じように、静かに去っていく。
残されたのは、風だけだった。
農夫は、しばらく動かなかった。
やがて。
ゆっくりと、息を吐く。
安堵か。
それとも。
分からない。
ただ。
森の方角だけは、最後まで見なかった。




