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第8話 人との距離

 私はカーテンから光が差し込む少しだけ暖かな部屋のベッドの上にいた。

 仰向けでスマートフォンをいじる。少し気を抜くと、顔の上に落ちてきそうだ。

 

 料理教室のイベントを見つけたのは、何かを探していたわけじゃなかった。

 スマートフォンを眺めていて、たまたま目に入った。

 別に、実家のことがきっかけで寂しくなったわけではない。成り行きだ。


 ——初心者歓迎。

 ——1人参加OK。


 その言葉だけが、少し浮いて見えた。


 料理は得意じゃない。

 包丁を持つと、どうしていいか分からなくなる。

 火加減も、味付けも、正解が見えない。


 いつも簡単な料理ばかり。温めるだけ。炒めるだけ。煮るだけ。

 なるべく、切るとか、下準備がいるとか、そういう工程を避けた料理で暮らしている。

 

 でも、だからこそ行ってみようと思った。

 うまくできなくても、最初から期待されていない場所なら、少しは楽かもしれない。


 会場は、駅から少し歩いたビルの一室だった。

 ドアを開けると、すでに何人か集まっている。


 「こんにちはー」


 スタッフの明るい声に、反射的に会釈をする。咄嗟に声は出なかった。

 名前を書いて、エプロンを受け取る。


 周囲を見渡すと、年齢も性別もばらばらだった。

 友達同士で来ている人もいるし、明らかに一人参加の人もいる。


 私は、壁にいちばん近くて出入り口にいちばん近い場所に立った。


 「今日は簡単なパスタを作りましょう」


 講師の人が説明を始める。

 包丁の持ち方、野菜の切り方。

 どれも一度は見たことがあるはずなのに、頭に入ってこない。


 班に分かれて作業することになった。

 四人一組。


 「よろしくお願いします」


 そう言われて、「お願いします」とだけ返す。それだけで、少し疲れる。


 「じゃあ、玉ねぎ切りますね」

 「トマトは私やります」


 自然に役割が決まっていく。私は、空いたままだった。


 「……あ、じゃあ私は、何をすれば」


 自分から言葉を出すと、少し遅かった。

 変な間があいた後、ひとりの女性が返事をした。


 「じゃあ、混ぜるのお願いしていいですか?」


 ボウルを渡される。それだけで、ほっとした。

 混ぜるだけなら、失敗しにくい。


 言われた通りに、スプーンで中身を回す。

 どれくらい混ぜればいいのか分からない。

 早すぎるのか、遅すぎるのかも判断できない。


 「もう少し強めでもいいかも」


 そう言われて、少し力を入れる。


 「うん、そんな感じ」


 褒められたわけでもないのに、緊張で上がっていた肩に少しだけ、力が抜ける。


 隣の人たちは、楽しそうに話している。


 「普段よく料理するんですか?」

 「いや、全然。でもイベント好きで」


 私は、会話に入らない。入れない、の方が近い。

 力み過ぎたのか、薄ら汗である。


 誰も私を無視しているわけじゃない。

 ただ、話す理由がない。話題がない。輪に入れない。


 完成した料理を、みんなで皿に盛る。

 見た目は、思ったよりちゃんとしていた。


 「いただきます」


 一口食べる。

 美味しい、と思った。

 自分が関わったものが、作ったものが、こんなに美味しいと感じられるのは、少し不思議だった。


 「料理、初めてなんですか?」


 向かいの人に聞かれて、少し迷ってから答える。


 「……苦手、です」


 「そうなんだ。でも、全然そんな感じしなかったですよ」


 そう言われて、どう返せばいいか分からなくなる。

 ありがとうございます、と言うのも、違う気がした。


 イベントが終わる頃には、みんな少し打ち解けた空気になっていた。


 「また参加します?」

 「予定合えば、ぜひ」


 そんな会話が交わされる。


 私は、黙ってエプロンを返す。


 帰り際、スタッフの人に言われた。


 「今日はありがとうございましたー!」


 私は小さく頭を下げて、外に出た。


 夕方の空気が、ひんやりしている。

 人と一緒にいたはずなのに、胸の奥が静かだった。


 楽しくなかったわけじゃない。

 嫌なこともなかった。


 でも、そこに私の居場所があったかと言われると、分からない。


 料理は、結局最後まで「分かった」とは言えなかった。

 混ぜ方も、味の決め方も。


 人との距離も、たぶん同じだ。


 部屋に戻ると、電気をつける。

 静かで、誰もいない。


 さっきまでの賑やかさが、嘘みたいだった。


 冷蔵庫を開けて、何も取らずに閉める。

 今日はもう、何も作りたくなかった。


 小腹が空いているけれど、心が満たされている。

 

 ベッドに座って、手のひらを見る。

 さっきまで、スプーンを握っていた感触が、もう消えている。


 誰かと何かを作る時間は、確かに存在した。でも、それは一時的なものだった。

 私はまた、一人に戻る。それが悪いことだとは思わない。思わないようにしている。


 でも、心の奥で、少しだけ思ってしまった。

 混ぜ方が分からないままでも、一緒にいられる場所があったらいいのに。

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