第9話 空気のような人
1月の大学は、音が少ない。
新学期が始まったばかりだというのに、廊下には人影がまばらで、空気が乾いている。わかるよ、寒いと外に出たくないよね。
私は掲示板の前で立ち止まり、何度も同じ紙を読み返していた。
「絵画サークル 初心者歓迎 自由制作」
初心者歓迎、という言葉に少しだけ安心して、自由制作、という言葉にさらに背中を押された。話すのが苦手でも、絵を描いていれば許される気がした。絵は一人で完結できるから。
サークルの活動場所だという部屋の扉を開けると、すでに数人が集まっていた。暖房の効いた空気と、絵の具とお菓子の匂い。誰かが笑いながら話している。
「この前の展示、結構人来てたよね」
「センセーが珍しく褒めてた」
私は入口で軽く会釈をしたけれど、誰もこちらを見なかった。無視されたというより、存在していないみたいだった。
入っていいのかな。もしかして新歓の時期ではないから、募集していないのかも。
そう思ったが、仕方なく空いている机を探し、端の席に座る。
画材を広げると、自然と手が動いた。白い紙に鉛筆を走らせる。今日描くものは決めていなかったけれど、線を引いていると、頭の中が静かになる。周りでは、誰かが誰かの絵を覗き込んでいる。
「その色の重ね方いいね」
「前よりだいぶ安定してきたじゃん」
声は聞こえるけれど、私のところには来ない。自分の絵が、透明な膜に覆われているみたいだった。
途中で、どうしても気になることがあって、勇気を出して口を開いた。
「あの、そのペンって……どこで買ったんですか」
一瞬、会話が止まり、近くにいた先輩らしき人が顔を上げた。
「あー、それは各自で調べてるかな。自分に合うやつ。画材屋とか?」
それだけ言って、すぐに隣の人の絵に視線を戻した。間違ったことは言われていない。でも、続きはなかった。
私は「そうですか」と小さく言って、また紙に向き直る。鉛筆の音だけがやけに大きく聞こえた。
ちらちらと私の様子を窺いながら小さな声で話す声が聞こえる。
「あんな子いたっけ?」
「さあ」
「いつからいたんだ……」
「誰も知らないの?」
時間が過ぎ、片付けの雰囲気になる。
「お疲れさまー」
「次、いつだっけ?」
帰り際、誰かがそう言った。私にも聞こえる声だったけれど、私を呼ばれることは最後までなかった。
外に出ると、冷たい空気が頬に刺さった。肩にかけた鞄が、さっきより重い。サークルに入った、という実感はなかった。ただ、そこに一度座って、絵を描いて、帰ってきただけ。
私は歩きながら思った。
話せなかったのではない。話す必要のない存在だったのだ。
キャンパスの木々は葉を落とし、枝だけを空に伸ばしている。私も、ああいうふうに立っているのかもしれない。折れてはいないけれど、誰にも触れられないまま。空気みたいに。




