第7話 居場所のない部屋
翌日、親戚は予定通りやってきた。
玄関が開く音、聞き慣れない靴の音、少しだけ大きくなる家の中の気配。
母は急に機嫌がよくなる。
声の高さも、笑い方も、昨日とは別人みたいだった。
「久しぶり〜」
「元気にしてた?」
私は台所と居間を行き来しながら、言われたことをこなす。
お茶を出して、料理を並べて、空いた皿を下げる。
「大きくなったね」
誰かがそう言った。
私の方を見てはいたけれど、私を見てはいなかった。
「大学どうなの?」
「それなりです」
それ以上、話は広がらない。
興味があるようで、実際にはない。私も話を深めるつもりはない。
父は相変わらず無言で、母はよく喋る。
弟も親戚の前では行儀がいい。
「お姉ちゃん、しっかりしてるから助かるでしょ」
親戚たちは笑いながら言う。
母は、そうなのよ、と私の肩を叩く。
私は何も言わない。
言えないのではなく、言っても意味がないと知っている。
昔からそうだった。
怒鳴られていても、無視されていても、親戚たちは見ないふりをした。
「家族なんだから」
「親も大変なのよ」
そう言われて終わる。
私は湯気の立つ急須を持ちながら、自分が透明になったような気がした。
ここにいるのに、存在していない。
食事の後、親戚たちは特に何事もなかったように帰っていった。
玄関が閉まると、家の中の空気が一気に重くなる。
母の機嫌も、元に戻る。
「もういいから、帰りなさい」
その言葉は、許可ではなく放逐だった。
「わかった」
そう言うと私は鞄を持ち、行ってきますとか、何も言わずに家を出る。
母も父も弟も、誰ひとり私を引き止める人はいなかった。
電車に乗る。
窓に映る自分の顔は、少し疲れて見えた。窓から見える景色も霞んでいた。
大学近くに借りている自分の部屋に戻ったのは、日が暮れた後だった。
ドアを閉めても、外の音が遠く感じる。家に帰ってきたはずなのに、まだ身体の一部が向こうに置いてきたままのような気がした。
鞄を床に置いて、上着を脱ぐ。
服を洗濯機に入れる気力もなく、そのままベッドに腰を下ろした。
誰もいない。
分かっていることなのに、確認するみたいに部屋を見渡してしまう。
実家では、常に誰かの声があった。
怒鳴り声、テレビの音、命令する声、呆れた声、馬鹿にする声。
今は何もない。
静かなはずなのに、胸の奥がざわつく。
煩さに慣れていたのかもしれない、と少し怖くなる。
スマートフォンを手に取る。
通知はない。
分かっていても、指が勝手に画面を更新する。
誰かから連絡が来る理由なんて、何もない。
それでも、何度も確認してしまう。
冷蔵庫を開けると、冷たい空気が頬に当たった。
買い置きしていたヨーグルトを取り出して、スプーンで食べる。味がしない。
テレビをつけてみる。
人の笑い声が流れてくる。
すぐに消した。
誰かの楽しさを、今は受け止められなかった。
髪をとかすために鏡の前に立つ。
染めた色は、部屋の照明の下では少し沈んで見える。
あの美術館で見た絵は、もっと自由だった。
線も色も、誰の許可も取っていなかった。描きたいものを描いた自由な絵。
私は、今も誰かの許可を待っている気がした。一人でいても、まだだめな気がした。
ベッドに横になる。
天井を見つめる。
ここは安全なはずの場所なのに、胸の奥が冷たい。いつもの場所なのに。
誰かに会いたい、と思う。
でも、誰に会いたいのか分からない。
名前も顔も浮かばない「誰か」。
話しかけてくれて、否定しない存在。私のことを好きな人。
そんな都合のいい人間が、現実にいないことは知っている。
だから、余計に寂しい。夢を見て過ごしたかった。
窓の外は、もう暗くなっていた。
カーテンを閉めるのを忘れたまま、街の灯りを見る。
ひとりでいることには慣れている。
でも、ひとりでいることに、平気になったわけじゃない。
胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたみたいだった。
そこに風が吹き込んで、音を立てる。
私はその音を聞きながら、目を閉じた。
何かが足りない。
でも、それが何なのかは、まだ分からなかった。
音も、気配も、言葉もない。
誰かに会いたい。
でも、会いたい相手が思い浮かばない。
助けを求める先がないことに、今さら気づく。
私はひとりだ。最初から。
部屋の静けさが、肌にまとわりつく。
逃げ場だったはずの場所で、孤独が形になる。
それでも、ここにいるしかなかった。どこにも居場所なんてないのだから。




