第5話 髪を染めた私
髪を染めようと思ったのは、美術館から帰った日の夜、布団に入った時だった。
展示室で見たイラストが、頭から離れなかった。
帰り道、駅のガラスに映った自分の髪は、いつも通りの色だった。
変でもなければ、良くもない。生まれた時から同じ真っ黒の髪。少しくせっ毛。
部屋に戻り、鏡の前に立つ。明るい照明の下で見る自分は、外で見るより少しだけ鮮明だった。前髪を指でつまんで持ち上げる。髪の重さは変わらない。触り心地も、昨日と同じだ。
別に、今の自分が嫌いなわけじゃない。
ただ、何も変わらないことに慣れすぎている気がした。
翌日、ドラッグストアでヘアカラーリング剤を買った。棚にはたくさんの色が並んでいたけれど、手に取ったのは一番地味な箱だった。明るすぎず、黒にも戻せそうな色。ただ、少し紫色。黒に近い紫。箱のモデルの笑顔は見ないようにして、成分表だけを確認して買った。
帰り道、私の心はすこしだけわくわくしていた。いつもより足取りも少し軽かった、気がする。
家に帰って、床に新聞紙を敷く。説明書を読む。手袋をはめる。混ぜる。
うまくできるか不安だったけど、全部、一人でできる作業だった。初めてだけど、案外楽しいな。
染料の匂いが少し強くて、鼻の奥に残った。鏡に映る自分の頭の生え際に保護クリームを塗っていく。染まりにくいところから順番に、染料を塗る。ムラにならないように、根元から、丁寧に。鏡を頼りにして見ても、後ろは見えないから、ほとんど手探りだった。多少失敗しても、誰かに見せる予定はないし、と思ったら、思い切りよく塗れた。
ラップを巻いたらタイマーをセットして、そのまま床に座る。
待ち時間は、思っていたより長かった。
美術館の展示を思い出す。あのイラストに何を考えていたのだろう。何も考えていなかったのかもしれない。人物を描いていないのかもしれないし。考えているように見えていただけで。
私は、自分が何を期待しているのか分からなかった。
髪を染めたら何かが変わるとは、最初から思っていない。それでも、何もせずにいるよりは、ましな気がした。
タイマーが鳴る。
浴室で髪を洗い流す。水の色が少しだけ変わって、すぐに透明に戻る。シャンプーとトリートメントをして、タオルで拭く。
ドライヤーで乾かす間、鏡を見る勇気はなかった。
音だけが部屋に響く。
乾かし終えて、ようやく顔を上げる。
そこにいるのは、昨日とほとんど同じ私だった。
でも、よく見ると違う。光の当たり方で、少しだけ色が変わる。黒ではない。かといって、誰かが気づくほどでもない。美術館で見たような青みのある暗い色には、ほど遠かった。
期待しすぎたわけじゃない。
それでも、少しだけ肩の力が抜けた。
翌日、外に出る。
駅まで歩く。電車に乗る。誰も何も言わない。誰ひとり、私を見ていない。当たり前だけど、誰も私の髪が変化したことには気づかない。車内の窓に映る自分の髪は、前より少しだけ違って見えたけれど、それを確認しているのは私だけだった。
外は明るい。明るいと思っていたより髪が真っ黒ではなくなっていることが分かる。
ほんのり紫、のような気がする。
それでいい、と言い聞かせる。これは誰のためでもない。
変わったことを知っているのが、自分だけでも。
それでも、確かに変えたのだから。
その事実を胸に抱いて、私は髪を見せびらかすように、少しだけ遠回りに散歩して家に帰った。




