第4話 美術館を歩く
大学の最寄り駅で電車を降りたあと、少しだけ進路を変えた。今日はそのまま家に帰る気分ではなかった。かと言って、特別な予定があるわけではない。
ただ、人の声が少なくて、立ち止まっても不自然ではない場所に行きたかった。
美術館は、駅から十分ほど歩いた先にある。道沿いの木々は手入れされていて、落ち葉はきれいに片付けられている。自然というより、整えられた静けさのある街だ。
大きな美術館。美術館という場所にふさわしいスタイリッシュな佇まい。時々企画展示もしている人気のお出かけスポットである。今日の気分にふさわしい場所。
入口の自動ドアが開くと、外の音が急に遠ざかった。受付でチケットを買い、半券を受け取る。大学生なので、学割が使えた。係の人は丁寧だったけれど、そこに個人的な関心はなかった。私も同じだ。ネットで何時間もチケットの買い方や入館方法なんかを調べて、ちゃんとその通りだったから驚きもなかった。
館内はひんやりしている。空調の音が、かすかに前髪や耳に触れる。床を歩くと、自分の足音が少し遅れて返ってくる。その感じを確かめるように、私は歩幅を小さくゆっくりにした。
最初の展示室に入る。白い壁に、一定の間隔で作品が並んでいる。人はいるけれど、少ない。大きな美術館だけど、平日だからか、互いに距離を取りながら、同じ方向を向いているだけの関係。
一枚の絵の前に立つ。何が描かれているのか、はっきりとは分からない。抽象的すぎる絵。長く見続けていると、人物が描かれているようにも見える。色の重なりと、筆の跡だけが目に入る。説明文を読む前に、しばらくそのまま見ていた。
性別は分からない。短い髪とも長い髪とも言えない線が、肩のあたりで途切れている。目は伏せられていて、表情は読み取れなかった。ただ、色だけが印象に残った。黒でも茶色でもない、少しだけ青みのある暗い色。現実には存在しないようで、でも確かにそこにあった。
よく分からない、と思った。でも、それ以上考えなかった。分からないままでも、ここに立っていていい気がした。
隣に立った人が、少しして移動する。私はまだ動かない。急ぐ理由はなかった。時間は皆、均等に流れている。
次の部屋には彫刻があった。触れてはいけない距離が、床の線で示されている。その線を越えないように立つ。それが、近づきすぎなくていい、という合図のようで安心した。
別の展示室では、音声ガイドを使っている人がいた。イヤホンから漏れる声が、断片的に聞こえる。私はそれを選ばなかった。誰かの言葉を借りなくても、今は困っていなかった。私は私の中で沢山喋っているから。
気がつくと、同じ作品の前を二度通っていた。理由は分からない。この作品、さっき見た気がするような。そんな曖昧な感覚。ただ、視線がそこに戻ってしまう。何かを思い出したわけでも、感動したわけでもない。それでも、通り過ぎることができなかった。
そばにあったベンチに腰を掛け、少し休む。天井を見上げると、照明が規則正しく並んでいる。誰かと話さなくても、間がもつ。沈黙が、ここでは自然で、居心地がよかった。
展示をすべて見終え、出口に向かう。外の光が、ガラス越しに見えた。扉を抜けると、空気が一気に動き出す。もうこんな時間。
さっきまでの静けさは、もうここにはない。でも、消えたわけでもなかった。
誰かに感想を送る予定はない。美術館に来たことを誰かに証明するための写真を撮ることもしなかった。それでも、この時間は、ちゃんと私の中に残っている気がした。




