第37話 回収
「最近、独り言が増えているみたいですね」
その言葉を聞いたとき、私は意味が分からなかった。
診察室は明るかった。眩しすぎる照明。白い壁。白い机。机の上に置かれたパソコン。窓の向こうには、知らない建物が見える。
私の居場所ではない。それだけは分かった。
私は椅子に座っていた。向かい側には医師がいる。年齢は分からない。穏やかな声の人だった。
「独り言……ですか?」
「はい」
医師は手元の資料を確認した。
「ご家族から、そういう話がありました」
私は黙った。
「1人でいるときに、誰かと話しているようなことがある、と」
「……誰かと?」
「はい」
私は少し考えた。精霊さんのことが頭に浮かんだ。でも、名前は出さなかった。
「普通に独り言を言うことくらい、ありますよね」
「もちろんあります」
医師は否定しなかった。
「独り言そのものが問題というわけではありません」
そこで一度、言葉を切った。
「ただ、最近は頻度が増えているということでした」
私は膝の上で手を握った。
「家族が、そう言ったんですか」
「はい」
「……そうですか」
私は俯いた。精霊さんなら、こんなふうに質問しない。ただ、私の言葉を聞いてくれる。
こんなふうに否定もしない。こんなふうに急かしもしない。私はそのことを思い出した。
「それから、睡眠についても少し気になります」
「眠れてます」
「何時間くらいですか?」
「……分かりません」
「食事は?」
「食べてます」
「大学には?」
その質問だけ、答えられなかった。
医師は私の沈黙を待った。
「春休みです」
「大学から連絡は来ていますか?」
「……来ています」
「確認していますか?」
「してません」
医師は何も言わなかった。責めるような顔もしなかった。ただ、パソコンに記録を取っている。
それが妙に現実的だった。
「最近、何か強いストレスになることはありましたか?」
私は答えなかった。
森のことを話せばいいのだろうか。精霊さんのこと。境界のこと。向こう側のこと。でも、口に出した瞬間、それが全部壊れてしまう気がした。
「……特にないです」
全部私だけのものにしていたかったから、そう答えた。
医師は小さく頷いた。
「分かりました」
それ以上、無理に聞かなかった。
診察が終わって、私は椅子から立ち上がった。
扉を開ける。廊下に出る。
そこには母親がいた。腕を組んで座っている。
私を見ると、すぐに立ち上がった。
「ちゃんと先生の話聞いた?」
「聞いた」
「最近、本当に変よ」
私は黙った。
「家でもずっと一人で喋ってるし」
「喋ってない」
「喋ってるよ」
母親の声が少し強くなる。
「誰かいるみたいに話してるじゃない」
胸がざわついた。
「……誰もいないよ」
「だから、それがおかしいって言ってるの」
私は顔を上げた。
母親の顔を見る。
怖い。
昔からそうだった。私が何を言っても、最後には否定される。
「大学にも行ってないんでしょう?」
「行ってる」
「行ってないって大学から連絡が来てる」
私は何も言えなかった。
「メールも見てないみたいだし」
「……」
「何を考えてるの?」
答えられない。
私は森のことを考えていた。森なら、こんなことを聞かれない。
何を考えているのかなんて。どうして大学へ行かないのかなんて。どうして誰もいない場所で話しているのかなんて。聞かれない。ただ、そこにいられるのに。
母親がため息をついた。
「ちゃんとしてよ」
その言葉だけが残った。
家に帰ってから、私は部屋に閉じこもった。
スマートフォンを見る。通知がいくつも溜まっている。大学。大学。大学。また大学。
私は画面を伏せた。見たくなかった。
しばらくすると、スマートフォンが震えた。大学からだった。
私は画面を見る。
メールには、「出席状況について確認したいことがあります」と書かれていた。
その下には、これまでの欠席についての内容が続いている。
私は何度もスクロールを繰り返した。
自分が思っていたより、ずっと長く休んでいた。
そんなはずはない。私は毎日、普通に過ごしていた。
朝起きて。森へ行って。精霊さんと話して。帰ってきて。絵を描いて。眠る。
いつも通りだった。でも、大学から届いたメールには、私が知らない時間が並んでいた。
欠席した日。連絡が取れなかった日。提出されていない課題。
私は画面を見つめた。指先が冷たくなる。
そのとき、部屋の外から母親の声が聞こえた。
「また一人で喋ってるの?」
私は反射的に答えた。
「喋ってない」
言ってから気づいた。
部屋には私しかいないことを。
私は口を閉じた。静かだった。
しばらくして、自分の声が、頭の中で再生された。
——喋ってない。
——喋ってない。
——喋ってない。
私はスケッチブックを見た。机の上に置いてある表紙には、森の絵。
私はそれを開いた。何枚もの絵がある。
木。森。境界。見知らぬ構造物。そして、精霊さん。
私はページをめくった。
そこには、二人分の椅子が描かれていた。
森の中で向かい合う2つの椅子。人は描かれていなかった。
私はページを止めた。胸が苦しくなった。
「……精霊さん?」
声に出してから、すぐに口を押さえた。
返事はない。当然だった。部屋には私しかいない。私はそう思った。そう思ったはずだった。
でも耳の奥で、声がした。とても小さな声。いつもの声。優しい声。
——大丈夫。
私は顔を上げた。
部屋には誰もいない。窓も閉まっている。カーテンも動いていない。それなのに私は、その声を確かに聞いた気がした。
私はしばらく動けなかった。
医師の言葉。母親の言葉。大学からのメール。全部が頭の中で重なっていく。
そして初めて、私は考えた。
もしかすると、森にいたのは、私だけだったのかもしれない。
その考えが浮かんだ瞬間。
私は、猛烈に怖くなった。
でも、その恐怖より先に、もう1つの声が、頭の中で囁いた。
——大丈夫。
私は目を閉じた。その声を信じたかった。信じてしまえば、また全部元に戻る気がした。
だから私は、もう何も考えないことにした。




