↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
37/39

第36話 静寂

 次の日も、森はそこにあった。


 昨日と同じ場所。同じ木。同じ土。同じような空。私は森の入口に立って、それを眺めていた。


 昨日、境界を見た。確かに見た。空気が揺れていて、向こう側があった。


 そう思った。


 でも今日は何もない。私は少しだけ拍子抜けした。


 森の中へ入る。


 足元の土は湿っている。靴の裏に泥がつく。枝が服に引っかかる。葉が頭に落ちてくる。どれも、昨日までと変わらない。


 鳥の声がした。遠くで何かが鳴いている。風が吹いて、木々が揺れる。


 私は立ち止まった。


 普通の森だった。あまりにも普通だった。


 昨日のことが嘘みたいだった。


 私はいつもの場所へ向かった。精霊さんがいた場所。何度も座った場所。


 そこには何もなかった。当然だった。もう、精霊さんはいない。


 私は切り株のような場所に腰を下ろした。しばらく何もせず、木々を見ていた。


 何も起きない。空の色も変わらない。音が歪むこともない。変な建物もない。境界もない。ただの森。


 私は少し笑った。


 「……なんだ」


 誰に言うでもなく呟く。

 昨日まで、ここには特別なものがあると思っていた。


 世界と世界の境目。向こう側への入口。精霊さんがいる場所。自分だけが知っている秘密の場所。そう思っていた。


 でも、森は何も言わない。私が何を考えているのかも知らない。昨日何があったのかも知らない。私がここで何度泣いたのかも。誰かと話したと思っていたことも。ここに何を求めていたのかも。何も知らない。


 ただそこにある。木は立っている。草は伸びている。土は濡れている。いつも通りだった。


 私は空を見上げた。雲がゆっくり動いていた。その動きに意味があるように思えた。でも、きっと意味なんてないんだろう。


 ただ風が吹いているだけ。私はそう思った。


 それなのに、しばらくすると、また考えてしまう。


 この森には、何かある。昨日見たものは、確かに存在した。

 私が見た。私が感じた。だから、なかったことにはできない。


 誰かに証明する必要もない。私が知っていればそれでいいと、私はそう思った。


 森の中を歩く。昨日見つけた場所へ向かう。


 でも、どこだったのか分からない。同じような木が並んでいる。同じような道が続いている。


 私は何度も方向を変えて歩き続けた。


 ただ、いくら歩いても見つからない。境界は、どこにもない。


 私は立ち止まった。


 「昨日は、ここだった」


 なんとなく、そう言ってみる。


 返事はない。当然のことだけど、私は少しだけ寂しくなった。

 でも、すぐに考え直した。


 見つからないだけだ。なくなったわけじゃない。見えなくなっただけ。そう思えばいい。


 私は森の奥を見る。何もない。それでも、私はそこに何かがあるような気がした。


 見えないものを信じることは、難しくなかった。だって私は、ずっとそうしてきた。

 誰にも呼ばれない声を聞いた。誰もいない場所で会話をした。誰にも見えないものを見た。そのすべてを、私は本当だと思っていた。


 だから今日も、何もない森を見ながら、ここには何かがあると思う。


 森は何も答えない。肯定もしないし、否定もしない。ただ、風が吹く。枝が揺れる。葉が落ちる。

 私はその音を聞きながら、目を閉じた。少しだけ眠くなった。静かだった。


 この場所では、何も求められない。何も取り繕わなくていい。私はこの森で、ただ座っていればいい。それだけで、少し安心した。


 森には、私を必要とする理由なんてない。私がいなくても、何も困らない。

 私が帰っても、私が戻ってきても、私がここで泣いても、笑っても森は何も変わらない。それでも私は、この場所に意味を見つけていた。それが少し可笑しかった。


 世界は、私のために存在しているわけではない。それは森も同じだ。

 それなのに私はこの森を、いつの間にか自分だけの場所だと感じていた。


 目を開ける。目の前に木がある。何百年も前からそこにあったのかもしれない。


 昨日もあったし、今日もある。きっと明日もその先もずっとあるのだろう。私がいなくなったあとも。


 私はその木を見つめた。そして、少しだけ笑った。


 「また来るね」


 返事はなかった。


 風だけが吹いて、その風が肌に触れるのを感じた。


 私は立ち上がった。


 森は何も変わらない。何も起こらない。何も私を待っていない。それでも、私だけはここに意味を持たせることができた。それが、今の私にとっては十分な静寂だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。