第36話 静寂
次の日も、森はそこにあった。
昨日と同じ場所。同じ木。同じ土。同じような空。私は森の入口に立って、それを眺めていた。
昨日、境界を見た。確かに見た。空気が揺れていて、向こう側があった。
そう思った。
でも今日は何もない。私は少しだけ拍子抜けした。
森の中へ入る。
足元の土は湿っている。靴の裏に泥がつく。枝が服に引っかかる。葉が頭に落ちてくる。どれも、昨日までと変わらない。
鳥の声がした。遠くで何かが鳴いている。風が吹いて、木々が揺れる。
私は立ち止まった。
普通の森だった。あまりにも普通だった。
昨日のことが嘘みたいだった。
私はいつもの場所へ向かった。精霊さんがいた場所。何度も座った場所。
そこには何もなかった。当然だった。もう、精霊さんはいない。
私は切り株のような場所に腰を下ろした。しばらく何もせず、木々を見ていた。
何も起きない。空の色も変わらない。音が歪むこともない。変な建物もない。境界もない。ただの森。
私は少し笑った。
「……なんだ」
誰に言うでもなく呟く。
昨日まで、ここには特別なものがあると思っていた。
世界と世界の境目。向こう側への入口。精霊さんがいる場所。自分だけが知っている秘密の場所。そう思っていた。
でも、森は何も言わない。私が何を考えているのかも知らない。昨日何があったのかも知らない。私がここで何度泣いたのかも。誰かと話したと思っていたことも。ここに何を求めていたのかも。何も知らない。
ただそこにある。木は立っている。草は伸びている。土は濡れている。いつも通りだった。
私は空を見上げた。雲がゆっくり動いていた。その動きに意味があるように思えた。でも、きっと意味なんてないんだろう。
ただ風が吹いているだけ。私はそう思った。
それなのに、しばらくすると、また考えてしまう。
この森には、何かある。昨日見たものは、確かに存在した。
私が見た。私が感じた。だから、なかったことにはできない。
誰かに証明する必要もない。私が知っていればそれでいいと、私はそう思った。
森の中を歩く。昨日見つけた場所へ向かう。
でも、どこだったのか分からない。同じような木が並んでいる。同じような道が続いている。
私は何度も方向を変えて歩き続けた。
ただ、いくら歩いても見つからない。境界は、どこにもない。
私は立ち止まった。
「昨日は、ここだった」
なんとなく、そう言ってみる。
返事はない。当然のことだけど、私は少しだけ寂しくなった。
でも、すぐに考え直した。
見つからないだけだ。なくなったわけじゃない。見えなくなっただけ。そう思えばいい。
私は森の奥を見る。何もない。それでも、私はそこに何かがあるような気がした。
見えないものを信じることは、難しくなかった。だって私は、ずっとそうしてきた。
誰にも呼ばれない声を聞いた。誰もいない場所で会話をした。誰にも見えないものを見た。そのすべてを、私は本当だと思っていた。
だから今日も、何もない森を見ながら、ここには何かがあると思う。
森は何も答えない。肯定もしないし、否定もしない。ただ、風が吹く。枝が揺れる。葉が落ちる。
私はその音を聞きながら、目を閉じた。少しだけ眠くなった。静かだった。
この場所では、何も求められない。何も取り繕わなくていい。私はこの森で、ただ座っていればいい。それだけで、少し安心した。
森には、私を必要とする理由なんてない。私がいなくても、何も困らない。
私が帰っても、私が戻ってきても、私がここで泣いても、笑っても森は何も変わらない。それでも私は、この場所に意味を見つけていた。それが少し可笑しかった。
世界は、私のために存在しているわけではない。それは森も同じだ。
それなのに私はこの森を、いつの間にか自分だけの場所だと感じていた。
目を開ける。目の前に木がある。何百年も前からそこにあったのかもしれない。
昨日もあったし、今日もある。きっと明日もその先もずっとあるのだろう。私がいなくなったあとも。
私はその木を見つめた。そして、少しだけ笑った。
「また来るね」
返事はなかった。
風だけが吹いて、その風が肌に触れるのを感じた。
私は立ち上がった。
森は何も変わらない。何も起こらない。何も私を待っていない。それでも、私だけはここに意味を持たせることができた。それが、今の私にとっては十分な静寂だった。




