第35話 入口
森へ行くつもりはなかった。
少なくとも、家を出たときには。
ただ歩きたかった。どこか遠くへ行きたかった。大学でもなく、家でもなく、人のいる場所でもないところへ。
気づけば、森の入口に立っていた。
私はしばらく、そこを見ていた。
以前なら、少し迷ったと思う。入るべきか。帰るべきか。
精霊さんに会えるだろうか。ううん、今日は違った。
もう誰かに会いたいわけではなかった。精霊さんがいるかどうかも分からない。
それでも、私は森の中へ入った。
誰にも呼ばれていないし、誰の声も聞こえない。道を教えてくれる人もいない。
ただ、自分の足で歩いた。
最初は、いつも通った道だった。見覚えのある木。曲がった枝。少しだけ開けた場所。
それらを全部通り過ぎる。
さらに奥へ。
今までなら、精霊さんがいる場所で立ち止まっていた。でも今日は止まらなかった。
その先へ進む。
道はなくなった。それでも歩いた。何度も来たはずなのに、見たことのない景色が増えていく。
木々の間隔が狭くなる。空が見えなくなる。音が少なくなる。私は自分の足音を聞いていた。
一歩。また一歩。不思議なくらい静かだった。
ひとりでも怖くなかった。むしろ、安心していた。
誰もいない。何も言われない。何も求められない。私は自分でここまで来た。それでよかった。
どれくらい歩いたのか分からない。時計を見ることもしなかった。スマートフォンは鞄の中に入れたままだった。必要ないと思った。
やがて、木々の向こうが明るくなった。森を抜けるのかと思った。
でも、違った。そこには何もなかった。道も。建物も。空き地も。
ただ、境目だけがあった。
そう見えた。
目の前の空間が、薄く揺れている。空気が揺れているのではない。景色そのものが、ほんの少しだけずれている、ような。
向こう側がある。
そう感じた。
何があるのかは見えない。けれど、そこに何かがあることだけは分かった。
私はまた、一歩近づいた。
空気が変わった。冷たい。それなのに、どこか温かい。森の匂いがする。でも、いつもの森とは違う。もっと遠い場所の匂い。ずっと昔から知っていたような匂い。
私は手を伸ばしかけた。指先が境目に近づく。
その瞬間。
音が消えた。完全な静寂だった。
自分の呼吸も聞こえない。心臓の音も聞こえない。世界そのものが、息を止めたようだった。
私は伸ばしかけた手を下ろし、目の前を見る。
そこには何もない。はずなのに、確かに入口があった。
ここから先に行けば、もう戻れない。直感でそう思った。
誰かに言われたわけではないし、精霊さんもいない。あの人物もいない。何の声もない。ただ、自分の中にその言葉があった。
私は笑いそうになった。結局、最後まで自分ひとりだった。精霊さんに連れてきてもらったわけじゃない。誰かに選ばれたわけでもない。誰かに呼ばれたわけでもない。
私は自分ひとりでここまで来た。
それだけだった。
境界の向こう側は、静かだった。怖さよりも懐かしさがあった。そこへ行けば、何も考えなくていいと。
誰にも評価されない。誰にも嫌われない。誰にも傷つけられない。そして、誰にも自分を偽らなくていい。それがとても魅力的に思えた。
私は一歩前に出ようとした。
足が動かなかった。
なぜか分からない。身体が拒んでいるのか。それとも、私自身が拒んでいるのか。
もう一度、足に力を入れる。
動かない。
私は境界を見つめた。向こう側には、何も見えない。それなのに、そこに行けば何かが終わることだけは分かる。
大学も。家も。今までの生活も。もしかしたら、私自身も。全部。
私は目を閉じた。
精霊さんの声を思い出そうとした。優しい声。何度も聞いた声。
「ひとりでいるの、向いてるよ」
そう言われたとき、嬉しかった。心が救われたんだ。
「ここにいていいよ」
そう思わせてくれた。
でも、最後に聞いた言葉は、思い出せなかった。
「君が選んだ」
その言葉だけが残っている。
私は目を開けた。境界はまだそこにあった。開いたまま、私を待つように。迎え入れるように。
誰も呼ばないし、誰も急かさないその境界の前で、私はただ立っていた。
向こう側へ行くこともできる。戻ることもできる。そのどちらも選ばずに、ここに立ち続けることもできる。
森は静かだった。あまりにも静かすぎるから、このまま時間が止まってしまってもいいと思った。
私は一歩も動かなかった。ただ、境界の前に立っていた。
そして、向こう側へ行きたいのか。それとも、ここで終わりたいのか。
答えは自分でも分からなかった。




