第34話 スケッチブック
森へ行くと、精霊さんがいた。そう思った。
いつもの場所。木々の間に少しだけ開けた場所。
私はそこまで歩いていった。
今日は、不思議と足取りが軽かった。怖くない。迷ってもいない。ただ、何かを終わらせるために来た。そんな気がしていた。
「来たんだね」
精霊さんの声がした。私は頷いた。
「うん」
隣に座る。前のように、少しだけ間を空けて。
しばらく何も話さなかった。今日の森は静かだった。鳥の声もしないし、風もない。それでも、嫌ではなかった。私は膝を抱えた。
「ねえ」
「なに?」
「私、決めた」
精霊さんは何も言わない。
「もう、ここには来ない」
言葉にすると、胸の奥が少し痛んだ。でも、思っていたほど苦しくなかった。
「そっか」
精霊さんは、それだけ言った。
「寂しくないの?」
「寂しいよ」
「じゃあ、どうして何も言わないの?」
「君が決めたことだから」
私は顔を上げた。その言葉が、少しだけ引っかかった。寂しいのは私だけなのかな、と。
「……私が?」
「うん」
「私が決めたの?」
精霊さんは答えなかった。私はその沈黙を見つめた。なぜだろう。さっきまで自分で決めたと思っていたことが、急に遠く感じた。
私は確かにそう思った。
もう帰ろうと。今日でここを離れようと。自分で。
でも、その「自分で」が、どこから始まったのか分からなかった。
「私、ずっと一人だったと思ってた」
「うん」
「でも、違ったのかもしれない」
精霊さんは何も言わなかった。
「少なくとも、私は自分で自分を見捨てないようにしたい」
言葉にした瞬間、涙が零れそうになった。私は慌てて目を伏せる。
「変だよね」
「変じゃないよ」
「だって、精霊さんがいないと嫌だったのに」
「うん」
「ここに来れば、何も考えなくてよかった」
「うん」
「だから、ずっとここにいたかった」
精霊さんは否定しなかった。私はそのことに、少しだけ救われた。
「でも、もういい」
「もういい?」
「うん」
私は涙を拭った。
「私、自分で帰る」
その言葉は、思っていたよりずっと簡単に口から出た。
森の中を見渡す。何度も来た場所。初めて来たときは、何も分からなかった。帰り道も分からなくなった。
それでも、森へ何度も足を運んだ。何度も。何度も。
ここに来れば、誰かが自分を受け入れてくれると思った。精霊さんがいてくれると思った。
「ありがとう」
私は言った。
精霊さんは笑った。
「こちらこそ」
「何が?」
「君がここまで来てくれたこと」
私は少し笑った。
「変なの」
「そうかな」
「だって、私が勝手に来ただけじゃん」
精霊さんは答えなかった。私はその横顔を見る。
やっぱり、よく見えない。顔を見ようとすると、輪郭が森の奥に溶けていく。
「ねえ」
「なに?」
「最初から、私が来るって分かってた?」
しばらく返事がなかった。
やがて。
「……どうだろうね」
それだけだった。私は笑った。
それ以上は聞かなかった。聞いてはいけないような気がした。
私は立ち上がった。
「じゃあ、行くね」
「うん」
「もう来ない」
「うん」
「……本当に、もう来ないから」
「うん」
私は森の出口へ向かって歩き出した。数歩進んでから、振り返る。
精霊さんがいる。そう思った。
でも、そこには何もなかった。木。草。湿った土。薄暗い空。
私は瞬きをした。
「……精霊さん?」
返事はない。もう一度呼ぶ。
「精霊さん?」
静かだった。
私はその場に立ち尽くした。不思議と、怖くなかった。ただ、胸の奥にぽっかりと穴が開いたようだった。
そこで初めて気づいた。私は一度も、精霊さんの顔をちゃんと見たことがない。声しか知らない。触れたこともない。名前も知らない。どこから来たのかも知らない。いつからここにいたのかも知らない。
それなのに、私はずっと知っているつもりだった。
友達だった。そう思っていた。
私はその場にしゃがみ込んだ。涙が頬を伝う。
「……さよなら」
誰もいない場所に向かって言った。返事はなかった。それでももう一度、言う。
「さよなら、精霊さん」
その瞬間。
森の奥から、何か音がした。声だったような気がする。風だったのかもしれない。
私は顔を上げた。聞き取れなかった。でも、なぜか、その言葉だけは分かった気がした。
——君が。
そこで途切れた。
私は動かなかった。続きがあったような気がする。
けれど、思い出せない。いや、思い出したくないのかもしれない。
私は立ち上がった。そして、森の出口へ歩き始めた。
今度は振り返らなかった。
しばらく歩いていると、また声がした気がした。
今度は後ろからではなかった。頭の中だった。
——君が選んだ。
私は足を止めた。振り返らない。その言葉が誰のものなのか、考えなかった。
精霊さんなのか。あの別の人物なのか。
それとも、自分自身の言葉なのか。
考えれば分かるような気がした。でも、考えなかった。
ただただ、歩いた。
森を出る。
その瞬間、空気が変わった。
街の音が戻ってくる。車の音。人の話し声。遠くで鳴る何かの音。いつもの世界だった。
私は歩きながら、さっきの言葉をもう一度思い出そうとした。
——君が選んだ。
その前に何を言っていたのか。その後に何を言ったのか。思い出せない。
ただ、その言葉だけが残っていた。私は、自分で選んだ。そう思った。そう思わなければならないような気がした。
けれど。
帰宅してからスケッチブックを開くと、最後のページに、見覚えのない文字があった。鉛筆で薄く、たった四文字。
「君が選んだ」
私はしばらく、それを見つめていた。いつ書いたのか、私が書いたのかすら、思い出せなかった。




