第33話 ほんの言葉
森に入ると、精霊さんがいた。
いつもの場所だった。
木々の間。少し開けた場所。何度も来た場所なのに、今日はどこか違って見えた。
私は精霊さんの前で立ち止まった。
「どうしたの?」
いつもの声。いつもの話し方。それなのに、今日はその優しさが少しだけ怖かった。
私はすぐには座らなかった。
「昨日、別の人に会った」
精霊さんは何も言わなかった。
「完全にこっちに来たら、戻れなくなるって言われた」
沈黙。
「知ってた?」
少しだけ間があった。
「……うん」
胸の奥が冷たくなった。
「知ってたんだ」
「全部じゃないけど」
「どうして言わなかったの?」
精霊さんは答えなかった。
私は一歩近づいた。
「ねえ」
声が震える。知ったら戻れなくなるような気がして。
「どうして?」
「言ったら、怖くなると思ったから」
「怖くなったよ」
「うん」
「すごく怖かった」
「うん」
相変わらず、否定しない。でも今日は初めて、それが嫌だった。
「どうして何でも『うん』って言うの?」
精霊さんが黙る。
私は続けた。
「私が何を言っても否定しないよね」
「……そうだね」
「それって、本当に私のため?」
精霊さんはしばらく黙っていた。やがて、小さく息を吐くように言った。
「君のためだよ」
その言葉を聞いて、胸の奥がざわついた。
「……私のため?」
「うん」
「森に来るのも?」
「うん」
「ここにいるのも?」
「うん」
「現実から離れていくのも?」
精霊さんは答えなかった。私はその沈黙を見つめた。
「それも、私のため?」
「君はここにいるほうが楽だから」
「だから?」
「だから、無理に戻らなくていいと思った」
私は震える手を隠すように、自分の拳を握りしめた。
「それを決めるのは誰?」
「……君だよ」
「違う」
自分でも驚くほど強い声が出た。精霊さんが黙る。
「私が決めるって言いながら、あなたが『ここにいていい』って言った」
「……」
「あなたが『帰らなくてもいい』って言った」
「うん」
「私はそれを信じた」
声が震えていた。怒っているのか、泣きそうなのか、自分でも分からない。
「でも、それで私が本当に戻れなくなったら?」
精霊さんは答えなかった。
「そのときも、私のためって言うの?」
長い沈黙が落ちた。私は目を逸らさなかった。
初めてだった。精霊さんの言葉を、そのまま受け入れなかった。
「……君には、戻ってほしくないわけじゃない」
「じゃあ、どうして?」
「ここにいる君が、幸せそうだったから」
その言葉に、少しだけ胸が痛んだ。
「……それなら」
私は息を吸った。
「私が決める」
精霊さんは黙っている。
「森に来るかどうかも」
「うん」
「帰るかどうかも」
「うん」
「ここに残るかどうかも」
「うん」
「全部、私が決める」
自分で言葉にすると、不思議だった。今まで私は、誰かに決められることを嫌っていた。
家族に。周りに。大学で出会う人たちに。
何をすればいいのか。どう振る舞えばいいのか。何を望むべきなのか。ずっと、自分の外側にあるものを気にしていた。
だから、ここへ来た。誰にも決められない場所だと思った。なのに。
いつの間にか、精霊さんの言葉に安心して、それを自分の答えにしていた。
「私、一人でいるのが嫌だった」
突然、口から言葉が出た。精霊さんは何も言わない。表情も変わらない。
「でも、一人でいることが嫌なのと、自分で決められないことは違う」
森は静かだった。
「私がここに来たいなら、来る」
私は一歩近づいた。
「あなたが来てほしいからじゃない」
精霊さんの輪郭が、少しだけ揺れたように見えた。
「私が来たいから来る」
初めて、精霊さんが少しだけ笑った。
「それでいいよ」
私は少し驚いた。もっと何か言われると思っていた。
引き止められる。怒られる。悲しまれる。そう思っていた。行き場のない気持ち。
でも、何もなかった。ただ、精霊さんはそこにいる。私はその隣に座った。いつもより少しだけ距離を空けて。今までよりも、ほんの少しだけ。
「ねえ」
「なに?」
「これからも、ここに来ていい?」
精霊さんは答えた。
「君が来たいなら」
その言葉を聞いて、私は少しだけ笑った。
前なら、「来ていいよ」と言ってほしかった。
今日は違う。自分で決める。それが少し怖くて。それでも、前より自由だった。
「じゃあ、来る」
精霊さんがこちらを見る。私は森の奥を見る。
世界は何も変わっていない。木々も。空も。足元の土も。全部、いつも通りだった。
ただ一つだけ。
私は初めて、この場所で自分の意思を口にした。そして精霊さんも、それを否定しなかった。
その瞬間だけ。
二人の間には、守る側と守られる側ではなく、同じ場所に立つための、ほんの少しの距離があった。




