第32話 最後の猶予
目を閉じる。森がある。
目を開ける。部屋がある。
どちらが本当なのか、もう分からなかった。
前に聞いた言葉だけが、頭の中に残っている。
——完全に来るなら、戻れない。
戻れない。その言葉を何度も繰り返す。
怖い。今まで、森で怖いと思ったことはなかった。
どれだけ暗くても。どれだけ道が分からなくなっても。どれだけ現実ではありえないものが見えても。
精霊さんがいれば、それだけで大丈夫だった。
でも、今日は違った。
戻れない。もし本当に戻れなくなったら。大学にも戻れない。家にも戻れない。今までの生活にも戻れない。
それだけじゃない。自分自身にも戻れなくなるような気がした。
私はしばらく何も考えなかった。考えようとすると、頭の中が森に行ってしまうから。
木々。湿った空気。暗い空。精霊さん。私は、どうしてあの場所に惹かれたのだろう。
最初は、ただ不思議だったから。現実では起こらないことが起きるから。誰にも邪魔されないから。静かだから。
でも、それだけではなかった。
私は知っていた。あの場所に行けば、ひとりでいても寂しくない。
誰とも話さなくてもいい。何かを証明しなくてもいい。失敗しても責められない。何もできなくても、嫌われない。
精霊さんは、私がひとりでいることを否定しなかった。
「ひとりでいるの、向いてるよ」
そう言ってくれた。それが本当に嬉しくて。
ずっと誰かに、「もっと人と関わらないと」「そんなことじゃ駄目」「一人でいるのは寂しいでしょう」そう言われてきた気がする。
でも、精霊さんは違った。ひとりでもいい。ひとりのままでいい。それでも、ここにいていい。その言葉が、私には必要だったから。
だから。私は森が好きなのではなくて。精霊さんが好きなのかもしれない。
そう思った。友達だから。大切だから。失いたくないから。
そのとき初めて、自分の中に別の恐怖があることに気づいた。
森を失うことが怖いのではない。精霊さんを失うことが怖い。
もし私が戻ったら、もう会えなくなるのだろうか。
もし現実を選んだら、精霊さんは消えてしまうのだろうか。
そんなことを考えると、胸が苦しくなった。
だったら、戻らなければいい。そんな考えが浮かんだ。
簡単だった。驚くほど簡単だった。だって学校にも家にも大切な人はいないから。私を好きな人はいないから。大学を捨てる。家を捨てる。今までの生活を捨てる。そうすれば、ずっと、ずっとここにいられる。
精霊さんのそばにいられる。私は、その考えを否定できなかった。怖いのに。怖いはずなのに。少しだけ安心していた。それが一番怖かった。
私は天井を見た。白い。見慣れた天井。何年も見てきた。この部屋も。このベッドも。この天井も。全部、私の生活だった。
全部捨てたいと思ったことなんて、何度もある。でも、本当に捨てることを考えたことはなかった。今までは。
今は違う。捨ててもいいと思っている。いや、むしろ捨てたいとすら思っている。
私は目を閉じた。森が見えた。
精霊さんがいる。顔はよく見えない。それでも分かる。私を待っている。待っているように思える。
「……行きたい」
声に出す。森へ。そう思った。
でも、その直後。別の声がした。
戻って。現実に。
私は目を開けた。部屋だった。森ではない。
私はしばらく、その2つを見比べるように考えていた。
どちらを選ぶのか。森か。現実か。戻るのか。残るのか。
今までなら、迷わなかった。森へ行けばよかった。精霊さんに会えばよかった。
でも、もう知ってしまった。完全に行けば、戻れないことを。
だからこれは、ただ森へ行くかどうかの問題ではない。
今までの自分を残すのか。それとも。
全部置いていくのか。私は長い間、考えた。
そして、ひとつだけ決めた。
私は——。
その先は、考えなかった。考えてしまえば、決められなくなる気がした。だから、ただ決めた。
森に行く。あるいは。
戻る。
どちらを選んだのか。自分でも、まだ分からなかった。
ただ、その決断をした瞬間。胸の奥にあった迷いが、ほんの少しだけ消えた。まるで、ずっと前から答えを知っていたみたいに。
そして私は、その答えを誰にも話さなかった。




