第31話 警告
目を開けた。
目の前には森が広がっていた。
そう思った。
木々がある。湿った空気がある。足元には土がある。けれど、昨日までと何かが違った。静かすぎる。鳥の声もしない。土のにおいがしない。風の音もしない。葉が揺れる音さえ聞こえなかった。
私は立ち上がった。
「精霊さん?」
返事がない。
いつもなら、どこからか声がする。近くにいるのか、遠くにいるのかも分からない声。
それが今日は聞こえなかった。
「精霊さん?」
もう一度呼ぶ。
何も返ってこない。私は少し不安になった。どこにいるの。
森の奥へ進む。いつもの場所。いつも精霊さんがいる場所。そこにもいなかった。
私は立ち止まった。
帰ろう。
そう思った。
でも、どこへ?
その瞬間だった。
「そこから先には行かないほうがいいですよ」
声がした。
私は振り返った。
少し離れたところに、人が立っていた。姿はよく見えない。森の色に紛れるような服。立っているのか、木の影なのか、それすら分からない。
ただ、声だけははっきり聞こえた。
「……誰?」
「あなたは、ここに長くいすぎています」
言葉が妙に平坦だった。知らない人。精霊さんとは違う。あの人の声には、いつも少しだけ余白がある。この声には、それがない。必要なことだけを伝えるような声だった。
「意味が分からない」
「分からなくても構いません」
その言い方が、少し嫌だった。
「あなたは、現実との区別がつかなくなっています」
私は眉を寄せた。
「現実?」
「大学。自宅。睡眠。食事。時間。あなたが今まで生活していた場所です」
胸の奥がざわついた。どうしてそんなことを知っているのだろう。この人は私の何なの。
「あなたは最近、休むことが増えています」
私は黙った。
「連絡も確認していない。食事も不規則です。睡眠時間も一定ではない」
「……何なの?」
「確認しているだけです」
「誰に頼まれたの?」
「誰にも」
私は一歩後ろに下がった。
怖い。初めて、森の中でそう思った。精霊さんなら、こんな話し方はしない。あの人はもっと優しい。もっと私のことを分かってくれる。
この人は違う。私のことを知っているのに、私の気持ちには興味がない。ただ事実を並べている。怖い。学校や家の人たちみたい。嫌な感じ。
「帰ったほうがいいですよ」
「嫌」
反射的に答えた。
「ここにいたい」
「分かりました」
あまりにもあっさりしていたから、私は逆に戸惑った。
「……止めないの?」
「止める必要はありません」
「じゃあ、何でそんなこと言うの?」
少し間があった。
「あなたが完全にこちら側へ来るなら、戻れなくなるからです」
空気が止まった。私はその言葉だけを聞いていた。
完全に。こちら側へ。戻れない。意味は分からない。でも、怖かった。
「戻れないって……?」
「文字通りです」
事務的な声だった。まるで、当たり前のことを説明しているだけみたいだった。
私は精霊さんを探した。木々の向こう。いつもなら、そこにいる。なんでいないの。なんで、どこにいるの。
「精霊さん?」
返事はない。私はもう一度呼んだ。
「精霊さん!」
それでも、何も聞こえなかった。
私は振り返った。さっきの人物は、まだそこにいる。
「精霊さんはどこ?」
「知りません」
「嘘」
「嘘をつく理由がありません」
「あなたが追い払ったんでしょ」
自分でも、どうしてそんなことを言ったのか分からなかった。私の声は震えていた。
その人物は何も答えなかった。ただ、こちらを見ている。まっすぐに。
「あなたは、その人を信じたいんですね」
「……当たり前でしょ」
「そうですか」
その言葉には、責める感じがなかった。だから余計に腹が立った。
「精霊さんは私を否定しない」
「はい」
「ここにいていいって言ってくれる」
「はい」
「あなたとは違う」
「そうですね」
私は自分の拳を握りしめた。
「あなたは敵なの?」
その人物は少し黙った。
「敵という言葉を使う必要はないと思います」
「私は必要だと思う」
声が震えた。怖かった。森が怖いのではない。この人の言葉が怖かった。私がここにいることを、間違いだと言われているような気がした。
「帰ってください」
「嫌」
「あなたのいる場所へ戻ってください」
「ここが私のいる場所なの」
言い切った。
その瞬間、自分でも分かった。それは森についての言葉ではなかった。
最近ずっと、そう思っていたこと。大学より、家より、人のいるどんな場所より、ここにいるほうが自分らしい。
だから帰りたくない。それなのに、この人は私の居場所を壊そうとしている。そう思った。
「精霊さんは?」
「……」
初めて、その人物が黙った。
私はその沈黙を、都合よく解釈した。精霊さんも、何か言いたくても言えないのだ。
きっとそうだ。そうでなければ困る。
「私は、ここにいる」
私は言った。
「戻らない」
それは何も答えなかった。森は静まり返っている。私はその沈黙を勝利のように感じた。
そして、気づかなかった。
その人物が話していた言葉のほとんどが、私自身がこれまで何度も自分に言い聞かせてきた言葉と、ほとんど同じだったことに。




