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第30話 境界の崩れ

 目を覚ました。……たぶん。


 目を開けたとき、最初に見えたのは木だった。細い枝が、頭のすぐ上まで伸びている。葉の隙間から、薄い光が落ちていた。


 私はしばらく、それを見ていた。

 

 森にいる。

 そう思った。でも、身体を少し動かすと、布団が擦れる音がした。


 私は瞬きをした。木が消えた。


 白い天井がある。いつもの天井。私はベッドの上にいた。


 「夢か」


 そう呟いた。


 声はちゃんと聞こえた。自分の声だった。少し安心して、起き上がる。カーテンは閉じている。部屋は薄暗い。時計を見る。八時十三分。


 ベッドから降りる。足の裏には床がある。冷たい。確かな感触だった。


 洗面所へ向かう。顔を洗う。鏡を見る。そこには私がいる。少し寝癖がついている。目の下に薄い隈がある。いつもの顔。

 私は鏡の中の自分に向かって笑ってみた。ちゃんと笑えた。大丈夫。そう思った。


 そのとき、背後で葉の擦れる音がした。


 私は振り返った。誰もいない。洗面所の床。白い壁。開いたままの扉。その向こうに部屋。


 森なんてない。私は鏡に視線を戻した。


 鏡の中では、私の背後に木が立っていた。

 私は動かなかった。鏡の中だけに森がある。木々の間に、薄暗い空が見える。


 私は振り返る。


 何もない。


 もう一度、鏡を見る。木がある。


 私は目を閉じた。

 十秒。二十秒。目を開ける。


 鏡には私だけが映っていた。私は笑った。


 「疲れてるのかな」


 誰に言うでもなく呟いた。それで終わりにした。


 外へ行く準備をする。


 服を着る。髪を整える。鞄を持つ。玄関まで歩く。靴を履こうとして、手を止めた。

 靴が濡れていた。泥がついている。昨日、森に行ったからだろうか。そう思った。


 でも、昨日は森に行っていない。


 ……行っていない?


 私は少し考えた。昨日は何をしていたんだっけ。散歩して、買い物して。帰宅。部屋。それから。

 それから……思い出せない。


 私は靴を脱いだ。今日は出かけなくてもいい。なぜか、そう思った。


 部屋に戻る。机の上にスケッチブックが置いてある。


 開く。いつかの森の絵だった。木々。暗い空。その奥に、あの構造物。


 私は眉を寄せる。こんな絵を描いた覚えはない。でも、描いたのは自分だと分かる。

 鉛筆の持ち方。線の癖。全部、自分のものだった。


 ページをめくる。また森。


 ページをめくる。また森。


 どのページにも、少しずつ違う森が描かれている。


 私は最後のページで手を止めた。

 そこには、私と精霊さんがいた。


 二人で並んで座っている。楽しそうだ。絵の中で2人に優しい時間が流れているのが分かる。


 顔は描かれていない。

 私は思わず笑った。


 「いつ描いたんだろう」


 その言葉に、どこかから返事があった。


 「昨日」


 私は顔を上げた。


 部屋には誰もいない。でも、聞こえた。きっと精霊さんの声。


 「……昨日?」


 返事はない。私はページを見る。

 絵の中の私は、こちらを見ているような気がした。少し怖くなって、スケッチブックを閉じる。


 その瞬間、部屋の匂いが変わった。湿った土。濡れた葉。冷たい空気。森の匂い。


 私はゆっくり顔を上げる。部屋の壁が見える。白い壁。その白い壁に、木々の影が映っている。風がないのに揺れている。


 私は窓を見る。カーテンは閉じている。窓を開けた。冷たい空気が入ってきた。

 外は街だった。車が走っている。人が歩いている。いつもの景色。


 私は安心した。……安心した?


 違う。少し、がっかりした。


 そう思った。私は窓を閉めた。


 振り返る。部屋が森になっていた。木がある。足の裏が冷たい床がない。白い壁もない。空が見える。私は立っている。裸足で。でも、さっきまで靴下を履いていたはずだった。


 私は足元を見る。土がある。冷たい。指の間に湿ったものが触れる。


 私は息を止めた。

 森だ。私は森にいる。そう思った。


 でも、机もある。ベッドもある。壁もある。その全部が森の中に置かれている。


 私は何が本物なのか考えようとした。部屋が本物? 森が本物? さっきまでの私は、どこにいた?


 考えるほど分からなくなる。


 私は目を閉じた。森の匂いがする。

 目を開ける。部屋の匂いがする。


 もう一度、目を閉じる。精霊さんの声がする。


 「こっちだよ」


 目を開ける。誰もいない。


 私は笑った。


 「どっち?」


 返事はない。私は一歩踏み出した。足の裏に土がある。


 もう一歩。今度は床だった。


 もう一歩。また土。


 私は立ち止まった。自分がどこにいるのか分からない。でも、不思議と怖くなかった。むしろ、やっと分かったような気がした。


 境目なんて、最初からなかったのかもしれない。部屋と森。現実と夢。こちらと向こう。

 分けていたのは、私のほうだった。


 私はスケッチブックを抱えた。いつの間にか、それを持っていた。表紙を撫でると、そこには泥がついている。


 それを見て、私は思った。私は森から帰ってきたのだろうか。それとも、まだ森にいるのだろうか。


 答えは出なかった。出なくてもいいと思った。精霊さんがいる場所なら、どちらでもよかった。

 私はそのまま目を閉じた。次に目を開けたとき、私はどこにいるのか分からなかった。


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