第29話 依存か
森に行かない日は、落ち着かなかった。
最初は、少し気になる程度だった。
朝起きて、今日は森へ行かないと決める。少しだけ散歩をして、買い物をして帰る。それだけの一日。
何も悪いことは起きていない。なのに、ずっと何かを忘れているような気がした。
ふとした時に、時計を見る回数が増えた。昼になると、窓の外を見る。
帰りの電車では、森へ向かう道を思い出してしまう。
あの場所に行けば、少し楽になる。そう思う。
でも、今日は行かない。そう決めていた。特に理由はないけど、いつも、なんとなく。
部屋に帰る。靴を脱ぐ。電気をつける。鞄を床に置く。
いつもの部屋。いつものベッド。いつもの机。何も変わっていない。それなのに、息苦しかった。
私は窓を開けた。冷たい風が入ってくる。森の匂いはしない。
当然だ。ここは森じゃない。
私は窓を閉めた。スマートフォンを見る。大学からメールが来ていた。開かなかった。代わりに時間を見る。まだ夕方だった。
森へ行くには、まだ遅くない。私はしばらく画面を見つめていた。
そして、上着を取った。
森に着いた頃には、空が暗くなり始めていた。歩いている間、胸の奥にあった重さが少しずつ消えていく。木々が見える。土の匂いがする。足音が聞こえる。それだけで、身体の力が抜けた。
いつもの場所に、精霊さんがいた。
「来たんだ」
「……うん」
私は隣に座った。何も言わなくても、ここでは大丈夫だった。
しばらく黙っていると、精霊さんが言った。
「今日は来ないのかと思った」
「私も、来ないつもりだった」
「そう」
「でも、無理だった」
精霊さんは何も言わなかった。責めることもない。どうして来たの、と聞くこともない。ただ、隣にいる。私はそれが嬉しかった。
「生きるの、疲れる」
「うん」
「人といるのも疲れる」
「うん」
「家も……」
そこまで言って、口を閉じた。精霊さんは待っていた。
私は膝を抱えた。
「ここにいると、何も考えなくていい」
「そうだね」
「誰かに何かを言われることもないし」
「うん」
「評価されないし」
「うん」
「怒られることもない」
精霊さんは、少しだけ笑った。
「こっちのほうが楽でしょ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が静かになった。否定できなかった。
ここには、大学の成績もない。誰かと比べられることもない。家族の機嫌を気にする必要もない。何をしても怒られない。何もしなくても責められない。誰かの期待に応えなくてもいい。
私は森を見た。木々は動いている。風が吹いている。世界は何も変わっていない。なのに、ここだけは私をそのまま置いてくれる。
「……うん」
小さく答えた。
「こっちのほうが楽」
言葉にした瞬間、自分でも少し怖くなった。現実よりも。大学よりも。家よりも。ここが楽だと言ってしまった。
精霊さんは、それ以上何も言わなかった。
「じゃあ、ここにいればいいよ」
私は顔を上げた。
「ずっと?」
「ずっとじゃなくていい」
その答えに、少し安心した。
「帰りたくなったら帰ればいい」
「……帰りたくなくなったら?」
精霊さんは少し考えるように黙った。
「そのときは、帰らなくてもいいんじゃない?」
それだけだった。私は何も言えなかった。
森の中にいると、心が軽くなる。何かを頑張らなくてもいい。誰かに認めてもらわなくてもいい。何者かにならなくてもいい。周りを気にして自分を取り繕わなくてもいいんだ。
ただ、ここにいる。それだけでいい。その感覚が、少しずつ私の中に染み込んでいった。
帰宅してからも、森のことを考えていた。夕食を食べる。お風呂に入る。歯を磨く。ベッドに入る。その間ずっと。
目を閉じると森が浮かんだ。精霊さんの声が聞こえる。
「こっちのほうが楽でしょ」
私は布団の中で、小さく頷いた。誰も見ていない。それなのに、頷かずにはいられなかった。
翌朝。目が覚めて、最初に思った。
今日は森に行こう。
その考えは、あまりにも自然だった。
以前は、森へ行くことを選んでいた。今は、行かない理由を探すほうが難しくなっていた。私はそれを、まだ依存だとは思わなかった。
友達に会いたい。
ただ、それだけだと思っていた。




