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第28話 気づかない

 その日は、森に入る前から少し寒かった。


 風が強いわけではない。ただ、服の隙間から冷たいものが入り込んでくるような寒さだった。


 私はいつもの場所へ向かった。最近は、迷わなくなった。どこを曲がればいいのか、どの木を目印にすればいいのか、少しずつ分かるようになってきた。

 森の中に、自分の場所が増えていく。そう考えると、不思議と嬉しかった。


 精霊さんは、いつもの場所にいた。私が近づくと、こちらを見る。


 「今日は遅かったね」


 「そうかな」


 そう答えてから、少し考える。

 最近は外に行く日が減っていた。それでも今日は森へ行った。特別な理由はない。寒いからとかではない。

 ただ何となく、久しぶりに行ったほうがいい気がしただけだった。


 「どうだった?」


 「よく分からない」


 「そっか」


 それだけだった。


 私は隣に座った。しばらく、二人とも何も話さなかった。森では、沈黙が気まずくならない。それが好きだった。


 ふと、私は精霊さんの横顔を見る。相変わらず、顔はよく見えない。輪郭だけが、木々の間に浮かんでいる。


 「ねえ」


 「なに?」


 「精霊さんって、ずっとここにいるの?」


 少し間があった。


 「ずっと、ではないよ」


 「じゃあ、いつから?」


 精霊さんは答えなかった。

 風が吹いた。葉が揺れる。私は待った。急かすつもりはなかった。


 やがて、精霊さんが小さな声で言った。


 「元は、人だったのかもしれない」


 私は顔を上げた。


 「人?」


 「うん」


 「今は違うの?」


 「どうだろう」


 精霊さんは笑ったように見えた。


 「自分でも、よく分からない」


 その言葉が、なぜか胸に引っかかった。


 「どうしてここにいるの?」


 「帰らなかったから」


 「帰れなかったんじゃなくて?」


 「どっちもかもしれない」


 その答えを聞いて、私は何も言えなくなった。


 帰らなかった。帰れなかった。その2つは似ているようで、全然違う。自分で帰らないことを選んだのか。それとも、帰る場所がなくなったのか。


 私は足元を見る。湿った土に、小さな葉が落ちていた。


 「帰る場所、なかったの?」


 聞くと、精霊さんは少しだけ黙った。


 「帰っても、帰ったことにならない場所だった」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が痛くなった。私は何も言えなかった。


 その気持ちを、知っている気がした。家に帰っても、そこが自分の居場所だと思えない。家族と同じ場所にいても、ひとりでいるような、あの感覚。


 何かを話しても、聞いてもらえない。だから、帰りたくなくなる。私は、自分のことを思い出していた。実家に帰った日のこと。両親の声。弟の声。何もなかったように振る舞う親戚。そこにいるのに、誰にも見つけてもらえないような感覚。


 私は森へ来る。精霊さんも、森へ来た。それだけの違いなのかもしれない。


 「……寂しかった?」


 自分でも驚くほど、小さな声だった。


 精霊さんは答えなかった。でも、少しだけこちらを向いた。

 それだけで、答えのように思えた。


 私は、胸が苦しくなった。かわいそうだと思った。


 この人も、ひとりだったんだ。帰りたくない場所があって。帰りたい場所もなくて。だから、ここにいる。

 私と同じだ。そう思った。


 「私だったら……」


 言いかけて、やめる。何を言いたかったのか分からない。私は精霊さんの隣に座ったまま、膝を抱えた。


 「ここにいていいと思う」


 精霊さんが、こちらを見る。


 「どうして?」


 「だって……」


 私は少し考えた。


 「ここにいたほうが、楽なんでしょ?」


 精霊さんは答えなかった。でも、否定もしなかった。いつも、そう。私は少しだけ笑った。


 「じゃあ、いいじゃん」


 自分でも、何を言っているのか分からなかった。それでも、その言葉を口にすると、胸の奥が軽くなった。


 ここにいていい。帰らなくてもいい。そう言っているのは、精霊さんに向けての言葉だった。けれど、なぜか自分にも言っているような気がした。


 森の中は静かだった。遠くで鳥が鳴いた。風が木々の間を軽やかに通り抜ける。

 私は精霊さんの隣にいる。ひとりじゃない。それだけでよかった。安心できた。


 「ねえ」


 精霊さんが言った。


 「なに?」


 「君は、帰りたい?」


 私は答えられなかった。帰る場所ならある。部屋もある。大学もある。家族もいる。それなのに。

 帰りたい場所が、どこなのか分からなかった。


 しばらく考えてから、私は首を横に振った。


 精霊さんは何も言わなかった。ただ、隣にいた。私はそのことにまた安心した。森に来てから、私は少しずつ自分のことが分かるようになった気がする。


 ひとりでいること。誰かと話すこと。帰ること。帰らないこと。どれが正しいのかは分からない。でも、ここにいる間だけは、考えなくてもよかった。


 私は目を閉じた。精霊さんの存在を隣に感じる。その温度は、分からなかった。

 触れてもいない。声しか聞こえない。それでも、確かに隣にいると思った。


 そして私は、まだ気づいていなかった。精霊さんの話を聞いているはずなのに、そこに出てくる帰りたくない場所も、ひとりでいることも、ここにいるほうが楽だという感覚も全部、全部、自分自身の中にあったものだということに。


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