第27話 遠い現実
春休みに入ってから、大学へ行っていない。
当たり前のことだった。
授業はないし、サークルもあの日以来行っていない。
朝早く起きる必要もないし、起きるために目覚ましをかける必要もない。
だから、最初は何もおかしいとは思わなかった。
朝、目が覚める。布団の中でスマートフォンを見る。時間を確認して、また目を閉じる。カーテンの隙間から入ってくる光が少しずつ強くなっていく。
昼になってから起きることもあった。
誰かに怒られるわけでもない。遅刻するわけでもない。今日は休みなのだから。
そう思えば、それで済んだ。
けれど。
何日か経つと、私は外へ出なくなった。
最初は、買い物に行く予定があった。それも、明日でいいと思った。
明日になったら、また明日でいいと思った。気づけば、冷蔵庫の中身が少なくなっていた。それでも、外へ出る気にはならなかった。
パンを食べる。卵かけご飯を作る。眠くなったら寝る。起きたら、本を読む。スマートフォンを見る。何かをするでもなく、時間だけが過ぎていく。
春休みなのだから。そう思えば、何も問題はなかった。
大学からメールが届いていることにも気づいていた。新学期に関する連絡。履修についての案内。就職活動に関するメール。
開かなければならないものもあった。でも、今すぐじゃなくていい。そう思って、画面を伏せた。
以前なら、何か予定が1つあるだけで気になって仕方がなかった。
何時に起きる。何時に家を出る。何を持っていく。誰と会う。何を話す。
そういうことを1つずつ考えていた。何日も前から何時間も、何回も、何回も。
今は考えなくなった。明日のことを考えなくてもいい。予定がなければ、予定を作らなくてもいい。部屋にいれば、誰にも何も言われない。それが心地よかった。
ある日の午後。窓の外から、人の声が聞こえた。
誰かが笑っている。続いて、二人か三人くらいの話し声。何を言っているのかは分からない。
私はしばらく耳を澄ませた。声は近くにあるはずなのに、どこか遠い。壁を一枚隔てた向こう側から聞こえてくるようだった。
私は窓の外を見る。いつもの街だった。車が走っている。人が歩いている。誰かが自転車に乗っている。
何も変わっていない。はずなのに。
そこだけが、私のいる場所とは別の世界のように感じた。
私はカーテンを閉めた。部屋が少し暗くなる。そのほうが落ち着いた。
森を思い出してみる。森では、声が近かった。精霊さんの声は、ちゃんと届く。小さな声でも聞こえる。言葉が途中で途切れても、不思議と意味が分かる。大学で聞く声より。家で聞く声より。ずっと近い。
そう考えているうちに、森へ行きたくなった。
私は上着を羽織った。玄関を出る。
外の空気は冷たかった。街には人がいる。春休みなのか、学生らしい人も何人か見かけた。誰かと並んで歩いている。笑いながら話している。私はその横を通り過ぎる。
以前なら、自分だけが取り残されているように感じたかもしれない。今は違った。
私には行く場所がある。そう思うだけで、胸の奥が少し温かくなった。
森に入る。数分歩いただけで、街の音が遠ざかる。足音。肌に触れる風。葉が擦れる音。どれも小さい。でも、ここではその小さな音が心地よかった。
いつもの場所へ行くと、いつものように精霊さんがいた。
姿を見つけた瞬間、身体の力が抜ける。
「来たんだ」
「うん」
それだけでよかった。私は精霊さんの隣に座った。
大学のことは話さなかった。春休みのことも。家族のことも。これからのことも。何も話さない。
ただ、森にいる。それだけで満たされていた。
「最近、よく来るね」
「うん。ここにいると落ち着くから」
「そう」
それ以上は聞かれなかった。それが嬉しかった。
現実では、何かを聞かれると答えなければならない。
大丈夫なの。最近どうしてるの。新学期はどうするの。就活は。
そんな言葉を想像するだけで、心がひどく疲れる。
ここでは何も説明しなくていいから。私は目を閉じた。冷たい空気。湿った土の匂い。葉の擦れる音。そして、すぐ隣にいる精霊さん。
目を開ける。そこにいる。
それだけで、この場所のほうが本当なのだと思った。
帰宅すると、部屋は朝と同じだった。脱いだ服もそのまま。机の上には開きっぱなしの本。スマートフォンには、まだ未読のメールが残っている。
私はそれを見なかった。見ないふりをして、ベッドに横になる。
春休みなのだから。大学へ行かなくてもいい。誰とも話さなくてもいい。予定がなくてもいい。そう思った。
けれど。その考えが、いつから「春休みだから」ではなくなったのか。
私はまだ気づいていなかった。外の世界が遠くなっていることにも。部屋の中だけで一日が完結してしまうことにも。
森へ行くことだけが、楽しみになっていることにも。気づいていなかった。
ただ。
明日も森へ行こう。
そう思った私はそのままゆっくりと眠りについた。




