第26話 扉
次に森へ行ったときは、空気が少しだけ違っていた。
何が、と聞かれても分からない。
風が強いわけでもない。寒さが増したわけでもない。
ただ、息を吸ったときに、胸の奥まで空気が入ってこないような気がした。
私は立ち止まった。目の前には、いつもの森がある。
そう思った。けれど、そう思った瞬間だった。
足元の感覚がなくなった。浮いたような気がした。
身体が軽い。いや、軽いというより、重さというものを忘れてしまったようだった。
一歩踏み出したはずなのに、足が地面に触れた感じがしない。
音も、おかしかった。風の音も、葉の擦れる音も、私自身の呼吸も。全部が遠い。
耳の奥に薄い膜を張られたみたいに、何もかもがぼやけている。
私は自分の手を見た。
ちゃんと手がある。指も動く。
それなのに、そこにあるはずの感覚だけが遅れてくる。
指を動かしてから、少し経ってから、「あ、動かしたんだ」と思う。
変だった。怖いはずなのに、怖くなかった。
むしろ、知っているような気がした。
この感じを。
夢の中で、何度も似たようなことがあった気がする。
熱を出したとき。眠る直前。目が覚める少し前。
現実と夢の間に、何か薄い膜があって、そこに触れたことがあるような、そんな感覚を。
「精霊さん」
呼んだつもりだった。
けれど、自分の声すら聞こえなかった。
次の瞬間。
色が変わった。
何色なのかは分からない。ただ、今まで見ていたものとは違う色だった。世界全体が、知らない色になった。
目を閉じているわけではない。ちゃんと目は開いている。それなのに、見ているという感覚がなかった。
身体だけがそこに取り残されている。心臓が速くなる。息が浅くなる。胸が苦しい。
戻らなきゃ。
そう思った。
けれど、どこへ戻るのか分からなかった。
そのとき、声がした。
近いような遠いような声だった。
「ここに長くいちゃだめ」
精霊さんの声だった。
私は返事をしようとした。
けれど、声が出ない。身体を動かそうとしても、どう動かせばいいのか分からない。
ただ、その言葉だけははっきり聞こえた。
ここに長くいちゃだめ。
その意味を考えるより先に、身体が引っ張られた。
急に重くなった。胸が押しつぶされる。足が地面に落ちる。耳の奥で、何かが弾けたような音がした。
そして——私は森にいた。
息をしていた。肩が大きく上下している。心臓が痛いくらい鳴っている。膝に力が入らなくて、その場にしゃがみ込んだ。
しばらく、何も考えられなかった。ただ息をしていた。吸って。吐いて。もう一度、吸って。
今度はちゃんと空気が入ってくる。木々の音が聞こえる。風の音もする。自分の服が擦れる音もする。全部、知っている音だった。
「……戻ってきた」
小さく呟いた。その言葉が、自分の口から出たことに驚いた。
戻ってきた。私はそう思った。
どこから?
考えようとしたけれど、頭の中には何も浮かばなかった。
ただ一瞬だけ。私はここではない場所にいた。そんな感覚だけが残っていた。
精霊さんが少し離れたところに立っていた。いつものように、顔はよく見えない。
「……今の、何?」
聞いてみた。
精霊さんはすぐには答えなかった。
私はもう一度、聞いた。
「私、今……向こう側に行った?」
私と精霊さんの間に少しだけ間があく。
「さあ」
そう言った。それだけだった。
私は笑いそうになった。こんなときなのに。
「なにそれ」
精霊さんは何も言わない。
私はまだ、身体の中に残っている違和感を確かめるように、自分の腕を撫でた。
いつもの腕だった。いつもの手。いつもの身体。いつもの私。
なのに、さっきまでとは何かが違う。世界は戻っている。たぶん。
でも、一度触れてしまったものは、なかったことにはできない気がした。
「もう帰ったほうがいいよ」
精霊さんが言った。私は顔を上げた。
「……うん」
素直に頷いた。
立ち上がる。足の裏に地面がある。その当たり前の感覚が、今日は少しだけ不思議だった。
帰り道、何度も振り返った。森はいつもと変わらなかった。何も起きていないように、静かだった。
それでも私は知っている。一瞬だけ。私は向こう側にいたことを。




