第25話 異世界の兆し
森の奥にそれはあった。
道と呼べるものはない。いつもの公園のような開けた場所とは違う場所に出た。いつもより十数分長く歩いた気がした。
呼吸が浅くなっているのに気づいたのは立ち止まった後だった。
木々の隙間の向こうに見慣れない形がある。自然物にしては直線が多すぎて、人工物にしては古すぎる。石のようにも見えるし、骨組みだけの建物にも見える。視線をずらすと、途端に形が揺れる。なんだろう、これは。
その瞬間、空の色が変わった。
ほんの一瞬。
青とも灰色ともつかない、現実にはあり得ない彩度の空。音が遠のき、森全体が水の中に沈んだみたいに歪んだ。
心臓がどんどんと早鐘を打つ。私自身も水の中に沈んだかのように息がうまく吸えない。
「……見えた?」
精霊さんの声がすぐそばで聞こえた。
私は遠のきかけていた意識を取り戻し、わずかに頷いた。言葉にすると壊れそうだった。
「見えたならもう近い」
近い——何に?
問いは喉の奥で消えた。
怖い、という感情は不思議と湧かなかった。それよりも懐かしさの方が先に来るような。
昔、夢の中で見た風景。熱を出した夜に天井が歪んで見えたときの感覚。息は苦しいのにどこかその苦しさに縋って安心するようなあの感覚。自分が揺れているような、そんな感覚に。
視界の端がちらつく。音が二重に聞こえる。
後から考えれば、それは過呼吸だったのかもしれない。体が熱を持っているのも分かるし、感覚が過敏になって色や音がいつもより強調されていただけなのだとその時は分からなかった。
ただ、そのときの私は、それを異世界の入口だと思っていた。なんとなく、感覚で。
「あれ、向こうの世界?」
私がそう言っても、精霊さんは首を縦にも横にも振らなかった。
「どう見えるかは人それぞれだよ」
構造物はそれ以上近づくと形を失った。焦点が合わない。まるで最初からはっきり見せるつもりがない影みたいに。
私はそれを異世界だと信じた。信じたかったという方が正しいかもしれない。
説明は後からいくらでもできるだろう。でも、この感覚だけは今しか掴めない気がした。できる限り忘れたくないと思った。
森は静かだった。いつもと同じ、どんよりとした色の空を取り戻していた。
世界は相変わらず何も変わっていない。変わっているのは私の気持ちだけだった。




