最終話 エピローグ
私は、友達がいたと思っている。
それだけは、今も変わらない。
森で見たものが本当に存在したのか。あの声が誰のものだったのか。境界が本当にあったのか。
もう、確かめるつもりはなかった。確かめなくてもいいと思えるようになった。
森には、もう行かなくなった。いつから行かなくなったのかは、よく覚えていない。
ある朝、目が覚めて今日は行かなくてもいい、と思った。それだけだった気がする。
それから何日経っても、私は森へ向かわなかった。最後に森へ行った日のことを思い出そうとすると、ところどころが曖昧になる。
境界の前に立っていた。向こう側へ行けると思った。でも、私は動かなかった。そこまでは覚えている。
その後、どうやって森を出たのか。どうして帰ろうと思ったのか。はっきりとは思い出せない。
ただ、あの日、精霊さんがいなくなったあとに聞いた言葉だけは覚えている。
——君が選んだ。
私は、ずっとその意味を考えていた。
何を選んだのだろう。
森を出ること? 精霊さんと別れること?
それとも、境界を越えなかったこと?
いくら考えても、答えは出なかった。だから、いつしか考えなくなった。
大学には少しずつ行くようになった。
最初は教室に入るだけでも疲れた。人の声が大きく感じる。誰かが笑っていると、自分のことを笑っているような気がする。何人かで話している輪を見ると、その中に入ることが怖くなる。
以前なら、そのまま帰っていたかもしれない。でも今は、席に座る。何も話さなくてもいい。ただそこにいる。先生の話を聞く。ノートを取る。授業が終われば、周りの人たちが帰っていく。
私は少し遅れて立ち上がる。廊下に出る。階段を下りる。外へ出る。そんな日が少しずつ増えていった。何かが劇的に変わったわけではない。友達が突然増えたわけでもない。家族との関係が良くなったわけでもない。毎日が楽しくなったわけでもない。
寂しい日は、今でもある。誰とも話したくない日もある。布団から出たくない日もある。それでも、次の日にはまた大学へ行く。それだけはできるようになった。
ある日の帰り道。
私は、森へ続く道の近くを通った。
足が止まった。
少し先に、木々が見える。以前なら、そのまま歩いていた。
森の中に入り、いつもの場所へ。精霊さんのいるところへ。
私はしばらく立っていた。行ってみようかと思った。今なら、まだ会えるかもしれない。そんな考えが浮かんだ。
でも、私は行かなかった。どうしてなのか、自分でも分からなかった。
ただ、歩いた。森へ向かう道ではなく、そのまま続く道路を。
少し歩いてから、振り返る。木々が見える。風が吹いている。葉が揺れている。
私は小さく笑った。
「元気かな」
誰に向かって言ったのかは、分からなかった。それでも、その言葉を口にすると少しだけ胸が軽くなった。
家に帰る。部屋に入る。机の上には、あのスケッチブックが置いてある。
私はしばらく眺めていた。そして、引き出しから取り出した。
ページをめくる。
森。森。森。何度も描いた木々。見慣れない構造物。境界のようなもの。
そして、あの人。精霊さん。
私はそのページを開いたまま、手を止めた。
何度見ても、顔がない。輪郭しかない。服の色も、毎回少し違う。髪の長さも一定しない。年齢も分からない。男なのか、女なのか。見れば見るほど、何も分からなくなる。
それなのに、私には、その人が誰なのか分かる。
精霊さんだ。私の友達。
そうわかった。
私はその絵を指でなぞった。
「久しぶり」
返事はない。当然だった。私はまた少し笑う。
「元気?」
返事はない。
「そっか」
勝手に頷いた。
以前なら、ここで声を待っていた。何か聞こえるまで。返事があるまで。
でも、今日は待たなかった。
スケッチブックを閉じる。机の上に置く。
私は、あの人が本当にいたのかどうかを知らない。
写真はないし、誰かが見たという証拠もない。名前すら分からない。
森で会ったことも。話したことも。境界を見たことも。全部、私の記憶の中にしかない。
それでも、私は友達がいたと思っている。
あの時間があったから、私は何度も森へ行った。あの人と話したから、少しだけ笑えた。
あの人に「ひとりでいるの、向いてるよ」と言われたから、自分が1人でいることを少しだけ許せた。
そして、最後には「君が選んだ」と言われた。
あのときの私は、その意味が分からなかった。
今でも、完全には分からないけれど。
けれど、たぶん、あの日。
境界の前で立ち止まったとき。私は何かを選んだ。向こう側へ行かなかった。誰かに手を引かれることもなかった。精霊さんに連れていってもらうこともしなかった。
ただ、そこに立っていた。
そして最後には、自分の足でこちら側へ戻った。
もしかすると、 「君が選んだ」というのは、そのことだったのかもしれない。
誰かが私を選んだのではない。森が私を選んだのでもない。精霊さんが私を選んだのでもない。
私が、私自身で残る場所を選んだ。そう考えると、少しだけ腑に落ちた。
でも、本当にそうだったのかは分からない。
精霊さんはもういない。森も、何も語らない。だから、私はそれ以上考えなかった。
私は窓を開けた。外から風が入ってくる。森の匂いはしなかった。湿った土の匂いもしない。木々のざわめきもしない。
代わりに、車の音が聞こえた。誰かの話し声が聞こえる。遠くで自転車のブレーキが鳴る。生活の音。
私はそれを聞いていた。以前は、こういう音が嫌だった。人の声が怖かった。世界から離れたかった。
どこか別の場所へ行きたかった。誰も自分を知らない場所へ。何も求められない場所へ。森はそんな場所だった。少なくとも、私にはそう見えていた。
森は私を待ってはいなかった。私がいなくなっても、何も変わらない。木々は立っている。葉は落ちる。雨が降る。季節が変わる。
私がそこに意味を見つけても。何も見つけなくても。森はただ、そこにある。
世界は、私のために存在しているわけではない。それが、今の私には少しだけ嬉しかった。
私が何もしなくても、世界は勝手に続いていく。私は、その世界の中にいていい。
何者かにならなくても。誰かに選ばれなくても。特別じゃなくても。私はここにいていい。そう思えた。
夜になった。
部屋の電気を消す。ベッドに横になる。暗い天井を見つめる。
少しだけ、森を思い出した。境界。静かな空気。あの人の声。
そして、最後に聞いた言葉。
——君が選んだ。
今なら少しだけ分かる気がする。
あの日、私は境界の前で立ち止まった。
誰かに止められたわけではない。誰かに引き戻されたわけでもない。私は、自分で立ち止まった。
そして、自分で戻った。それが正しかったのかは分からない。あれが本当に選択だったのかも分からない。
それでも、今の私はここにいる。
森の向こう側ではなく、この部屋に。この世界に。自分の身体の中に。
私は目を閉じた。
明日は大学へ行く。その後帰ってきて、ご飯を食べて、お風呂に入って、眠ろう。
きっとまた、寂しくなる。
それでもいい。寂しいと思えるのも。誰かを恋しく思えるのも。全部、私がここにいるからだ。
私は布団の中で、自分の胸に手を置いた。
心臓が動いている。規則正しく。確かに。私はひとりだった。
けれどもう、それだけではなかった。
森に行かなくても。精霊さんに会えなくても。誰かに選んでもらえなくても。私は私のそばにいる。
そのことだけは、誰にも奪えない。
目を閉じる。
部屋は静かだった。もう、誰の声も聞こえない。私は小さく息を吐いた。
そして最後に、自分自身に言い聞かせるように、静かに呟いた。
「私には私がついている」




