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第23話 秘密の境目

 森に入ると空気が変わる。

 昨日まで落ち着きを失っていた心が、嘘みたいに静かになる。ここに来れば大丈夫だと、私にはもう不安はなかった。


 精霊さんは、いつもの場所より少し奥にいた。今日も輪郭がはっきりしない。木々の影と重なって、服の色だけがぼんやり見える。


 「来たね」


 声を聞いた瞬間、胸の奥が緩む。なんて優しい声なんだろう。


 「今日は森に来ないと無理だった」


 正直に言っても精霊さんは否定しなかった。


 「うん。そういう日もある」


 しばらく並んで歩く。足音はほとんどしない。朝の空気の冷たさが肌に当たって気持ちがいい。


 「ここはね」


 精霊さんが、前を見たまま言った。


 「境目なんだよ」


 私は立ち止まる。


 「境目?」


 「世界と世界が重なっているところ」


 その言い方を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。初めて聞いたはずなのにどこかで知っている気がして。


 「全部が分かれてるわけじゃない。薄く重なってる場所がたまにある」


 森の奥を指さす仕草。そこには、ただ木があるだけだ。何の変哲もない他の木々と同じ木が一本。


 「ここは、そのひとつ」


 私は喉の奥で、言葉を探す。


 「じゃあ、私は……どうして?」


 どうしてここに来てしまうのか。どうして森に引き寄せられるのか。


 精霊さんは少しだけ首を傾げた。


 「君は引き寄せられやすい」


 断定だった。むしろ、なんで君は分からないの、とでも言いたげな表情。


 「理由は?」


 私が問いかけても、すぐに返事は来なかった。風が吹く。葉が揺れ、森が一瞬ざわめく。


 「それは教えられない」


 「知らないから?」


 「知ってるけど」


 精霊さんはそこで言葉を切った。


 「知らないほうがここにいられるから」


 目線を外して気恥ずかしそうに、ぽつりと呟いた。その言い回しが妙に整っていて、私はまた既視感を覚える。


 境目。重なり。引き寄せられやすい。

 頭の中で、何かが引っかかる。


 私は家の本棚を思い出していた。

 大学に入る前から何度も読み返した、薄い文庫本。


 ——世界は分断されているのではなく、折り重なっている。

 ——境界に近い人間ほど、向こう側を夢見る。


 そんな一節が、確かにあった、ような。でも、それを今ここで言い出すのは、変だ。


 「私、前にもこの言葉を聞いた気がする」


 「そうかもね」


 まただ。肯定でも否定でもない。すこし笑っているような声。


 「君はよく考えるから」


 「考えすぎってこと?」


 「うん。でもそれが悪いわけじゃない」


 森の中にいると考えることが許されている気がする。現実では無駄だと言われてきた思考。ここでは全部そのままでいいのかもしれない。


 「ここにいると楽だなぁ」


 そう言うと精霊さんは何も言わなかった。ただ同意もしないし否定もしない。

 隣にいるわけじゃない、ただそこにいるだけ。この距離感が私にとって心地がいい。独りじゃないんだって思わせてくれるから。


 帰り際、私は振り返る。


 「また来てもいい?」


 精霊さんは、すぐには答えなかった。


 「来るよ」


 「……来ないかもしれないでしょ」


 「いや、来るよ」


 なんでそんなに言い切れるの。


 それでも私はなぜか安心してしまった。


 森を出るとき、境目という言葉が頭の中で何度も反響する。それが自分の言葉なのか、精霊さんの言葉なのかもう分からないけれど。


 でも、不思議と怖くはなかった。そんなことより、精霊さんが心を開いたから話してくれたのかな、と私は嬉しいという気持ちでいっぱいだった。

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