第20話 森のトモダチ
森に入ると、空気が少しだけ柔らかくなる。
音が減るわけでも、光が変わるわけでもないのに、なんとなく曖昧になる。
私は同じ道を歩いているはずだった。何度目か分からなくなった頃、足が自然と止まる。
——来た。
誰かが言ったような気がした。それは声だったのか、私の考えだったのかは分からない。
風に心地よく揺られる木々の間に、色の違う影がある。人の形をしているようにも見えるし、そうでないようにも見える。
服の色だけが、ぼんやり分かる。淡い葉と、土の自然色。どこまでが体で、どこからが背景なのか、境目がない。それくらい儚く、気を抜いていたら見失ってしまいそうな。
「……精霊さん?」
気づいたら、そう呼んでいた。
名前を聞くよりも先にその呼び方が出てきた。それが相応しいと、人ではない何かであると感じたから。
影は少しだけ首を傾けた気がした。しかし、否定はされなかった。
「また来たね」
声がはっきり聞こえた。不思議と耳からその声が入ってきた感じはしない。
「うん。来たよ」
理由は言わなかった。それ以上に聞かれもしなかったけれど。
私はその場に立ったまま、しばらく黙る。
沈黙が苦しくない。でも少し寂しい気がするのはなぜだろうか。
「ひとりでいるの向いてるよ」
精霊さんはそう言った。慰めでも皮肉でもない調子で。でもそれが本音で言っているのが分かった。
私は少し驚いた。反論は浮かばなかった。
「……向いてる、かな」
「うん。無理してない」
そう言われて、胸の奥がゆるむ。
孤独を否定されなかったことが、こんなに楽だとは思わなかった。
誰かと一緒にいないこと。うまく輪に入れないこと。それを直すべき欠点みたいに扱われないこと。
まるで心の何処かで泣いていた私に手を差し伸べてくれたかのようだった。
私は近くにあった大きめの岩の上に座った。精霊さんも少し離れたところに腰を下ろしたように見える。距離はある。でも、遠くない。声は聞こえる距離だ。
「ここだと話しやすい」
思ったことをそのまま、口に出していた。
精霊さんは、すぐには返事をしなかった。葉が擦れる音だけがする。
「そう感じるならいい」
肯定ともいえないが、否定でもない言葉。
私は続ける。
「現実より楽、だな」
それを言ってしまったあと、少しだけ不安になる。学校も家も辛いことばかりだ。
でも、精霊さんは責めない。
「現実は声が多いからね」
「……うん」
名前を呼ばれない。でも、ここではちゃんと聞かれている気がする。
「ね」
私は精霊さんを見る。見失わないように、いつ消えていかないか不安で。
「私たち、友だちだよね」
言葉にした瞬間、胸が軽くなる。
決めつけでも勘違いでもいいと思った。友だちだと思えるような人に出会えたことが嬉しくて。
精霊さんは、少し考えるように黙った。風が吹いて、影が揺れる。
「……一緒にいるね」
それだけだった。
友だち、とは言わないんだ。でも、拒絶もしなかった。
私はそれで十分だった。同じ言葉を使ってもらえなくても、気にならない。
むしろ、安心する。定義されない関係。友だちじゃなくたって、知り合いだって、顔見知りだっていい。あとで壊れる理由が少ない方がきっといい。
時間がどれくらい経ったのか分からない。スマートフォンは取り出さなかった。
ここでは時間なんか必要ない気がする。
「また来るでしょ」
精霊さんが言う。それは質問じゃない。予測でも、願いでもない。ただの断定で。
「……うん」
私はうなずいた。迷いはなかった。
立ち上がると森の奥が少しだけ暗くなる。精霊さんの姿が背景に溶けていく。
「また会ってくれるの?」
私はそう言った。返事はなかったけれど、不安はない。
帰り道は考えなくてもなんとなく分かった。体が覚えているみたいに。
森を出ると胸の中が妙に静かだった。重たいものがひとつ減った感じ。
何が変わったのかはまだうまく説明できない。でも確かに軽い。
友達ができた、たぶん。いや、できたんだ。そう思うだけで息が多少なりともしやすくなる。
事実は何も増えていない。精霊さんの名前も、約束も、いた証拠も何も。
それでも私は満たされていた。




