第19話 いなかったはず
また来るでしょ、と言われた言葉が、頭の奥に残っていた。
それは約束ではなかったし、誘いでもなかった。どんな感情で言ったのか、ただ事実のように置かれただけの言葉。
先日と比べると、体はもうだいぶ楽だった。熱も下がり、喉の痛みも薄れている。けれど完全に回復した感じはしない。
次に森へ行ったのは体調が戻った数日後だった。
本当は翌日にだってあの森に行こうと考えた。でもひとりで考える時間が欲しかった。
断定された言葉にむかつくような気がしても、だからと言って行かない理由も、特に見つからなかった。気づくとあの言葉、あの人影のことばかりに囚われている数日だった。
前と同じ道を歩く。住宅街を抜け、車の音が遠のき、木々が増えていく。足取りは前よりも迷いがなかった。ここへ来るのが少しだけ自然な行動になっているようで、足取りも軽かった。
森に入ると、空気が変わる。今日も霧で包まれている。
辺りの空気は冷たさではなく重さがあり、私から出る音がたちまち吸い込まれているような感じ。
私は、森の奥へ進んだ。
道は分からなったけど、あの日立ち止まった辺りまで行きたかった。
この辺りだった気がする。暗い森の中で、少し開けた光の差す小さな公園のような空間。
でも、そこには誰もいなかった。
輪郭も、色も、気配もない。木々は同じように立ち、地面には変わりない静けさがある。
立ち止まって、耳を澄ます。あるのは葉擦れの音と、自分の呼吸だけ。
「……」
名前を呼ぶつもりはなかった。
それでも、声にならない何かが、喉の奥まで上がってきていた。
返事はない。当然だ。声を出さず、ただ立ち尽くしているだけの私に気づいてほしいだなんて、なんて都合のいい考えだろう。
少し拍子抜けした。
会えると思っていたわけじゃない。かと言って、いないと分かれば胸のどこかが落ち着かない。
私はその場に立ったまましばらく動かなかった。待っているという感覚とも違う。
ただこのまま、ここにいるべきだと思った。
風が吹く。枝が揺れる。その音が一瞬だけ言葉のように聞こえた。
——無理しなくていい。
はっとして、周囲を見る。もちろん、誰もいない。気のせいなんかじゃない。
さっきのは、私の考えだ。そう思おうとしたのに、妙にしっくりきてしまう。あの人の声だった気がした。でも、声を思い出そうとするとその形が崩れていく。声の高さも速さも何も定まることはなく。いなかったはずなのに。
歩き出す。森の中を、ただ歩く。当てもなく。
道という道はなく、ただ木々の間を進むたびに、背後で足音がした気がする。それでも振り返ると、そこには何もない。それを何度か繰り返すうちに、やがて私は確認するのをやめた。
もう確かめないほうがいいのかも。
私は、誰かと一緒に歩いている感覚を、否定したくなかった。
実際には独りだと分かっているのに。
「……また来たよ」
それは独り言だった。小さく、でもはっきりと。聞こえてたらいいなって。
森に向けた言葉。自分自身にも言い聞かせた。
返事はない。
それでも、胸の奥が、少しだけ軽くなった。
それからしばらく歩いて疲れを感じ、周りを見渡した。立ち止まると急に現実が戻ってくる。足の感覚、冷えた指先、時間の流れ。
今日は会えなかった。そう結論づけるのが、正しい気がした。
帰ろうとしたとき、ふと気づいたことがあった。最初に感じていた不安が、消えている。何も起きていない。誰とも会っていない。それなのに、私は満たされていた。
森を出るころには、あの人の輪郭は完全に思い出せなくなっていた。それでも、次は会える気がするという何の根拠もない感覚だけが、なぜかはっきりと残っていた。
それが少しだけ怖かったが楽しみでもあった。私の足取りは少し軽かった。




