第18話 声のようなもの
森の奥は思っていたよりも静かだった。それは学校や駅などでは絶対に感じることのできない空気。鳥の声も、風の音も、さっきより遠い。音が消えたというより、私から距離を取ったみたいだった。
どこまで歩いたのか分からない。どのくらい歩いたのかも分からない。足は止めようと思えば止められたのに、いつだって道を引き返すこともできたのに、そうしなかった。帰る理由も、進む理由も、どちらも同じくらい弱かった。
不意に視線を感じた。
それは、背中ではないが目の前でもない。森そのものに見られているような感覚が全身を震わせた。
ゆっくりと立ち止まると、葉擦れの音が一瞬だけ止んだ。気のせいだと思おうとした、そのときだった。
——声のようなものが聞こえた。
はっきりとは聞こえない。言葉の形をしていない。ただ、音の流れの中に、私に向けられた何かが混じった気がした。
名前を呼ばれたと思った。でも、それが自分の名前だったかどうかは分からない。
視線を上げる。木々の間に、人影のようなものがあった。近づいてくるわけでも、逃げるわけでもない。ただ、そこに立っている。輪郭は曖昧で、光の具合で形が変わる。服の色だけが、妙に印象に残った。くすんだ緑か灰色かその中間のような、はっきりとは分からない。頭と首に植物の装飾をつけているように見えた。
年齢は分からない。性別も、表情も、もちろん感情だって何も分からない。
「……誰」
それはとても小さな声。自分でも聞き取れたか分からないような。
私が声に出したつもりだった。でも、自分の声だったかどうかも怪しい。
その人影が、少しだけ首を傾けた気がした。
「ここに来るの久しぶりだね」
そう聞こえた。
でもその言葉は耳ではなく、頭の内側に直接落ちて入ってきた感じがした。
久しぶり?
そんなはずはない。ここに来たのは今日が初めてだ。
「ふふ。前も同じ顔してたよ」
胸の奥が、ひどく静かになった。否定する言葉が浮かばない。
私が知らないだけなのかな。前にも会ったっけ。そう思ったから。
私は、この人に会ったことがない。でもこの人は私を知っているみたいに話す。
「名前は?」
問いかけられた気がして、私は答えようとした。
けれど、口を開く前に、その必要がないと思った。
相手も名乗らなかった。
あるいは、名乗ったのかもしれない。短い音だった気がする。でも、次の瞬間には、もう思い出せなかったし、それを不思議だとも思わなかった。
森の中では重要なことほど、すぐに輪郭を失っていく。
沈黙が落ちる。居心地の悪い沈黙ではなかった。誰かと話すときに感じる、気まずさがない。
「無理しなくていい」
それが、言葉だったのか、私の考えだったのか、区別がつかない。
「ここ、好きでしょ」
好きかどうか、考えたことはなかった。
ただ、ここでは呼吸がしやすい。この森が好きだ。
私は頷いたような気がした。実際に自分の頭が縦に動いたのかどうかは分からない。時間がどれくらい経ったのかも分からない。森の奥で私は立っていて、相手もそこにいて、世界はそれ以上の情報を寄越さなかった。
やがて、人影が一歩だけ下がる。それが別れの合図だと、なぜか分かった。
「また来るでしょ」
疑問形ではなかった。
予測でも、願いでもない。
ただの断定。
私は何も答えなかった。
否定する理由も、肯定する理由もなかった。
次の瞬間、視線を逸らしただけで、人影は木々に紛れていた。最初からそこには何もいなかったみたいに。
森はまた音を取り戻す。風が吹き、葉が擦れる。
私は、その場に立ったまま動かなかった。
胸の奥に、名前のない感覚だけが残っていた。
会ったかどうか分からない。誰かがいたような。
でも、確かに——私はこの森でひとりではなかった気がした。




