第17話 森に行った日
熱は下がったはずだった。体温計の数字はほぼ平熱。喉の痛みもほとんど残っていない。それでも身体の奥に、うまく言葉にできない不調が沈んでいた。眠り足りないような、逆に眠りすぎたような、境目の分からない感覚。頭が晴れない。
朝、起きてから何もしていないまま、三時間が経った。食事を取る気にもならず、着替える気力もなく、布団の中で天井を見ているうちに昼を過ぎた。時間だけが、私を置いて進んでいく。
恐らく長い時間、夢と現の狭間にいた。
何の前触れもなく、突然、外に出なければならないと思った。
散歩をしたいわけではない。用事があるわけでもない。ただ、部屋にいることが間違っている気がした。だから私は、身体を起こしベッドを降りた。
私は着替えて髪を結ぶ。病み上がりかけだからコートを羽織る。財布とスマートフォンをポケットに入れる。鍵をかけたあと、一瞬だけ立ち止まったけれど、その理由は分からなかった。忘れ物なんてないはずだ。
駅とは反対の方向へ歩いた。
いつもなら選ばない道だった。住宅街を抜け、店も人も減っていく。足音だけが、やけに大きく聞こえた。
私の頭はまだうまく働かなかった。何も考えず、半分眠っているような感覚のまま、ふらふらと歩き続けた。
気づくと、視界に木々が増えていた。道の先に、小さな森がある。
地図に載っていた記憶はない。看板も、名前も、注意書きもない。ただ、まとまって生えている木の集まり。
近づくにつれて、人の気配が薄れていく。霧が立ち込めている。
遠くの車の音も、生活の気配も、ここには届かない。聞こえるのは、風と葉擦れの音だけだった。
私は、ためらいもなく森に入った。
理由は特になかった。思考より先に体が動いて、引き寄せられていた。
道らしい道はない。けれど、踏み固められた地面が続いている。誰かが歩いた痕跡が、確かにあるはずなのに、今は誰もいないみたいだ。
森の中は、外より少しだけ暗かった。木々が空を覆い、霧があたりを覆い隠し、光は細かく砕かれて地面に落ちている。時間の感覚が、ここでは曖昧になる。
どれくらい歩いたのか分からない。
スマートフォンを取り出そうとして、やめた。どうせ通知はないのだし。画面を見ると、非日常感のあるこの場所がいつもの現実に戻ってしまう気がした。
足を止める。
さっき通ったはずの場所が、分からなくなっていた。似たような木、似たような影。どこから来たのか、確信が持てない。
迷った。一瞬、胸がざわつく。でも、怖さよりも先に、不思議な落ち着きが来た。
ここには、誰もいない。誰にも見られていない。誰の期待も、失望も、届かない。
そう思ったとき、身体の奥に溜まっていたものが、開放されたような気がした。私は無意識に口元が緩んでいた。
風が吹く。枝が揺れ、葉が擦れる。その音が、言葉のように聞こえた気がした。意味は分からない。ただ、私に向けた言葉である気がした。
立ち止まって、耳を澄ます。
何かを探しているわけではないのに、何かを、誰かを待っている感覚だけがあった。
森は静かだった。静かすぎて、自分の呼吸音が浮いて聞こえる。
ここにいていい。
そう言われた気がしたわけではないが、そう思った。
道に迷っているはずなのに、帰り道を探そうという考えが頭に浮かばなかった。
今は、家に戻らなくていいや。もうすこし此処に居たい。
私は、木々の間に立ったまま、動かずにいた。
時間が過ぎているのかどうかも分からないまま、名前のない小さな森の中で。




