第12話 小さな旅行
朝、目が覚めたとき、今日は遠くへ行ける気がした。
理由はない。ただ、同じ場所にいるのが億劫だと思ったからだ。
天気予報を確認する。曇り、ところどころ晴れ。傘はいらない。1月にしては暖かく、お出かけもいい気温10度。
財布とスマートフォンを鞄に入れ、玄関で少し迷ってから文庫本を戻した。今日は読むためではなく、歩くための日にしたかった。
駅までの道は静かだった。通勤時間を少し外しているせいか、人の流れがゆるやかで、歩調を合わせる必要がない。誰かの後ろを歩かなくていいだけで、息が楽になる。
切符売り場の前で立ち止まり、行き先表示を眺める。見慣れない駅名の中から、なんとなく目に留まった名前を選んだ。降りたことのない駅。同じ大学の学生や教授がいないであろう場所。
電車に乗り、窓際に立つ。流れていく景色を追いながら、頭の中が少しずつ空になっていくのが分かった。
時間が経つにつれて、同じ車両にいた他の人たちが降りていなくなっていく。私はボックス席の窓側に座り、肘をついて窓の外を眺めて過ごした。
目的の駅で降りると、小さな改札があり、その先に抜けると、低い建物が並ぶだけの町があった。観光地らしい賑わいはない。知らない人しかいない。それが、こんなにも安心できるとは思わなかった。
歩き出す。
視線を気にしなくていい。歩き方を考えなくていい。ここでは、私は誰の記憶にも残らない。
川沿いの道を見つけ、ゆっくりと進む。水の音が一定で、時間の感覚が薄れていく。ベンチに座り、しばらく何もせずに流れを眺めた。
左腕に付けた黒の腕時計を見る。いつもは腕時計を付けない。テストがあって必要な時だけ。でも今日は、なるべくスマートフォンを見ずに過ごしたかったから、あえて腕時計を付けて来た。
なるほど、お腹が空いている訳だ、と思った。この町について少しだけ散歩をしていたはずが、もう十四時を回っている。
しばらく飲食店を探し歩いたが営業している店は見つからなかった。結局、駅のすぐそばにあった小さな食堂に入る。注文をして、料理が運ばれてくるまでの時間さえ、落ち着いていられる。普段なら、空腹を感じると心の何処かが焦燥感に駆られるのに。旅行中だと気にならないのは、なんとも不思議な気分である。
豚汁定食。よく素朴だとか家庭的なご飯だとか言われるが、いくつもの小鉢に料理をするのは手間も時間もかかる。卵焼き、沢庵、胡麻和えに煮びたし、私にとってはそれらが美しく、輝いて見えた。
自分では作らない料理、新鮮な味。お腹も心も満たされていくのを感じた。
食後、また歩く。
道に迷っても構わない距離だけ、遠回りをする。
夕方の空気は少し冷たく、頬に触れる風が心地よい。誰にも会わず、誰にも呼ばれず、それでも私はちゃんと存在している。
帰りの電車に乗る頃には、少しだけ疲れていた。でも、その疲れは嫌なものではなかった。
部屋に戻ると、いつもの静けさが迎えてくれる。
今日は逃げたわけじゃない。ただ、羽根を伸ばしに行っただけだ。
そう思えることが、少し誇らしかった。




