第11話 ひとり読書
その日は、外に出る気にならなかった。
理由は特にない。ただ今日は人の声を聞かなくてもいい日だと思った。
部屋の隅に積んである本の山から、一冊を引き抜く。表紙は少し擦れていて、角が丸くなっている。新品だった頃の記憶はない。気づいたら、ここにあった本だ。ただ、処分できずに残っている、いわゆる積読の本。
ベッドに腰を下ろし、ページを開く。
最初の数行は、うまく頭に入ってこない。文字を追いながら、先日のことを思い出してしまう。知らない輪の中、ぎこちない空気、自分の居場所のなさ。
ページをめくる音が、その記憶を少しずつ遠ざけていく。
物語の中の人物は、当たり前のように誰かと話し、葛藤し、選択をする。そのどれもが、現実味を帯びているようで、どこか他人事だった。
「なんだかなぁ」
気づいたときには、小さく声が漏れていた。
驚いて口を閉じる。部屋には私しかいないけれど。
もう一度、その行を指でなぞり、読み返す。
登場人物は、私の忠告を聞くこともなく、物語の流れに身を任せて進んでいく。
少し可笑しくなって、鼻で息を吐いた。
誰かと話したいわけじゃない。ただ、文字の向こうにいる誰かが、返事をしなくても存在していることが、少しだけ心地よかった。
ページの途中に、気になる一文があった。
——世界は、きっぱりと分かれているわけではない。
その続きが、すぐには理解できなかった。
何度か読み返して、ようやく意味を追う。
——重なり合っている部分が、わずかに存在する。
「……ふうん」
分かったような、分からないような。
でも、その言葉だけが、なぜか引っかかる。
誰かと話したいわけじゃない。
ただ、文字の向こうにいる誰かが、返事をしなくても存在していることが、少しだけ心地よかった。
——境界に近い人間ほど、向こう側を夢見る。
ページをめくる。
別の場面で、また口が動く。
「……ま、そうなるよね」
今度はページをめくる手を止めなかった。
独り言と区別がつかないくらいの小さな声だった。
読書は、誰とも関わらずに別の場所へ行ける手段だ。返事を求められないし、沈黙も許される。途中で本を閉じても、置いていかれない。
本を読んでいるだけなのに、窓の外が暗くなっていくのを視界の端で感じる。時間は確かに進んでいるのに、私はここに留まったままだ。
それなのに、頭の中だけが、少し遠くへ行っている。
しおりを挟み、本を閉じる。
物語は途中で止まる。でも、不安はない。続きを待ってくれている気がした。
ベッドに横になり、天井を見る。
さっきまで読んでいた文章が、まだ頭の奥で息をしている。
重なり。境界。選ばれなかった場所。
意味ははっきりしないのに、本の中の言葉が、まだ頭の奥に残っている。
誰かの人生を覗き見ただけなのに、少しだけ気持ちが落ち着いていた。自分の輪郭が、さっきよりはっきりしている気がする。
「また、あとでね」
本に向かってそう言ってから、少し遅れて気づいた。
今のは、独り言だったのか、それとも。
考えるのをやめて、目を閉じる。
部屋は静かで、誰もいない。
それでも、さっきより少しだけ、孤独がやわらいでいた。




