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異説・安珍と清姫。  作者: どんどあげ


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六 幕間


 朝起きると、ぐいと伸びをする。ころんと腹を下にして、腕を伸ばして膝を立てると、背中の筋を縮めて腹の筋を伸ばす。猫の伸びのような格好でしばらくいると、肩甲骨のあたりがびりびりとしてきて、脇腹が伸びて自然と呼吸が伸びていく。掛け布団を蛇腹に折り畳み、もう一度ころりと臍を天にむけ、骨盤を持ち上げるようにして体を反る。そうしてまたころり。布団を出ると冷やっこい井戸水を湛える盥で顔と手を洗い、手拭いで体を拭く。拭いたところがすうっと冷えて、すっきりと睡魔を追い出して歯を磨き、起き出した気配に使用人がやってきて、布団を干したり寝巻きを洗ったりと世話をしてくれる。幸太郎の部屋は、こういった六畳間で完結できる。前の前に住んでいた半畳の壊れた祠に比べれば快適で、体が鈍っても嫌だからと使用人には、幸太郎ができないことのみ頼んでおいてある。

 朝の廊下は方角によっては暗く、明るく、するすると膝でいざって朝食は、既に明け方からの仕事を一つ終わらせた直継が待っていてくれる。

 「おはよう。」

 「おはよう、直継君。今朝はどう?」

 「どうもこうも。」

 最近の直継は、筆頭家老の息子というより、免許皆伝の剣術師範代として城の道場に出向いている。

 「上手いこと逃げる奴がいるんだ。」

 「お稽古から?」

 「俺から。」

 「それは将来有望。」

 なんといっても直継は、迫る海の中にひとを助け出し、全く縁もゆかりもない土地で一人前に仕事ができて、生涯の相手さえ見つけてくるような男である。足は速いし腕も立つ、頭も良けりゃ顔も良い。梅雨入り前の独特の気怠くも爽やかな朝である。天が繰り返し始めた小雨の中に泥濘む足場を散歩するにはちと鬱陶しくて、直継と幸太郎は向かい合ってのいただきますと相なった。

 ぱりぱりと香の物の音だけが立つ食事の場は、堅苦しいといえば堅苦しい。けれど幸太郎はまともに座して茶碗を手に箸を持って食事をするだけで幸せな人生を送ってしまったから、直継も機嫌良く見守って。

 「幸太郎は、どうする、今日は。」

 「んう、本でも読もうか知らん。」

 「変な本はやめておけ。」

 「いやだ、変な御本なんて村にはないの。」

 「実継の本はさぁ……。」

 「お料理の本とか、胡瓜や茄子の育て方とかあるんだよ。」

 「あいつ、まじ乱読だから……。」

 「面白いよ? 次は何の御本かなって。」

 「そうか……。」

 幸太郎は面白いくらい知識欲に従順で、蘭学書なども平気で読んで、書き物で肩が凝ったという直継に按摩をやって感動させた。植物図鑑片手にちょろっと姿を消して、土まみれで帰ってきたりもする。直継の祖父に貰った一軒家もどうにか使い物にしなくてはいけないから、掃除だとか家事だとか、やることもいっぱいであった。

 「おはよう、直継!」

 「おお、実継、早いな。」

 「そうでもないよ。昨夜眠れなかったから。」

 「ア゛? なんかあった?」

 「おはようございます、実継さん。」

 「おはよう、幸太郎さん。」

 お膳を片付ける使用人に白湯の支度をさせて、焙じた茶葉があったはずだと幸太郎が家内の指示をして、最初は遠慮しきりのおずおずだったそれらは、徐々に使用人達も根気良く聞いて、欲しいものはありませんかと我儘を言わせて今の形になったのである。直継の家内はほぼ幸太郎がやっていて、その手足となれる使用人達も、直継の屋敷でようやく直継のために働けて嬉しかったのだ。ぽんと出てきた家内様は、足は不自由であれど誠実で直向きで、何より直継が大好きであることを隠さなかったから、ごく自然なことであったのだろう。

 「昨夜……、ああ、小火があったって?」

 「火事?」

 「そー。まじだっるい。放火じゃないかって話もあってさ、昨夜からずっと聴きとりを書類にしてさ。」

 「お疲れ様で御ざいます。」

 「幸太郎さんの焙じ茶だ。ありがとう。」

 いつも笑顔絶やさず、暇な時な絵を描いたり字を書いたりしている直継の異母弟は、きょうだいというより年季の入った友のようである。にこにこしているかと思えば、仕事では案外厳しい顔になるらしい。

 「放火だったらやばいなァ。」

 「まあ、お白州は僕の管轄じゃないけどね。これから使用人全員の改め。」

 「放火だったら大変なの?」

 「放火は基本的に死罪だぞ。」

 「ひ……。」

 他家の家財も巻き込むことを意図的にやったとなれば、そりゃもうただよそに流すとかでは問題は解決しない。やったことは命で償えという罪があるのだ。罪と罰は永遠に人類の課題となる。

 「変な話なんだけどさ、女が踊りながら火をつけたってんだよね。」

 「うわだる。」

 「女の人が踊っていたの?」

 「そういう目撃者がいたってだけ。本当にいたのかこれから探すんだ。」

 「踊っていたの……。」

 はいこれ、と袂から実継は一冊の綴じ本を出した。幸太郎はぺこと軽く会釈をして受け取った。料理の本である。実継の母が編んだ本で、牛の乳を延々煮込むとどうなるかだとか、海水を延々煮込むとどうなるかだとか、雪を煮込むとどうなるかがとか、料理というよりも料理道具を使った実験といったほうが近い。

 「ありがとうございます。」

 「母上が幸太郎さんに会ってみたいって言うんだけど、どうする?」

 「そんな、遠慮します。僕がお会いしていい女性ではありません……。」

 「じいちゃんがそりゃもう、可愛い子だって触れまわってね。」

 「困ったおしと!」

 膨れる幸太郎に直継と実継が笑って、実継は昨夜の情報収集に一息気合いを入れて、ご馳走様でした、と綺麗なお辞儀をして引き続き出勤ということなのだろう、待たせていた奉公人と一緒に裏門から去っていった。

 「気になるか、踊り。」

 「御神楽をね、見たのね、小さい頃。」

 「神社で?」

 「そう、白緒さんが氏子の年だったと思うの。」

 「ああ、あいつは派手だろ。」

 「そう、ものすごく綺麗でね、お化粧をして、金の飾りがきらきらしていて……。」

 まだ四人で手習所に通っていた時代、きっと父か母の背に負われてみたのは、金銀の細工や着物で彩られた同輩で、東の高台にある神社から、海に向かってそぞろと行列を作っていた。

 「白緒さんが、すごく揺れると言っていて、謙真君が、じっとしていて楽だろうって言っていて……こし……お神輿に乗るのは氏子だけだから。」

 「ああ、神輿って揺れるよな……。」

 「そう、そうなの。それでわいわい喧嘩になってしまって。」

 楽しかったなあ、と幸太郎は直継の屋敷の廣い庭を見た。

 「それでね、海役っていうのがいて、漕ぎ手役がいて。」

 まず外周に海役が、中腰になって手や頭、肩を動かして波模様を描き、立ち上がって大波になり、それが本当にざぶんざぶんと海が嘶いているようであった。その内側に漕ぎ手役が四人いて、懸命に漕いで、魚を掬い、魚や白波に見立てた白い手拭いをひらひらと靡かせる。その中央に氏子が神輿の上でじっと背を伸ばして海だけを見て、しゃりんと行手を指した神楽鈴を揺らさずに鳴らすという演目であった。

 「漕ぎ手っていうのがね、変な動きをするの。」

 「変な動き。」

 「そう。……えっと、」

 こうね、と櫂を持って漕ぐ素振り、両手で櫂に見立てた祭具を持って、前から後ろに神輿の四隅に一心不乱に漕いでいた。

 「そうしたら、次はこうね。」

 次にこうして、と櫂を横に持ち、斜め方向に上下する。これを氏子が本殿から海辺に降りるまで、何周か振りを繰り返す。神社からはゆるい石階段があって、海坊主を供養する小さな社に到着すると、海役漕ぎ手役が海に入って、神輿を下ろされた氏子が、東西南北と鈴を鳴らして、懐に入れてきた包みを海坊主の社に奉納して終了。そのあとは儀式に使われた酒や米を消費するための宴会をして終わるが、子供達は宴会の前にはすっかり氏子の化粧も遊んで取れてしまっていた。

 「あの社は海坊主だったのか。」

 「謙真君がいうには、海難事故の供養だろうって。」

 「はあ、なるほどなあ。」

 正しく海に供物を捧げる祭りは確かにあの村に存在した。いつの間に捻じ曲がって幸太郎を海際に生贄としたのかは不明だが、きっと正しく伝承された神楽があったのだ。

 「あれから僕は見ていないのだけれど、皆で楽しそうだったな……。」

 「ああ……。」

 きっと楽しい晴れの日だ。あの村の神社は神主が不在であった。そういった晴れの日は山から神主が派遣されたりするのだろう。

 「それでね、あの御神楽はなんだろうねってお話になったの。」

 「幸太郎らしいなァ。」

 「んう、そうか知らん?」

 「こうだろ?」

 それは竹を編んで作った網を構えて、泥の中の小魚を拾うような舞である。

 「そう、それ!」

 櫂を網に見立てて、腰を低くして小魚を掬う、ちょっと滑稽で、それでも昔から続く漁師の格好だ。

 「海で漁をする村には、こういう舞があるんだ。歌いながらとか、寒さで凍えないようにって対策なんだろ。」

 「そっか、仲間が溺れたらわかるんだね、そのしとだけ違う格好だから。」

 「多分な。こういう風習は海の狩猟が盛んな地域によくある。……受け売りだ。眼ぇキラキラさせんな。キスするぞ。」

 「え、ちょうだい?」

 朝である。まあ旅人学者の著作に似たような話があったし、直継が見た村にもあった。あの村に根を下ろすまでは、色々な村を見て回っていたのだ。直継はきっとあちこち旅をしながらそれらの風習を学んで途切れさせないように、途切れそうになっている原因は何か、そうやって国の隅々を巡る仕事がしてみたい。各地の美味い飯を探す旅がしてみたい。

 「で?」

 「……ん、んっ。」

 「もう一回?」

 「んう……。」

 この口下手を連れ出すにはどうすればいいかと直継は考える。どこに行きたいだとか、何がしたいかだとか、もっと叶えてやりたいし、もっと我儘に振る舞ってほしい。

 「そいでね、あはは、くすぐったいっ。」

 「耳可愛いな。」

 「かっまないでってばっ。」

 いちゃいちゃもちもちやっていれば、屋敷の使用人だの武家奉公人だの厩番など微笑ましそうに見守ってくれる。こうした環境だってきっと尊い。

 「そんで?」

 「それでね、きっと海から魚が沢山きますようにっていうお話なんだろうって勇之亮君が言ったのね。五穀豊穣だろうって。」

 「ま、そうだろな。」

 「それが違ったの。与謝野先生がお取り寄せになった書物に、御神楽の伝来があって、補陀落渡海を題材にしたものだったの。」

 補陀落渡海とは、観世音菩薩が座す補陀落山に船で向かうという厄介な風習である。直継はそれらを元は水葬や入水といった風習に名前をつけたものだと考えており、補陀落山も蓬莱山も南の海にあるとは思っていない。自ら拾い上げた幸太郎こそ蓬莱の玉の枝だ。金の髪飾りを擽ってやりながら、整った睫毛が上下に瞬いた。

 「これが面白いお話でね、補陀落山を目指して出発したけれど、途中で船が沈みそうになって大慌て、という物語だったの。これは直継君が好きそうだぞって思ってね、与謝野先生と謙真君に送ってもらったんだ。読む?」

 「読む!」

 まずは最初はあの村から。世界廣しといえど、あれほど愛して恨んだ村はない。もっと調べて学んで働いて、きっと魂の故郷になる。

 「女のしとが踊っていたの、何のお話だったのか知らん……。」

 きっと浜辺の御神楽が、五穀豊穣の祈りだと思っていれば、補陀落渡海を揶揄する内容だったとか、なかなかのスキャンダルである。それに近しい何かがあると、幸太郎との対話によって、直継には気になるものへと変化していった。

 「実継、俺も見てていいか。」

 「見てるだけ?」

 「こうたろが作った握り飯がある。」

 「最高。お昼にしよ。」

 直継の屋敷には遠く及ばない屋敷ではあるが、小火があった広い畳敷は、焦げて消火の水浸しで凄惨な有様である。布団が一組焼けていて、枕元には湯呑みが一つ割れていた。鉄の燭台は襖の隅にあった。床の間があり広間があり、先祖代々の戒名が並んだ仏壇がある。

 「こうして見ると、火事ってのは厄介だな……。」

 「でしょ。燭台は蝋燭がないから違うと思うけど、仏壇の蝋燭と線香、手燭の皿は見つかってないけど、可能性としてはそれが本命でしょ。行燈はこれだと焼けちゃってるよ。」

 火事場の火元の捜索が現状の課題である。布団の主人は夜中に火の中を自力で出てきたが、焼け落ちた天井板が背中に直撃、現在は医者の手当は終わったが、火傷の範囲が広いため、奥方がつきっきりである。夜中の見回りにきたのが、女中二名。本を読む主人を一人は見ており、もう一人は鼾を聞いている。本は綴じた部分だけ残っており、何の書物かは不明。鉄の燭台は消火の際に水は被ったが、油も蝋燭も付いていなかった。

 「前に線香が線香立てン中で燃えたのがあったな。」

 「あったね。お仏壇の中身はあっちで乾かしてる。」

 あっち、とされた庭の隅には、蝋燭立てや線香立て、位牌などが一度水に浸された後、清掃と日干しの真っ最中となっている。線香立ての中で折れた線香と新たしい線香がつながってしまって、線香立ての中で燻って火が起きた事例があった。これはもう再現不可能だが、仏壇から火は出ていないという見聞が既にある。

 「実継はどう見た?」

 「放火じゃないと思う。」

 「その心は。」

 「ん〜〜? 放火しても得する感じしなくない?」

 「お前らしいわ。」

 確かにこの家が凋落しようが栄えようが、直継たちには関係ない。父の上司が治める国の城下町、住みたい者はいるし、住まわせたいものもいる。かといって武家屋敷の一角が放火されたとして、縦横の水路で運送を担っている街であるから、消火のための水だって文字通り潤沢だ。

 「火が出たのは虎の刻。悪質と言えば悪質だけど、夜廻組の通報も早かったし、火消しも早かった。問題は、この家を狙ったのか、どこでも良かったのか。」

 「じゃあ、見回りの強化だな。父上には?」

 「武継さんが行ったよ。直継も見回り入ってくんない?」

 「いいぜ。あ、こうたろ……。」

 「幸太郎さんのことを九歳女児かなんかだと思ってる?」

 「いや……おとっちゃんかって……叱られ……。」

 「さすが直継。」

 元々世話焼きな男ではある。

 使用人はあくせくした爺が一人、女中が先述通り二人。奥方はこちらも先述通り主人の付き添いでお医者先生の診療所である。家人が寝入った深夜に火が起きた。縁側、障子雨戸と燃やして屋根の一部に到達、襖も隅だけが形を保っていた。仏間、主人の寝室の奥の間の二部屋はほぼ壊滅。使用人部屋兼奥方の部屋は無事だが、主人の部屋がなければ意味がない。女中の一人は煙を吸って医者にかかった。奥方は手に大小の火傷を負ったが、深いものではない。

 「放火と仮定すれば、塀の向こうから、火のついた紙でも何でも投げ込んで、ってところかな。」

 「燃えさしが飛んできた可能性は?」

 「無いかな。」

 火を使う職場はこの屋敷の付近にはなく、煙管の中身を捨てる際は踏んで消してからというのがマナーであるし、やはりわざと点けられたというのが今のところ有力である。

 「あ、女が踊ってたってのはなんだ?」

 「それがわっかなんないんだよねえ。目撃したのは、お向かいのおばあちゃん。影を見たんだって。若い女の影。」

 向かいの屋敷の婆は、還暦も過ぎて矍鑠としながらも日向で過ごす、やんごとなき若武者を育てた余生をのんびりと送っている。彼女は火が出た頃に老人独特の浅い眠りから起き上がって、低い塀のこちらに、若い女が何をか舞い踊っている影を見たという。屋根瓦が落ちる音がして、これは只事でないと番所に駆け込んでくれた。通報者の一人でもあったのは確かだが、夢でも見たんかと本人も首を傾げるほどであるから、深くは聴き込めなかった。

 「この辺の屋敷は塀が低いから、投げ込まれても届いちゃうし、投げ捨てられてたらもっとわかんない。長期戦になるよこれ。」

 「やばいな、自分で仕事増やしちまった。」

 「いや、やれよ、師範代。」

 もうじき夏になる。古式泳法の免許皆伝でもある直継は、水路を使って溺れないように、そして泳げるように水練の訓練もしなくてはいけないのだ。直継はひと処に留まるよりも歩き回るほうが好きだが、直継という才能の塊の流出は矢張り相馬家にとっては痛手なのである。

 「おカヨちゃんね、ええ子ぉよ。」

 お婆ちゃんは、焼け出された女中と使用人の爺を小さな庵と言っていい自宅に招いていた。前髪を上げたばかりのカヨは、他に行くところもなく、爺のほうは伝手を頼って寝床だけは確保しているらしかった。カヨはお婆ちゃんに紹介されて、ぺこと深く手をつき頭を下げた。こんな美男が何の用事かと慌てたようだが、若く溌剌としていて、お婆ちゃんの下りの着物が派手だった。

 「春から勤めております……。」

 別嬪なお侍さんは、挨拶を述べると二人と同じように濡れ縁に座り、何かお出しするものは、と彼女は慌てたが、お婆ちゃんは丸く下がった頬をにっこりと持ち上げた。

 「火が出た時のことを聞きたくてな、慌ただしかろうが、頼む。」

 「は、はい……と申しまして、わたくしが、起きた頃は、もう火が回っておりまして……おチカちゃんがいないから、吃驚して……。」

 おチカはもう一人の、煙を吸って喉を痛めた女中である。カヨは騒ぎに起きて、そのまま庭に出て、火消しがやってきて水を被って、真っ赤に燃え盛る白白とした朝焼けに呆然としていて、何も特にこれといったことは覚えていなかった。

 「おカヨ、何か特技はあるか?」

 「特技……で、ございますか……?」

 「変わりもんの爺さんがいてな。知らぬことがあれば聞いてまわって困っている。どうだ、次の働き口に。」

 まあ方便でありつつも本当である。変わりもんで手のかかる爺さんは、変わった特技があれば重用して自宅に招いて茶を振舞ったりしている。今日も幸太郎に押しかけていなければいいが。

 「けどねえ、あちらのご主人、好色もんやったやろ……。」

 「……はぃ……。」

 背中を焼かれた屋敷の主人は、奥方を大事にはしていたが、町娘をしょっちゅう家に招いてひとしきり満足するまで話をして、そこで銭の一つ二つ持たせればちょっとした奉公にも出来たというのにそんなこともなく。玄人女を買うでもなく、物を知らない素人を屋敷に呼んで、満足すると追い出す、そういう悪癖を持っていた。

 「そうか、嫌な思いをしただろう。もう少し考えてからものを言うべきだったな、すまない。」

 「そんな、そんな……。」

 「奈緒丸くん。この子ぉな、わしのとこで暫くおってもらおと思うん。わしも暇やしね。」

 「そうか、婆さんがそう言うなら、任せてもいいな。」

 「そうよぉ、最近ご飯炊くものしんどいし。」

 カヨは忽ち恐縮したようになって、実家に手紙を認めるか、文字を書けるか、ととんとん拍子であった。小さいが武家屋敷に数ヶ月勤めていた実績はある。婆が言うなら間違いもないだろう。上方訛りのお婆ちゃんは、今日も小さくなった体を日当たりのいい濡れ縁に湯呑み片手ににこにこしている。

 「御免、小火の件の話を聞いている。」

 次に直継が訪れたのは、医者の治療院である。火消しの連中が薬をもらって、屋敷の主人の容態など聞いている。折角火を消したのに死者が出ても寝覚めが悪い。面会謝絶の部屋の廊下には中年の女と若い女がいた。医者からは治療は終わっている旨を聞き、直継の来訪を待っていた様子でもあった。

 「あ、あ、相馬様。」

 「今日は下っ端だ。昨夜の話を聞いている。」

 中年の奥方は丸っこい体をしゃんと伸ばし、深々と火傷のある手をつこうとするから直継は制し、倣おうとした女中にも苦笑して。

 「昨夜、奥方はどうしていたか、聞かせて頼めるか。」

 「恐れ多いことでございます主人は未だ眠っておりまして……。」

 「すまないな、大変な時分に。」

 奥方は、同じ部屋の使用人の爺に起こされた。何かきな臭い、焦げ臭い、と爺が言って、煙のにおいがして布団から出た。明るい方向に向かうと焼ける主人の部屋があり、その手前で女中が顔を覆って座り込んでいた。これが隣の女中である。

 「御免下さいませ、この子は喉を焼きましたの。タルと言いましてね、起きてすぐ主人の部屋に向かった忠義者です。」

 タルと呼ばれた女は勤めて二年目程度の女中で、深々と頭を下げて、煤まみれの手拭いて口元を覆っていた。着物も着の身着のままで、火消しの家内が着物や食べ物を持ってきてくれて、先ほどようやくひと心地ついたと言ったところである。

 「おカヨが心配いていた。」

 「まあ、おカヨちゃん、よかった、無事だったの……。」

 家の中の騒ぎが窺い知れる。最初に起きたのはおそらく使用人の翁。次にタル、奥方が起こされ、カヨは置いて行かれたが、急いで外に出た。そして天井板が崩れ一部の瓦が落ちる頃、主人が火消しと奥方に引っ張り出される形で救助された。

 「このあとはどうするつもりでいる?」

 何せ家が焼けた。住むところがなくなっては不便であろう。幸い相馬家は住民のいなくなった家屋であるとかを買い上げ、古い土地を買って住人を探している最中である。

 「私は実家に帰ります。主人のこともございます。」

 「そうか、不足があれば相馬家に頼ってくれ。」

 「ありがとう存じます……!」

 奥方は安堵で崩れ落ちるようにして倒れ込みそうになり、直継が抱き上げると、医者が開いた寝台に案内してくれた。タルは健気についてきて、煤であちこち黒くして、奥方の隣の寝台に腰掛けた。素足が傷だらけだった。足元も整えずに焼けた敷地をここまでを駆けて来たのだろう。

 「足を出しな。怪我の治療をやろう。」

 「……ぃ。」

 ぺこ、と膝に縋るようなお辞儀をしたタルは、直継が跪いて綺麗な着物に傷や汚れだらけの素足を膝に乗せ、痛むぞ、消毒する、と一つひとつ丁寧に断って、酒で洗い、軟膏を塗り、ガーゼを当てて包帯を巻いた。暫く足袋で正座は辛かろうが、傷から細菌が入って別の病になるよりはましだろう。

 「……っん!」

 「痛いか。済まん。痛いってことは、神経はやってない。深い傷もない。よかった。」

 健気に涙を堪えたタルは、美しいお侍が丁寧に怪我を処置して行ってくれて、ふくらはぎを確認するように触られて、羞恥で声が出た、手拭いを噛んでいると、熱が出たか、と常盤色が細かく散らばる美しい瞳が見上げてくるから、もう茫漠と恍惚の間みたいに惚けてしまって大変だった。

 「眠っちまいな。今日はもう、全部放って、眠りな。」

 そうして大きな手で頭を撫でられて、未だそこに前髪があった時分みたいに額に冷たい手を当てられて、全くどきどきとして目を閉じた。それからも少し声を聞いていれば、火消しの連中の話を聞いて、怪我人を心配して、お八つの頃には一人増えた。ところてんは塩辛くて仕方なかった。珊瑚のような髪に棲みついた小魚みたいな金の髪飾りをした不思議な生き物が、黄玉の瞳を眇めて優しく笑う。

 「綺麗な黒い髪、燃えてしまったのね、かわいそうに……。」

 そうして故郷の姉を思い出す美しい手に優しく頬を拭われて、タルはようやく眠ることが出来たのだった。

 「気の毒ね、直継君のお屋敷で面倒見れない?」

 「可能ではある、が……。」

 ところてんの棒手振りを医者の診療院に連れてきた帰りは、ゆっくりと歩いた。幸太郎が杖を運び、足を運び、杖を運びとして歩くから、どうしても一歩遅れることになる。珍しく歯切れの悪い直継に、追いつこうと幸太郎はちょっと頑張っている。空が白いから、きっと通り雨がある。

 「付け火の犯人を、匿うことは、俺には出来ない。」

 広い背中に、幸太郎は鼻先からぶつかって、子猫みたいな妙な声が出た。直継の広い背中は震えていて、雨を確かめるように美しい黒髪が揺れた。

 「犯人が、それまでに酷い目に遭っていても?」

 嗚咽を拭うような声がする。広い背中は案外感情的で、呼吸で縦に震えて、言葉に横に震えて、いつもきっちり開いた胸は、多少の毒くらいは自力で追い出せる。

 「僕も、蟻を潰したことくらい、あるよ。」

 小雨が一粒一粒、直継の仕事用の着物の肩を濡らすから、幸太郎は胸元から手拭いを取り出した。

 「直継君、早く帰ろう。僕の着物が濡れてしまうの。」



   ***



 タルの足の裏には、湯呑みの破片が食い込んでいた。直継が丁寧に消毒して傷に薬を塗りこんでおいたから、傷も残らず治るだろう。タルが喉を焼いたのは本当かも知れないが、直継の前で喋らせないという目的は遂げている。

 「踊った影はねえ、阿波踊りと違うんかね、おれも御前のお召しで見たことやから、自信ないけんど。」

 お婆ちゃんは、実継の聞き取りにそう答えている。あの屋敷の者たちに実施した聞き取りは合計三回。まず武継が静かに淑やかに。次に直継が睥睨するように言い訳を許さぬように。そして最後に実継がにこにこおっとりのんびりと、まるで聞き取りとは思えぬほどお茶を飲みながら。これは相馬家の持つ人材を有効活用したと言える。もう三回目だし適当でいいよね、と実継の笑顔で言われてしまっては、賢き乳母様だって口が滑る。

 阿波踊りは阿波国で行われる舞踊である。いつからやっているのかは不明だ。あの踊りは独特で、舞踊にありがちなコントラポストが殆ど存在せず、手の形は明王や菩薩の手印を模倣している。なぜ踊ったのか。踊るほどの何かが起きた。五穀豊穣の喜び、祈り、そして供養しなればいけない補陀落へと行きそびれた者へ。

 火傷のひきつれは残るが、感染症は防げたと、幸い小火騒ぎも死者は出なかった。タルを告発すべきかどうかは、彼女を取り巻く人々に任せた。そもそもの問題が家に根付いた根深いものであるから、相馬家も直接の部下でもない男のことに構っていられる程、良い家でもない。

 「夏の水練、希望者いるか!」

 直継は真夏の盛りに金槌を浮けるようにしなくてはいけないし、今日は久しぶりに寄り道をする予定である。幸太郎に夏の新たしい着物を仕立てたから、着せて脱がすまで堪能せねばなるまいし、色々と計画というのは必要なものが多かった。

 「走るより泳ぐほうが速くなるやつが毎年一人はいる。足が遅い奴は参加しろ。又吉、今年はお前もやってもらう。伸び代は伸ばさんと伸び代のまんまだぞ!」

 井戸水を被ったり獣のように水滴を払う連中に声をかけて回った直継は、タルのふくらはぎにあった何をかの傷を、忘れるように剣術と空手の師範代をやっていた。焼けた燭台の芯でも押し当てたような火傷だった。だから焼いてやろうと思ったのだろう。

 「おタルちゃん、本当にごめんね……。」

 「おかみさん、ええんですよって。わぁがやったことでぇか……。」

 そうして奥方に伴われて、タルが番所にやってきたのは梅雨に入った頃だった。番所にはもしも彼女が出頭した場合と命じていた直継が呼ばれ、沙汰を待つようにと申しつけ。向かいのお婆ちゃんにまで好色と言われたお武家さんは、一応は仕事に復帰した。けれど随分休んで怪我も酷かったから、今後どうなるかは不明である。武功武勲があれば禄はそのままということもあるが目立った武功武勲はない模倣である。

 しっとりとした空気がまとわりつく梅雨は、すっかり我が物顔である。白く透き通る空は、細やかな雨粒が常にいて、たまに頭をくしゃくしゃとして、特に幸太郎の癖っ毛はあちらこちらに跳ねて困るのだけれど。

 「こうたろ、お八つは汁粉にしようぜ。」

 「漉餡が切れていなかったか知らん。」

 「善哉にする?」

 「餡子と白玉が食べたいのね、よし。」

 こうして気怠く朝を迎えて、気怠く朝寝をして、雨粒の一つくらい止まって見えないかと庭を眺めるだけで幸せな日が来る。いっときの愉悦に溺れて人生を壊すものもいる。一瞬の快楽のためだけに火を点ける者もいる。他者を顧みることが出来ないで身を滅ぼす者もいる。

 「幸太郎君! 直継とばかり遊んでいないでお爺ちゃんと遊ぼう!」

 「出たなクソジジイ。俺ァ今日は休暇だ。

 「え、じゃあ二人とも儂とあそぼ?」

 さてとまあ、今日も今日とて直継の祖父は元気である。城下町武家通り片隅の小火騒ぎは知ってのところであるが、皐月雨にも負けずにやってきた。

 「お祖父様、雨の日は僕の足が良くないの。囲碁でもなさる?」

 「直継はね、囲碁が嫌いなんだよ。」

 「どうして?」

 こうして幸太郎は祖父に何だかんだ懐いてしまったのか、と我が祖父ながら呆れ返ってしまって、痒くもない首を掻く直継は濁った声を吐く。咄嗟に奏でる直継のこうした声が、幸太郎には好きで、気まぐれに聞いては照れくさそうに笑うのだ。

 「囲まれる、動けない、と言ってねえ。」

 「双六や将棋のが、よっぽど楽しいだろ。」

 確かに非常に直継らしい話である。しとしと降る雨は、杖が滑って良くないし、爪先も泥だらけになって仕事が増えるから、温かい雨粒を浴びてみたいと思いこそすれ、ここではお女中さんの仕事を増やすから我慢している。要は猫を被っている。

 将棋盤を出している傍らに幸太郎はいざって、廊下に控える使用人に、漉餡の買い物をと言いつける頃、丁度よく勝手口から声がした。棒手振りは直継の屋敷の家内が足が効かないと知って、通常より多く訪問してくれるようになった。

 「お汁粉をご所望なので、餡子をいくつか。お魚はある?」

 「へえ! 鯵の煮付けがごぜえやす。」

 「貝は……よしておこうか知ら、この時期の貝は毒があるって聞いたの。」

 「ようご存じで。蟹はお嫌いで?」

 沢蟹などよくとって遊んだが、そのあとは確か塩で湯掻いて食べたのだったか、ちょっと故郷の親友が恋しくなったりはする。

 「えっと、じゃあ、少しいただこうかな……。」

 「砂糖と塩、こちらに置いてございます!」

 「はあい! じゃあ、鯵の煮付けと、ご飯と、お味噌汁……。」

 「芋屋がそこにおりましてね、呼びましょうか。」

 「あっ、じゃあ馬鈴薯とお豆腐。お願いします。」

 綺麗な正座こそ苦手だが、膝をそろえて美しい手を揃え、ゆつたり頭を下げる。白玉を作って茹でて、将棋をやっているから、うんと甘くしてやろう。

 「こちらお運びいたしましょうか。」

 「大丈夫。そこまで行くね。」

 奉公人も使用人も御用聞も棒手振りも行き交う勝手口は賑やかで、土間であるから土の上を這わせるのはと手を貸すか、悋気持ちの親方様の奥方を抱き上げても良いものか、最初の頃こそ戸惑わせたが、頑丈な手の置き場さえあればいいのだ、と杖をつきつき健気に歩く幸太郎を見て、皆考えた。

 頑丈な背の高い卓に、背もたれのない椅子、竈の前は流石に危ないからと簀を敷いたが、壁と卓に手をつっぱって幸太郎は器用に移動する。本当に足が効かないのかと思うくらい滑らかに泳ぐように移動するから、感心さえしたほどだ。

 「じゃあ、白玉を練るので、湯掻いてください。」

 「かしこまりましたっ。」

 「こちらはどうしましょうか、奥様。」

 「三つご用意しましょうか。お祖父様がお越しだから。」

 「奥様、今日からお世話になります。」

 「あっ、お世話になります。困ったことがあったら、又吉さんに仰って。」

 「奥様。」

 「奥様!」

 綺麗な球体をころんころん器用に作る幸太郎は、奥様と呼ばれることにはもう慣れた。というか、他に表現が仕様のないのだ。親方は直継で、その家の奥を管理するなら奥様であるし、女性であればしっくり行くのだろうけれど、やっぱりお嫁さん扱いは幸太郎には苦かった。家の奥を管理したり、家の内を管理する役職だと思えば、なんとは無しに板についてしまった。

 「若い順に味見して頂戴な。」

 「やったー!」

 「これはしたない!」

 こうすればいい、ああすればいい、と日々日々勉強の日々である。直継はその日その日の生活が得意であったから、幸太郎はどうかといえば、結局その日その日に必死になっていれば手一杯だった。やっぱり直継は格好いいのだ。

 「こうたろ、茶を……。」

 「親方様!」

 「直継様っ?」

 お汁粉の味見をしているころ、ひょこりと現れた直継は、最近奉公に上がったばかりの少年に、匙で食わしてやる幸太郎を見つけてしまって、周囲は相当慌てた。少年はまだ直継に目通も明後日ほどに時間があるだろうという慌ただしいお使いである。

 「……俺にも頂戴。」

 「んう。はい、あーん。」

 「奥方様!!」

 「奥様っ!」

 「奥さま!!」

 慌てたのは少年である。お忙しいと聞く親方様に、こんなに早く出会うと思わなかったし、美男だ美丈夫だ絵に描いたような美男子だと聞いていた親方様が本当に美しくて腰を抜かしそうになったし、自分の口に触った匙で奥方様は親方様にあーんとか宣ってらっしゃるのだから、その仲睦まじさに赤面した。

 「ん、上手い。天才。」

 「えへ。やったね。おチヨさん、ちょっと早いけれどよそってくださる? おソウさん、塩昆布を添えてお出しして。」

 「かしこまりました。」

 「誰かあるか、米が運べん!」

 「待ってろ、俺が行く。」

 米屋が俵を持ってきて、勝手口から声をかければ、出てきたのはまさかの親方様で、ひょいと一つ肩にかついで、ほいともう一つ小脇に抱えて、蔵の扉を開けさせると場所は後で揃えろよと颯爽と去っていった。

 「祖父さん、俺、良い嫁貰ったかも知れん。」

 「そうか、祖父ちゃんはとっくに知ってたけどな。」

 二勝二敗の五戦目、汁粉は適度にたっぷり甘く、蒸し暑くなってきた季節であるから氷がひとかけら入っていて、さんわりと心地よい舌触りに、白玉が愛しい耳たぶみたいだった。食べてしまいたい程恋しくて愛おしい。そんな彼らは今日も今日とて可愛らしかった。


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