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異説・安珍と清姫。  作者: どんどあげ


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 白皙の美男が黒毛の見事な馬の背から、幸太郎を見下ろしている。水晶を綺麗に削ったような美男で、切れ長の目に綺麗な織りの着物を上品な袴を身に纏い、騎乗から脚が不具であろう杖を使う青年を凝つと見て、ふむと細い顎を摘んだ。

 「高いところから失礼、君と同じ頃の旅の方を見なかったかい?」

 幸太郎は首を傾げ、

 「この辺りを通ったのでしたら、そちらの親父さんか女将さんが見ていらっしゃると思うの。」

 と見るからに立派なお武家様が美しい手のひらで示される様子に、周囲の者は驚愕で肩を竦めた。失礼は無いか無礼打ちにならないだろうかと田舎の魚屋夫婦は手に手をとって怯えたが、勇之亮の気軽さを思い出し、村の東側に住み着いた別嬪のお侍さんを思い出し、礼儀正しく、作法に不備はあっても真心で直向きに接することを思い出した。白皙の美男は武継と名乗って、上品で色白の、忝いと微笑むと、真っ白な百合の花のような男だった。

 「困ったひとでね、僕の義理の弟なのだけれど。」

 「弟様とは、似ていらっしゃらない?」

 「あまり似ているとは言われないかな。僕は養子のようなものだから。」

 ふふ、と花が綻ぶように微笑むから、魚屋も幸太郎も、遠巻きの村人達もすっかりほうと見惚れてしまった。黒毛の馬は彼によく懐いて、鞍から降りた主人に健気に擦り寄って、足の数が見慣れた人間とは違うな、と長い睫毛の下から一点の曇りもない瞳で幸太郎を見ていた。

 「武継さん、お馬さんに触ってもよろしい?」

 「構わないよ。お名前を教えて貰っても?」

 「幸太郎。幸せな男と書くんだ。」

 「良い名前だね。」

 「ありがとう!」

 夜の浜辺に独りきりであった頃は、何が幸太郎だと憎々しいほどであった名前は、直継に呼ばれ幼馴染たちに呼ばれ、手習の子供達が書いてくれて、父母に与えられた宝物だと思い出した。武継は本差と脇差を佩いており、随分と大人びて見えた。直継は凛々しい美貌をくしゃと無防備に歪めて子供みたいに笑うけれど、きっと武継も無邪気な頃はああやって笑ったのだ。

 さて読者諸氏にはお察しの通り、武継は直継の一つ年上の義理の兄である。手習所で新妻にお裁縫の教室をやった帰りの幸太郎は、麗しい黒毛の鞍に乗せて貰って、彼らを白砂見事な水平線まで美しい崖に連れていった。崖の上から東の浜辺を見渡せば、網を繕う女衆がおり、引網を上げる男衆がおり、下穿き一枚で直継が仕事をしている姿を探すには絶好の場所だった。

 「随分と馴染んでしまって。」

 「うっせ。」

 「直継さんらしいと思ったんだけれど。」

 「そらどーも。」

 「ああ、そうだ。手紙も届いてたよ。」

 「そらよかった。」

 「実継さんの手紙は……。」

 「届いてないな。」

 馬の脚が動くたびにごとごとと左右に振られるから、幸太郎は大切な杖を抱えて馬の鞍にしがみつき、騎乗には下手に気を使うよりも身を任せてしまったほうが樂であることを知った。くらくらふわふわ、規則的に綺麗に歩く馬の名前は七丸と言って、艶々の毛並みがちょっと直継に似ていた。七丸は聡く、幸太郎の脚が不自由であることを見抜き、鞍に乗れと眼で語った。井戸水をがぶがぶ飲んで、武継の手綱を引く手に賢くついてきて、馬の背から見る世界は違うだろうと誇らしそうだった。まるで匂いが清らかで、きっと世界というのは人間という視界を濾して底に澱むものを見てしまう。美しいものが美しいそのまま、馬の背からは見えた。

 「幸太郎、こっち来い。晩飯の用意すっから。」

 「はぁい。えっと、杖、ええと……。」

 「応、杖を先に寄越せ。」

 直継は杖を抱き上げ、田舎の浜辺の粗末な家の壁に立てかけ、幸太郎のほっそりした腕で抱き付かせ、脚を抱き上げるようにして馬のあぶみから受け取った。がたぴし煩かった扉は足元に敷居を敷いて、杖をついた手でも動かせるように宮大工が頑張ってくれた。船大工が船のころを参考に足が不自由でも扱える道具を作っては持ってきてくれて、直継の家は最近少し散らかり気味だ。幸太郎を軽々と抱き上げた直継は、板間に幸太郎を座らせ、竈のある土間に湯を用意して、武継が七丸を繋いで入ってくれば、よく絞った手拭いを手渡した。まるで偉いお武家様というより、その世話に慣れた執事みたいな動作である。

 「直継さん、刀はあるよね?」

 「ああ、あるある。祖父さんから同田貫を賜って……。」

 「あるのなら良いかな。」

 「お刀があるのっ? 僕、見たことない。」

 「手入れはしてる。」

 「嘘、見たことないっ。」

 「こうたろが触ったら危ないかなって……。」

 「君は僕のおとっちゃんか!?」

 まるで子供みたいな扱いで幸太郎は頬を膨らませ、直継が頬を潰してぷしゅと間抜けにやって笑いあった。武継はおやまあと察した様子でにこにこと微笑んで待っていた。熊手やら鍬やら竹箒やら割れた車輪やらを雑然と立てかけた壁際の隅から、直継は上品な拵えを二つ出した。元服祝いの本差同田貫、脇差は生まれた時から共にいる正宗の魔除けである。どちらも真っ直ぐな直継の人柄のような麗しい刃文で、拵は上品でありシンプルだった。 

 「見る?」

 「僕が気軽に見て良いものではないよ。勇之亮君に刀掛けを拵えて頂きましょう。格好良いのがいいな。」

 「宮大工のおっさんにも相談する?」

 「そうしましょう! 僕の足の親だもの。きっと素敵!」

 鷲の目のような目貫がきらきらと自ら輝くほど二振りは不思議なくらい直継の手に馴染んでおり、特に脇差は幸太郎の手に渡されても、じっくり馴染んで不思議なくらいだった。きっと刀もその拵えを作ったひとも、直継の生涯の無事を祈って生涯の幸を祈って手を掛けたに違いない。だからこそ幸太郎はその重みを知って、直継が献身と抱いてくれる膝に乗せた。あなたの愛しい美しい魂は、こんなにも優しいんだと語るように。

 「こちらは晴れやかだね。」

 「武継、いつまでも季節の挨拶をやるつもりか?」

 朝に炊いた白米と、塩で焼いた魚、茹でた青菜を味噌で和えて、直継の食卓は幸太郎の体のことも考えて贅沢に作られる。今日は客人もあるからもう一品と考えていれば、きょうはありがとうねえ、と漁師のお袋さんが酒と醤と貴重な砂糖で炊いた魚の切り身を差し入れてくれた。甘辛くほろほろ骨から外れて食べやすい。

 「すまないね、直継さん。僕も周りくどい性格をしているから……。」

 箱膳なんて上等なものはなく、幸太郎がいざって片付けて、お椀と皿を並べて箸を取る。幸太郎の手は最近子供達の手習や若妻の裁縫をやることで随分感覚が戻って、箸の持ち方が上手になった。お椀も胸の前に持ち上げるし、無防備に爪先を投げ出す膝に粗相することも無くなった。神経や筋肉が衰えるということは、歩けないというだけでないのだ。ぽりぽりと香の物を噛む幸太郎の前に、別嬪さんが二人、いただきますと挨拶もして、大好きな直継の手料理に、直継とその義理の兄、全く眼福である。

 「今すぐにどうこうという話ではないよ。お祖父上がね、どうも……。」

 「ゆうて、あの祖父さんが?」

 「弱気になられてね、その、君に会いたいと。」

 「しゃあねえ祖父さんだ。円は元気か? 実継は相変わらず?」

 「円は天候次第だけどね、こちらに来る手筈だよ。実継さんは元気だ。この間も十神将を描くとかで……。」

 「ほう、見てみたいもんだが。」

 「義母上も心配してらっしゃるよ。」

 「結局、帰ってこいって話だろ。」

 武継は涼しげな愁眉を切なそうに寄せ、行儀良く食事をして箸を置く頃に幸太郎から茶を受ける。ありがとう、とにこり微笑んで、つるりと食後の茶を茶碗に回し、行儀の良い静かな食事であった。板間の隅の風呂敷に幸太郎はいざって解いて、裁縫箱と硯箱を出してきて、別の風呂敷に包まれていた着物を取り出した。裁縫はもう幸太郎には良い短期の手に職で、藁と小金を対価に草履にしたりする。黙々とちくちく何時間でもやっていられるから幸太郎もこれが好きで、準備さえきっちりやれば足が効かないことなんて忘れられるくらいに楽しいのだ。余った布で子供の抱っこ人形など作ればこれが女児たちに好評でもあった。

 「やなこった。」

 「直継君、あなた、前に帰ろうかと言っていたじゃないの。」

 「あっ……。」

 「あの後、僕が襲われなければ、先月くらいに帰れたのではないの?」

 「家より幸太郎が大事なんだって。」

 「なら、僕は今はもう大丈夫なのだから、帰るには良い機会だよ。」

 幸太郎の挟んだ口に、武継は直継を振り返り、難しそうにくちびるを歪めた。幸太郎には初めて見る貌であった。直継はいつも凛々しく、かといって笑う時は子供みたいに笑う。拗ねた時は下くちびるをちょっと噛む。整った鼻梁を眇めて優しく微笑んで、いつもは見守ってくれるけれど。

 「僕は謙真君のお家に泊まらせて頂いたり出来るもの。直継君は一度、お家の方を安心させていらっしゃいな。」

 にこにこと語る幸太郎は、大丈夫だと頷いて、どうであるか知らんと武継を見上げた。綺麗に正座をしているから少し見上げることになる。見守りたいのだ。見守って貰った分、きちんと見守りたい。白皙の美貌は、困ったように首を傾げてしまった。直継はああ、と溜息混じりに呟いた。

 「忘れたか?」

 「んう、何を?」

 「俺が、家に帰るって時は、幸太郎を担いで行くって。」

 「あら、直継君は、抱いていくと言ったよ。僕は忘れていない。」

 忘れられるような言葉ではなかった。幸太郎にとってどれだけ救われたか、嬉しかった言葉なのか、直継にはもう関係なかった。ずっと幸太郎を抱きしめて生きていこうと思ったし、ずっと一緒にあの松の根元に座って海を見て、たまに接吻をして、そうして穏やかに暮らすことを決意した。そうして溢れた言葉を、彼は忘れてはいなかったが、幸太郎の身を守るには如何すればいいかと、不埒な輩を如何すればいいかと勇之亮と話し合っていて。

 「失礼な言い方をするがね、お祖父様が生きてらっしゃるうちに、会って話して、大事なものを受け取っていらっしゃい。元気なうちにしか出来ないことは沢山あるの。直継君、あなたは僕のようになってはいけない。」

 そこまで幸太郎に言わせた、と直継は形の良いくちびるを引き結び、板間に拳を当てると美しい黒髪はさらりと流れ、形の良い額を隠した。武家式の礼節を幸太郎に見せる意義を、直継は迷わなかった。

 「一緒に帰ろう、俺の家に。」

 決心するようにして、直継は顔をあげ、幸太郎を真っ直ぐに射抜くように、常盤色が混じった凛々しく美しい瞳で、愛しいひとを見たのであった。



   ***



 翌翌日、寺の宿坊に一泊した武継の元に佩刀した武家奉公がやってきた。書き付けを運ばせ村の様子や交通の便利を知らせ、荷物持ちの駄馬を一頭、美しい月毛が一頭、村の東西を分ける切り立った崖に続く道祖神までやってきた。

 「円! 久しいな、やっぱりお前が一等に美人だ!」

 「まどかさんとおっしゃるの?」

 直継は月毛に抱擁するように撫でてやり、道中あんなにも気性が荒かった月毛の円は、直継に会うまでずっと急いていて、馬番の小吉には手が余りまくった。ところが直継に会えばそれはもう、わたくしは貴方に会うまでしょんぼりだったんですよ、とばかりにお淑やかで、嫌いな鞍もつけてきたと自慢げだった。足の数が違う幸太郎を見下ろして、ちょっと考えて、その深緑の襟が入った砂色の着物の襟を噛んだ。

 「わ、わ、わわ……っ! ま、まどかさん待って、何か気に障ったっ?」

 「待て待て、円、こうたろを乗せたいんだな、ちょっと待ちな。」

 「え、えっ!? 僕を乗せてくれるの? 素敵ね、良いお馬さん。」

 鬣を撫させ、首に触らせ、杖をついた青年は危うく円に投げられると、奉公人達はぎゃと顔を覆ったが、直継が抱き上げた下に円は潜り、家紋と綺麗な文様の入った鞍に幸太郎が乗れば、ぶると嬉しそうに鼻を鳴らした。

 「円さんとおっしゃるの。僕はねえ、幸太郎というの。直継君のことが好きなのね、よくわかるよ。かっこいいもの。可愛いしとだもの。」

 あっという間に直継が愛しい者同士意気投合して、杖は如何するかとしていれば、円の鞍に直継が幸太郎を抱いて上がるのだから、その時にそのまま抱えて良いかということになった。馬というのは本当に人間の言葉を解するほどに頭がいい。特に円は賢い馬で、訓練場で不必要に近寄った直継を蹴って、頭をぱっくり骨が見える怪我をさせている。そこから訓練と訓練を繰り返し、円は直継の愛馬になった。出奔した時に何故連れて行ってくれなかったのかと荒れに荒れた円であったが、今日に漸く再会と相なった。

 「幸太郎君、君は村の外を見てくるべきだ。」

 と言ったのは白緒である。少しの路銀と食料を村一の酒蔵は用意してくれた。道中に何かあっても数日生き残れるように、もしも行き違いがあっても宿を数日取れる程度、旅路というのはどれだけ備えても足りるものではない。小さくまとめた裁縫道具に、手紙を認めるための硯箱。日記というには色々と描いた雑記帳を草原色の風呂敷に包み、そして一番に大事な杖があれば、幸太郎はどれだけだって歩いていけるはずだ。

 「いい機会だ。君は可愛らしいのだから、引く手数多の筈だよ。直継さんより綺麗なひとを侍らせてご覧よ。」

 「白緒、帰ったら一発殴らせろ。」

 「嫌だね。直継さんに殴られたら、僕なんて折れちまうよ。」

 「殴り合いの喧嘩なんて、景気がいいだろ、お坊ちゃん。」

 「そうしたら幸太郎君が看病してくれるからね。」

 白緒は酒蔵の長男として、ちょっと甘えたところがあった。ちょっと生意気でけれど気が利いて、よく出来た弟みたいに直継には思われていた。初めて会った時に、真っ直ぐ幸太郎を見て、幸太郎を抱きしめて、幸太郎のためにその名前を呼んで泣いた。直向きで童顔の可愛らしい青年だった。

 武家奉公を勇之亮は家から数人派遣して、道中の無事とことづけに既に出発させていた。道中の無事を謙真が経文とし、村ではひとつの晴れの日になっていた。馬番の小吉が手綱を持つ駄馬は、円や七丸ほど頭は良くないが、いっぱいの荷物を担いで飲まず食わずで三日三晩歩ける強靭な体をしており、けれど人間がそうではないことを知っているから立ち止まってやれる、思いやり深い馬であった。荷物は少し、珍しく袴をつけて佩刀した直継に、別嬪のお侍さんは日々に一緒に働いてまた精悍になっており、女達がいっときの恋を忘れるほどだった。

 「直継様、道中お気をつけて。」

 「勇之亮殿、感謝している。達者で。」

 いつも酒を片手に柔和にほけほけ笑っていた勇之亮も袴に佩刀し背筋を伸ばし頭を下げた。

 「……つうのも、おかしいか。」

 「まあねえ、帰ってきたら、また飲もうぜ。」

 そうして背を正せば、顔を見合わせやっぱり柔和に笑う。奥方が乳飲み子を抱えて、幸太郎に縫ってもらったおくるみに縁起のいい帯をつけていた。

 「いい旅を。幸太郎。」

 「ありがとう。頑張る。」

 馬の鞍から杖を抱いた幸太郎は勇之亮と握手で語り、守り袋を持たせて下がった。七丸に騎乗する武継を先頭に、荷物を乗せた馬がおり、直継の円が続いて、村からひとつ粗末だが味噌樽のような大きな籠を下げ、武家の旅行列は始まったのであった。

 「白緒、行かせてよかったのか。」

 「良かったんだよ。」

 「まあ、直継と一緒にいて、顔が違うもんな……。」

 「好いたひとと一緒にいるのさ。違うに決まっているだろう。」

 見送りの人々は徐々に減り、その影を追うだけとなった村の街道に、同輩達は残心のまま立ち止まる。片手の歳の頃から一緒にいた。四人で与謝野先生に世話になって、読み書き算盤、謙真の父から有難い説教をもらって、勇之亮の祖母から作法を教わった。白緒の家は必要な金を出してくれた。幸太郎の父は子供が教わる代わりに見事な彫刻や可愛らしい布袋像など彫って納めた。そうやって彼らはずっと対等に手を貸しあって生きていくのだと思っていた。

 一等のお習字の腕前であり、作法も上手であった。けれど彼は足が効かなかった。生まれながらの足萎えだった。だから一等になるほどの努力をした、素晴らしい同輩だった。大人になってようやく気付くことが出来た。子供の頃はあんなに尊い時間だとすら気が付かず、けれどずっと朋輩であろうと思っていた。

 そしてやはり、気付く時には、間に合わなかった。

 「夏に、海で遊んだろう。」

 「そだっけ? 川遊びは覚えてるんだが。」

 「海だった。二人はいなかったかも知れないね。」

 真っ青な空に、真っ白な水平線。旅の間は晴れが続いて欲しいと願う、大切な友達。白緒が語る、泡沫のような昔話は、真っ直ぐに旅の先を見る。きっと楽しく幸せの旅であるように、無事に故郷に着くように。

 「裸で遊んで……僕はね、その時に、お嫁にしようと思ったんだ。」

 記憶の中では、よく晴れた日、海辺で遊べるほど、凪いで暑かった。悪戯を考えるように隣に座ってこそこそと話していれば、真っ白な歩けない素足の付け根が自分と違っていることを知った。自分の体は父と似ていたから、母と似た体の妻を娶って生きるのだと思って。

 「男の子ではないんだと、彼が女の子なのだと、思ったんだ。」

 その告白は、どこか淀んでいる。白緒が子供の頃に覚えた劣情には幼い感情は、世の中には男と女がいて、つがってセックスして子供を産んで。それが普通だと思っていた子供の、愚かな子供の昔話。

 「白緒、昔のことだ。」

 「子供が考えることは、残酷なんだよ。」

 「そんなん、誰だって……。」

 「誰だって、あの体を見れば女だと思う? あの連中とどこが違うんだい? 幸太郎君は僕が尊敬すべき男だ。君たちが僕を慰める言葉は、全て彼への侮辱だよ。」

 そう語る白緒の横顔は、普段の童顔と違って酷く大人びて見えた。午前の影がゆっくりと浅くなっていって、中天の頃には寺の本堂に輝く甍が水面のように輝くのを彼らは知っている。この村は海の中にあるのだと錯覚するほど美しい村だ。淫らな因習は解かれた。昔話を信じた、信じたふりをしてその悪い幸運に浸った者達が、暴露ないように生贄を捧げた村の、黒いところはどこにだってあった。

 ひとの心の数だけ、黒く淫らな部分はあるのだと、彼らは知らない頃には戻れない。



   ***



 村の外の景色に、幸太郎は目を回した。あれはなんという植物だろう、あれはなんという塚だろう、あれはなんという建物だろう。背中をぴったり抱いている直継は微熱を感じて立ち止まろうとしたが、幸太郎は真っ赤に紅潮した頬もあどけなく、鳶が旋回している下を急いだ。小さな宿場町があるから、そこで寝かせてやろうというスケジュールだった。

 青い木々、花の終わったのびのびとした枝に、緑の芽が出て影になる。新たしい芽を出しているかと思えは、全く禿げ上がった枝があり、風が涼しく真っ青な青空からの真っ白なひかりを遮って、あどけない頬に光と影が散る。真っ赤に実った果実や、くちなわがきろきろ周囲を見回し、馬の蹄の音に逃げていった。ちちと姿の見えない鳥の声がして、下手くそな鶯が晩婚に泣いていた。山に上がり、渓流に下り、踏み固められた細い街道を、時折注意深く、時には悠々と、彼らだって鳥や獣と同じように、それより劣って歩いていく。

 「幸太郎君、少しお休み。」

 「武継さんまでそうおっしゃる……!」

 「お顔が真っ赤だからね、冷たいお水を頂こうね。」

 「酢漿草が紫なの、村では黄色だったの、描いておきたいのっ。」

 「ああ、武継、こうなったらこうたろは聞かないんだ……。」

 しかしその微熱は興奮と歓喜から来ていることを直継は知るから、日記にしている帳面に挟んで、子供みたいにはしゃいで筆を走らせる幸太郎を見守って、こてっと蝋燭の火を吹き消すように直継の膝に寝入るまで我慢して、慣れたように床に入れた。無防備に眠る顔は本当に無垢な子供のようで、武継は直継の手腕に感心して溜息を吐き、ふふと上品に微笑った。

 「直継さんもお休み。」

 「ああ、お休み、武兄。」

 初めて会ったのは、直継の祖父の勤める広い城の鍛錬場だった。幼いながらも武芸鍛錬場で木刀を持ち、論語の写しなど持っていた武継は、弟だと教えられた少年の腕白さにちょっと怯んだ。生き生きとして今にも生簀から飛び跳ね死地に赴きそうな獰猛な魚のようだった。面もつけずに師範に挑み、未だ上段も下段も教わらないうちから弁慶の泣き所を狙って、参ったと言わせていた子供は、こんなにも優しい貌で幸太郎の寝顔を見るのだ。欠伸をしながら元服前に呼んでいた名前が無意識に出るほど。

 珍しい花や植物は、奉公人が摘んできてくれた。微熱が下がらない幸太郎は帳面に書き付け挟んで、描いて刺繍の元にする。立派な営業努力である。たまにちいさな鼻を動かして、なんの匂いだろうと黄色い蝶を追い、馬が水場で休憩する側に、杖をとことこ、隠れた動物を見つけたりして。

 「幸太郎君、そこは険しいですよ。」

 「あ、ありがとうございます、武継さん……。」

 「肩を貸しましょうか。」

 「いえそんな……。」

 「自分で摘んでみたいでしょう?」

 「っ!」

 上品に微笑む武継は、直継より丁寧に優しく幸太郎を抱き上げた。直継とて乱暴である訳がなかったが、もっと丁寧に優しく、重さを感じる暇なんてないほどで、気がつけば岩垣に生えた青い花を幸太郎の手の前にあった。武継に見惚れるように小鳥が一羽、艶やかな瑠璃色の羽を見せつつ枝と枝を繰り返し跳ねていた。

 「……きれい……!」

 「珍しい色だ……。綺麗だね。」

 「あっ、飛んでしまった……ごめんね……。」

 「そうだ、幸太郎君。」

 「はい、なんでしょう?」

 「ご飯は美味しいですか?」

 「はいっ。直継君がお料理上手で……。」

 「直継さんは、なんでも自分でなさるからね。」

 「僕は……あの、足がこんなだから……。」

 「では今度、お豆の筋取りなどやりますか?」

 筆頭家老の厨番は、何でも上手に捌く。数品の毒味を経て屋敷の主人に届けられ、汁物など冷えてしまって寂しいものだった。だから直継は自ら台所に立つのだ。握り飯を自分で結んで笹の葉に包んで散歩というには険しい場所を行き、勉学の時間に何事もなかったように帰ってくる。実母こそ顔も忘れたが、じいやもばあやもねえやも直継の脚に追いつけず、いつも曲がり道で怪我なく無事の帰りをお祈りしていたものだった。

 「やりたい、です。」

 「一緒にやりましょう。その花は押し花にしますか?」

 「先に素描をやって、後で押し花にします。」

 「絵をやるんですね。」

 「はい。見たことのない花がいっぱい……海風に弱いのか知らん。」

 もう随分潮騒の香りのない街道を来て、宿場町の飯といえば白米と塩焼きの淡水魚だ。植生も葉が丸いものが増えてきて、同じ花なのに違う色があるのだと、幸太郎は本当に楽しかった。

 「ごめんなさい、はしゃいでしまって。はしたないよね。」

 「そんなこと。僕も松林が綺麗だなと思いましたよ、あなたの村。」

 長い睫毛が羽ばたく音を立てそうなほどだった。色素の薄い黄玉のような瞳は熱心に武継を見つめ、ふにゃと軽薄なくらい目を細めて口を開けて微笑んだ。

 「直継君と似ていないのに、格好良いしとだ。」

 と、しみじみ武継に語った。そして聞きたかったことを聞こうと決意した。

 「彼とは、一緒に暮らしてらしたの?」

 「ええ、初めて会ったのは……五歳頃かな。」

 母が嫁にいった先の弟だと、当時はタケと呼ばれていた武継には紹介された。直継の幼名は奈緒丸といった。人懐こくやんちゃな義弟は、四つ上に兄がいたが、夭折。直継が生まれて半年後に母親が逝った。武継の母はその頃に彼らの家、家名は相馬という。相馬家は代々大殿に仕える武家であり、初代相馬は当時の宗家郎党であり、その縁から現在も筆頭家老として仕えている。相馬家の数ある奥方のうちの一人が武継の母だ。奉公先で気に入られた側女で、祖父は論語を修めた。

 「僕は、父上の直系ではないから、直継君の執事になるんだろうね。」

 「よお、面白れえ話、してんじゃねえか武兄。」

 「たけにい?」

 「昔からね、武兄武兄と可愛かったんだよ。」

 「直継君の小さい頃のお話!」

 幸太郎の腹を抱き、直継は形のいい鼻を掻きつ々。

 「だって、兄貴って呼んでいいって……。」

 彼は薄らと察していた。自分達が生き残りであるということを。四年前に直継の実兄は亡くなった。それまで幾つの子供達が幼いまま、あるものはたらちねすら知らずに息絶えた。裏で大人達は悪いことを企んでいるのだと。乳母でさえ信じてはいけない。母でさえ我が子を殺そうとしているのではないかと、物心つく前から考えて、ここまで育ったのは運が良かった他に言いようがない。

 「僕のことは?」

 「……ア゛?」

 「直継君より、僕は年下だよね? 弟? 直兄と呼んだらいい?」

 直継の広い肩に幸太郎は美しい手を絡ませた。扇形の綺麗な睫毛が少し下を向いていて、ちょっと切なそうな薄い瞼が、ぐいと上を向く。

 「幸太郎は幸太郎。俺の好い奴。」

 きょとんとくちびるを噤んで首を傾げた幸太郎は、こちと額に額を合わせた直継と、今にも睫毛が絡まりそうな距離で咲いた。兄弟だとか親子だとか、人間は繋がりに名前をつける。恋や愛を結んで、その結びつきに慣れた名前をつけなければ、きっと忘れてしまいそうな関係というのは厄介だ。だから直継は、幸太郎との関係に名前をつけない。愛し愛しと心は叫ぶ。それでも言の葉なんて吹けば飛びそうな、海が近いか遠いかで形を変えるもので、名付けたりなんかしたくなかった。まあちょっと、柔らかなくちびるに舌足らずで、おあにいさまと呼ばれるのは魅力的であったけれど。

 馬に揺られて三日目、峠の茶屋で合流したのは村からの最後の見送りで、勇之亮の家に報告に戻った。これより先は次の村、そしてもう一日も行けば相馬家の領地である。家の領地からあっさり出て行ったのは直継らしいといえて、旅人学者も手形の確認中に役人に追われやしないか気を揉んだことだろう。

 「飯作ってくる。弥吉は蕎麦が駄目だったか。うどん作るから手伝え。清吉、又吉、山菜の……幸太郎、絵があるよな、見せてやってくれ。武兄は円と七丸の世話。小吉は荷物の確認。」

 さっさと采配して塩と小麦粉を練って、峠の茶屋はぎしぎしみしみしとよく軋んだ。世話をしている家族に曰く、数年前の地震でやられたそうである。そういえばそういうこともあった。この辺りは特に横揺れが長く、土台の基礎と家の柱がすっかりずれていた。

 「もう少し時間があったら直せたんだがなあ。」

 と直継はうどんを茹でながら一人ごち、竈の火を見守る幸太郎の淡い色の髪を撫でた。こぼつには良い場所にあるし、建て直したほうが良いだろう。村と領地の境にあるため、なかなか手を入れられないのが政治というものだろうか。

 「お宮さんにお手紙しよっか。」

 「あ、その手があった。」

 閃きまでが長い長考の宮大工は、手が早く正確な船大工と相棒と言っていい。何せ幸太郎の足の生みの親だ。この辺りの山や森はあまり人の手が入っていない。材木資材は溢れるほど穫れそうであるし、あとは人足。家名を使えばそれも集まるだろう。近辺には似たような家が数軒あると茶屋の家族は喜んで、みたらし餡の秘伝を聞きたがった直継に、養蜂という技術を教えた。

 更に三日行った。相馬の領地のすぐ手前の宿場町では、静かな離れがある宿を直継は求めた。ここを滞在場所にして、手形を確認させて、国に入るという手筈で、既に相馬の家紋の笠が待っていた。馬番の小吉はここでバトンタッチである。

 そろそろ幸太郎の体力に限界が来ると見当は正しく、町に入ったところで彼はくてと直継の鎖骨に後頭部を乗せた。杖を落とさなかったのは全部直継が抱えていたからで、武継も疲労に汗が出ていた。一晩に三里も行かされる事がある奉公人でさえ重なる登り坂下り坂に渋面を作っており、きっちりとした休息が欲しかった。

 「君、呆れるほど、タフネスだよね……。」

 「それだけが取り柄なもんでね。」

 離れのある宿は、昔は尼寺であったらしい。大きな花の木があって、手入れが行き届いていないのか方々に元気な枝を出している。今は町の外れに、山の入り口に長い石の階段を作り、新たな尼寺を建てたそうだ。元々は尼と僧が恋に落ちて結ばれた謂れのある町であるらしい。

 長い長い階段は、 登って行く者があればよく見えて、尼僧が警戒する時間が取れるし、あの階段を上がる女は大層な覚悟であろうと町の者は見守るのだ。いつの時代にも他者から奪うものは存在する。奪われないための工夫をする。奪うものというのは、奪われようとしている者の無警戒さえ奪ってしまうから。

 宿の食事は白米味噌汁、青菜のおひたしと品数は少ないが量は多かった。久々のお武家様がお客様ということで、店主の丸いほっぺたは上がりっぱなしで、痩せた妻はずっとにこにこしていた。店主の禿頭が上機嫌に桃色で、たっぷり腹いっぱい食べていただこうと、町中に知らせて回っていた。

 「こうたろ、寝ちまっていいから。」

 「ん、んう。」

 むずがるように身を捩った幸太郎は、太陽の香りがする布団の中で直継の膝を引っ掻いた。

 「お顔見せて、直継君……。」

 「いっつも見てんだろ。」

 「僕からは、見えないの……。」

 考えてみれば馬の鞍の上、直継が幸太郎の腹に手を回すようにして抱いているから、直継からは長い睫毛が揺れる様子は見放題ではあるが、幸太郎からは振り返らなければならない道理であった。ふは、と堪らず軽薄な笑い声が漏れてしまって、嬉しそうに笑った直継は、ほっそりと美しい手で精悍な頬を撫でられ、また咲った。幸太郎の肩を抱くように腕を通して、最近少し柔らかな感触が出てきた腹を撫で、直継はそのまま横になった。

「サービス♡」

「きっすしてい?」

「歓迎。」

 腕枕に乗せてもらって、今度こそ幸太郎は嬉しくて愛らしく破顔して、頬を髪を撫でる大きな手に指を絡ませ、ちゅっと軽い可愛らしい音を立て、柔らかなくちびるにふわふわと押し当てて、頬にくちびるに接吻けて貰えて、爪の形まで完璧な手を抱きしめて眠った。一泊きっちり眠って休んで、翌日は不足の買い物に充てた。交通手形だとかの必要な準備を整えて、牡丹鍋が出てきた早めの夕食を摂り、陽が沈みきる前に幸太郎を床に着かせた。

 「野盗が出るらしいんだ。荷物は最小限にして、後で届けさせる。」

 「俺らの身の安全が最優先か。」

 「そう。僕たちに何かがあれば、こちらの領地と火種を作るからね。」

 「わかってるけど、わかってるけど……言っていい?」

 「国に帰ったらどれだけでも聞いてあげよう。」

 「しゃあねえ。荷運びも玄人に頼むようにしねえとな。」

 「僕も口添えするさ。なんならお金もね。」

 燭台に火を入れ、夜遅くまで直継と武継と三人の奉公人は地図と日程とを見比べた。日程に遅れはないが、道中の治安が不安であった。それこそ地震で家を無くした奉公崩れが廃堂で博打をやっていて、旅人の金目なものなど奪っていくらしかった。幸いなことに怪我人は多数出たが、死者はいない。野盗は逃げる時は本当に散り散りと上手に逃げて、たまに子供を使っている。早いうちから対処をしなければならなかった。そして、早いうちから対処をしてくるだろうと、野盗連中も考えていた。



   ***




 茫漠と目が覚めた。よく眠った気がするし、眠りすぎて頭の中はもう少し灰色掛かってい、いつも直継が結ってくれる髪飾りを外して眠った淡い色の髪が、視界の邪魔をするから梳こうとして、手首が背中でぎゅっと引き絞られて肩まで痛んだ。

 深夜に直継が部屋を出て行ったことはぼんやりと覚えていたから、柔らかな布団の上で目覚める時は、ちょっと寒いかもしれないなと考えて、そこで寝ついた。

 今は暗く冷たい床の上に、後ろ手に縛られて、暗い中に転がされているのだと気付くまで然程掛からなかった。燭台の脚があり、灯りに影が踊ってい、楽しそうな笑い声がして、きっと鬼達が深夜の宴をやっている。

 幸太郎は手を捩りながら寝返りを打って、毛深い足だとか細い小さな足だとかが見えて、視線をあげてようやく、襤褸を纏って酒を飲み、煙管を蒸す連中が燭台の灯りの中に車座になっている様子を現実だと受け止めた。男は女を抱いて、女は男に抱かれていた。子供達が酌をして回って、二人一組にして足首を縄で繋いでい、片方が酒を一滴でも溢せばもう片方を打ち、男の野蛮な手に抱かれる娘と繋がった少年は、小さな頭を男の股座に押し付けられていた。

 覚醒して少しも経たずに野盗にやられたと幸太郎は思って、手首と腰と、膝で拘束する縄のせいで起き上がるための勢いが足りない。野蛮な笑い声に混じってかすかな鼻を啜る音がして、燭台の灯りにいくつも影のある空間を見ていると、暗い場所で若い女や子供が足首を括られ泣いていた。粗末な着物は着ているが、裸の子供の着物は値打ち物だったのだ。幸太郎は寝巻きの木綿の上から縛られて、壁際を振り返れば少女が蹲っていた。

 這い回ることは得意だ、と幸太郎は後ろ手の拘束も膝の拘束も解かず、肩と腰を使ってゆっくりと少女に這い寄った。少女の蹲る床は湿っぽく濡れている。足首の二人一組はちぎれており、芋虫のように這っていれば、目の前にごんと酒瓶が降ってきた。ゲラゲラ笑った男が酒瓶を乱暴に置いただけだが、それなりに怖かった。吃驚もした。

 動きを止めてゆっくりと男の背中を見れば、そこからは細い脚が見えており、床に力無く垂れる小さな手が見えた。熱気のせいか汗が出る。揺さぶられる細い脚はたまに暴れて、たまに痙攣して、それ以外は力無く青白くだらりと落ちていた。幼い乳房を乱暴に掴まれ噛まれ、上がってもいない黒髪の額も色を無くしていた。

 呼吸が引き攣って、諤諤と震えが出た。ただ恐怖と嫌悪が吐き気を催し、幸太郎の背中を舐めた。このにおいはいけない。あの海辺の夜中、月のない夜は壊れた祠に男達がきて、足首を掴んで引き千切るような痛いことをして、ゲラゲラはしたなく笑って去っていく。

 ひゅう、と壁際に蹲る少女の声がした。打擲を受けて壁際に蹲ったと見られる彼女は、肺を動かすために大きな咳をして、小さな咳を繰り返し、咳には胃液や唾液が混じって粘った音がした。生きている。死んでいない。彼女はお腹を抑えて蹲って眉根を寄せて、咳の音には幸太郎以外気が付かなかったほど、笑い声は盛んであった。今彼女が取り返しのつかない怪我をしていないと、誰が慮ってやれるだろうと、幸太郎は長い睫毛をぎゅと持ち上げた。

 念のため煙はあまり吸うまいと這い寄って、少女の小さな踝に頭をこちとぶつけると、口の端に一筋血を流す幼い怯えた顔が振り返った。誰かの宝物として授かって、誰かの宝物だと丁寧に育てられ、大事に育っていくはずだった乙女は、打ちどころが悪ければ死んでいた。

 「すまない、少し、引っ張ってくれるかい?」

 声を潜める幸太郎に少女は急いで頷いて、幸太郎の寝巻きの木綿を引っ張った。壁際にゆっくり手を這わせ、ゆっくりと木造の部屋の中を見渡した。古いお堂であろう、仏様の像は頭から裂け、心臓があるであろう胸には鎌が刺さって冒涜されていた。淫らな生臭の臭いで吐き気がするが、今は優先すべきことがある。

 「ありがとう、優しい子だね。少しだけ我慢して。」

 きっと幸太郎がいない布団に、直継は帰ってくる。

 「僕がいるから、頑張って……。」

 バチっ、と破裂音がした方向から子供が跳ね飛んできて、足首を繋がれた姉の脚が引き摺られて露わになった。恥辱と見下ろす視線の下劣に震え、艶の美しい黒髪が引っ張られ、小刀で縄を切った男が獲得するらしかった。

 小刀はよく研がれている。直継の本差ほど麗俐に磨かれているわけではないが、毎日砥石で手入れしている小刀だ。酒を行儀悪く啜っているのは茶碗だ。これも丁寧に洗って乾かされ、罅割れないように丁寧に扱われ仕舞われる物だった。空になった酒瓶をわざわざ床に置くだろうか。

 幸太郎に乱暴する連中は、破れた食器や欠けた陶器を持ってきて、犬猫の餌のほうがまだ清潔で旨かろうと思われる何かと、最悪の場合はそれに目の前で小便を掛けたものなど食わせようとしたのだった。ここにある食器はどれも美しい塗りに文様まで入っていて、陶器は一つとして欠けていなかった。幸太郎の目の前の酒瓶は、酒屋に行ってこれに一杯、と言えばそのまま注いでもらえるだろう。廃された寺社、観音像があるということは神社だ。広い部屋に明かり取りがあり、宴会にぴったりだ。暦によると月明かりは少し遅れるはずだ。天井には蜘蛛の巣も燕の巣もあって、つまりは野良の生き物が巣を作れるほど頑丈だ。少し前に峠の茶屋を半壊させる程度に大きな地震があったというのに。

 「大丈夫? お腹痛くない?」

 嗚咽を上げられない少女は、それでもこくこくと頑張って頷いて、頬と顎を濡らし、口の中を切っても健気に起き上がった。宿場町には元は尼寺があった。今は丘の上に移動したと聞いたが、尼寺にはその性質ゆえ男子禁制だ。女性だけが駆け込める最後の逃げ場。命だけ持って、あるいは命しかもう持てるものなんてなくて、死ぬ前に一瞬だけでいい、苦しい世俗から一つだけでも天に向かって息を吸いたい。

 ちりと肌を焼くようなひとの視線の気配に、幸太郎は首を傾げた。起きていることに気づかれたか、はたまた売り払う値踏みか。その桃色の禿頭は、確かな見覚えがあった。いらっしゃいませ、お侍様、こちら拙宅でございますが、ごゆっくりお過ごしください、目尻に多くの皺を寄せ、丸く肥えた頬が可愛らしい禿げた親父は、宿屋の主人と名乗ったはずだ。離れまで幸太郎の脚に合わせてゆっくりと歩いて、直継が希望する食事と食材をえっちらおっちら運んでいた好好爺。妻の襟がちょっと垢染みていて、痩せていたのは、去年死産したからだとかなんだとか。それはお気の毒にと線香を上げようと立ち上がった武継に、そんなもったいない、と手を振っていた男。酒に焼けて真っ赤な顔と、真っ黒な声で笑っていた男は、上がった頬を徐々に下げ、笑い皺の多い目元をかくんと見開いた。白い光が鮮やかなくらい幸太郎の視界を焼いた。明かりとりの窓からは満月が見えていた。

 「子供が盾だ! 斬るな!!」

 そして満月の灯りが慈悲深い糸状に反射して、翻る様子が見えた。だから叫んだ。絶対に近くにいると思ったから。流石に狭い村では太刀筋を見せることはできないが、と手入れの様子を見せてもらった。拭い、打ち粉をかけ、拭う。油をひく。懐紙をくちびるに挟んで一連を優美に見せてもらった。あんなに美しい光を纏っているのだ。人間の脂で濡れて骨を断つだなんて、似合うに決まっている。直継の手によって輝き曇り、また拭われ輝いて、まるで鬼神の角に牙になる。

 がんがんがん、と金物で木製のお堂の壁が叩かれて、酔った野盗たちは荒っぽく立ち上がる。少女の悲鳴は彼女のほぼ真横に斧が刃を輝かせたからで、めきめきみしみしと音を立てて壁の板材を逆立てて、ばきと壁を折れば、そこにはここ数日見慣れた青年がおり、

 「清吉さん……っ! この子を先に……っ。」

 「お任せくださいっ!」

 奉公人随一の怪力、清吉は壁をへし折って投げた。懐から大事に出した短刀の鞘を外し、幸太郎の後ろ手の拘束を切り膝を自由にさせ、腰の縄を切る。刃を拭って鞘に収めると、幸太郎の手に握らせた。

 「い、要らない、僕に刀は要りませんっ。」

 「護身用です。幸太郎様は身を守ることもお仕事でございます!」

 まるで大人たちが崖崩れを起こしたみたいに暴れて突っ込んで、我先にと駆け出そうとした。そして転んでギャと悲鳴を上げて、どんと地面が上下に揺れるくらいに強い踏み込みで、膝の皿を破られた一人がそっくり返った。

 忽ち恐慌を起こした廃寺から、小さな子供から先にと相馬家の奉公人は助け出し、篝火まで走らせ、脱出のための荷馬車を駄馬に牽かせていた。無秩序に逃げているように見えて、逃げる方向は幸太郎の背後か、その対角線の壁か、さもなければ正面。正面口には足元に縄を張って転ばせ、幸太郎の背後から小柄な人影を救い出し、そうでないなら刃物を突きつける。

 地を震わすほどの踏み込み、逆袈裟の太刀筋、精悍な頬骨を空から白く照らす、美しい男は静かに、しかし、綺麗に通る声で。

 「死にたい奴だけ向かって来い。」

 と、言った。

 真っ直ぐで直向きで熱烈な刀身は体の一部になったような血振りが艶やかだった。なまなましく精悍な頬が照っているのは返り血で、足元には宿の親父が指を落とされ悲鳴をあげて転げ回っていた。途端に激昂した様子で肉薄した大男が一人、血飛沫を飛ばして倒れ込んだ。その手に毛深く爪も伸びた指はなく、ボロボロと足元に作った血溜まりの中に指らしきものがあった。

 堂々たる足音、血で濡れた刀を上段に掲げ、器用に峰打ちに翻し、腰に掴み掛かろうとした男の背中を強か打った。直継に近寄る男はいなくなった。代わりに壁際に転がしていた女子供の華奢な首を掴み盾にして、刃の潰れた野太刀を引きずって、文字通り脇の壁から割って入った美貌の剣士に果敢にも挑む野武士は、股間を蹴り上げられて崩れ落ちた。

 「俺のツレを攫うってのは、贅沢な遺言だなァ!?」

 美しい太刀筋と喧嘩殺法を融合させ、幸太郎の襟にかかった男の手からばらばらと指を落とし、あどけない頬に血飛沫が散った。直継は月光を背負い刀を濡らし、息一つ切らさず下段から中段に、怯んだ腹を蹴り飛ばし、飛びかかる上段を薙ぎ払う。表情のない美貌の暴力的な艶めかしさに、危うく見惚れてしまっていた。構えた男の額を柄でぶん殴り、逃走のために中腰になった戦意のない男は逃し、向かってきた若く滾った男の顔面に拳を叩き込み、返す刃を器用に手首をやはらかく操って、峰打ちで袈裟斬りにした。壊された壁から一直線に幸太郎の元に来たと思えば、その手に母の形見である吉光の短刀を握る手が震えているのを一瞥し、また翻って捕まえようと来た指を切り落とす。手の足の先だけ器用に切り落として戦意を砕く。最小限の流血に抑えた廃寺院の本堂は、それでも血の匂いで酔いそうだった。

 「すまない、遅くなったか。」

 体を震わす血振りを行い、襷で刀身を拭い、鞘に収めるまで、神楽のような美しい動作だった。ここで泣いて縋って恐怖でも訴えれば、物語の山場に相応しかろう。けれど幸太郎は菩薩のようにくちびるの端を微かに歪め、長い睫毛を振るわせ微笑んだ。鬼神の如く美しく、逞しく手を差し出され、頬に散った血を拭う手は、今になって震えたらしかった。逆光の中に、一筋二筋、直継の頬に流れるものがある。

 「どうして泣くの、格好良かったんだから。」

 その手の温かさに、直継は子供のように膝をつき、嗚咽に喉を鳴らしながら幸太郎を抱き竦めた。生きた心地がしなかった。

 又吉が所用に立った際に見たのは、宿場町の男たちが群れになったように動いて、家々からは灯りが漏れていた様子である。女達は引き摺られ、男達は列を成して石の階段を上がる。夜の宴会というには女達の顔色は青褪めて、男達も緊張しきり、大柄な男が三名程度、愉快そうに声を立てていた。

 この町はとっくに野盗、盗賊たちの手に落ちていたのだ。夜に蝋燭を灯して旅人を襲い、罰当たりなことに尼寺を占拠し、弱い者たちを犯して殺す町になってしまっていたのだ。又吉は即座にとって返し、直継と武継に知らせ、離れに寝かせた幸太郎が杖を髪飾りを置いて寝巻きだけの格好でいなくなっていたことを知る。そして隠せば為にならんぞと改めて回った。女達はどこも不自然な痣があり、男達は戦帰りのように体の一部を亡くした者があった。そして立ち入りを制限された尼寺に続く階段を登る、武装した男を追ったのであった。

 「直継さん、お湯を沸かしてもらっています。洗っていらっしゃい。」

 「直継君、直継君、お風呂、お風呂にしよ?」

 「直継様、幸太郎様は拙者らに任せていただいて……。」

 「お召替えを。」

 「直継君、直継君。」

 精悍な頬に垂れた返り血を幸太郎はむにむにと触って、まるで彼は母親を見つけた迷子のように幸太郎に抱きつくから、本当に弱った。近くの番所に町の女達が相馬の家紋の笄を持って走って、荷馬車に乗せられた子供達は保護されて、直継は幸太郎の耳元で、良かった、と改めて泣いた。

 相馬の家から追加の奉公人が動員されて、こちらの領主は何をしているのかという事になったのは翌日の夕方だった。奉行所からも家紋の笠を被った火付盗賊改などやってきて、じゃあここでいいやとぞんざいに下されたのは、相馬家に帰る侍道中最後尾に連れられていた籠の中身である。

 「こいつは海辺の村の出でな、女子供を手籠にしていた。管轄はお前達だ。流罪でもなんでもやれ。俺の家では引き取らん。」

 籠の中で文字通りお縄になっていたのは、寺の広敷で幸太郎を襲った男である。歩くことも許されず狭い籠の中で揺られていたから乗り物酔いで吐いて、食べ物飲み物はきっちり与えてもらっていたから便所も垂れ流して酷い事になっていた。

 「他にも二人確認している。磐井家が詳しいことを知っている筈だ。聴取に数人やってくれ。」

 直継の命令は呆れたような響きがあって、まあ海の際の小さな村のことだ、勇之亮が家名を使い村人への聴取を進め、幸太郎を襲った数名は名前も上がった。あとは白州の上のこと。隣国に流刑ともなれば、それこそ直継が同田貫の錆にする。それはそれで国の恥だ。

 「武兄さん、あの葉っぱ見たことないの、採っていただける?」

 「あの白い花が咲く葉だね。」

 「花が咲くの? いつ?」

 「春にね、小さな提灯のような花が咲くんだ。」

 「じゃあ、来年にまた見ないと。」

 押し花にすべきひと枝を幸太郎は受け取って、武継が黒毛の鞍に戻って幸太郎を抱くように手綱を持てば、七丸は心得た風に前に出る。この人間は花が好きなんだなと思ったのか、綺麗な木の枝や花の蕾の前に立ち止まってくれたりする。次に広い川を渡れば、彼らの故郷だ。相馬家の領地は広く、お城のお殿様が治めなさいとした領地は、山城の裾野を全て治めてまだ余る。

 「こぉたろお……。」

 そして警護の増えた行列の末尾で、寂しそうに手綱を握る直継が一人、たまに円が不機嫌そうに後ろ脚を振る。あの可愛らしいのはつがいではなかったのか、意気地なしめ、とでも言いそうな大きな目は、今日も透き通るような長い睫毛が麗しい。

 「あれはわかる、日々草!」

 「僕の屋敷は、白くて小さいものが咲くよ。伴天連から貰ったんだ。」

 「では、舶来の植物なんだね。見たいです。」

 「是非。伴天連の考え方も興味深いから、お茶でもしながら読んでみようか。」

 「お茶……というと、その、お作法を知らないのだけれど……。」

 「教えるよ。僕の茶室だから、お作法なんてどうでも……というのは言いすぎかな。」

 正直なところ、幸太郎が直継を避けていた。あんまりに逆光の中に涙と血を流す男が美しくて格好が良くて、伊弉諾だとか素戔嗚だとか建御雷だとか経津主神だとか、物語の英雄よりずっと麗しく強かった。武継はちょっとした悪戯とでもいうのか、お騒がせの義理弟を揶揄うような心地だった。義理兄は荒々しいこととはほぼ無縁で育ったが、好きな子の気を引きたくて悪さをする悪童などこういった心地だろうかと、やっぱりふふと上品に笑っていた。

 平地の街道を抜け、ぐにゃぐにゃする山道を抜け、視界の開けた丘の上から見下ろすように、その街は現れた。広い街は縦横と川を渡らせ、川を渡る船が荷物を運んでいる。牛馬が荷物を運んで行き交い、青物がどっさりと輝くほど並び、米が升で取引されていた。馬の蹄の音に、おかえりだ、お武家様のお帰りだ、と住人が振り返って礼を尽くしお武家様は義を尽くす、河原者が色取り取り紙花を散らし、楽しそうに飛び上がる、豊かで明るい街だった。

 「直継さん、僕は父上に報告がある。君も家に一度顔を出しなさい。実継さんも会いたがっておられたからね。」

 「あー、さね丸な。え、あいつ元服したっけ?」

 「君が出奔した翌年にね。今は後継の筆頭さ。だから会いに行きなさいね。」

 「やだよ、あいつうるせえから。」

 幸太郎は武継に抱かれて杖を下ろすと町民達の店が並ぶ路地と武家屋敷が並ぶ路地の重なる道に爪先を下ろした。村の土に比べると柔らかく乾燥していて、風が吹くと砂埃になる。しっかり踏み固められていて砂利が少なく、村では細かな石で切ったことが多かったけれど、ここならば広く擦れない限りは怪我が少なく済みそうだ。馬の背からは匂いが違う。ひとびとの生活の満ち満ちた、甘くて忙しない香りがした。

 武継と七丸は奉公人を半分連れて、更に甍の輝く相馬家本家を目指して道を別れた。直継の屋敷として賜った屋敷は、彼らと別れたほんのすぐそばで、武継は本当に心配りが細やかだ。直継は牽かせた荷物を先に門から入れて、幸太郎とその杖を乗せた円が手綱を取られてご機嫌に足音高くして。数年屋敷の主人は不在であったが、使用人や奉公人は丁寧に屋敷を守ってくれていた。掃除も修繕も行き渡って、その縁側から、青年が一人、下駄を引っ掛けのんびりとやってきた。

 「直継! 久しぶり!」

 「応、さね丸! 会いたかった!」

 たまに直継は手紙を書いていた。漁村に立ち寄る飛脚が請け負って走っていく、鍛え上げた臀など見事であった。達筆で流麗な手紙は、手と手をぱんと叩き合わせた故郷の親友、実継が相手であったのだ。幸太郎はきゅっと胸元に風呂敷の結び目を掴んで、未知の感情で首を傾げた。自分以外のひとを甘やかす直継を、幸太郎は初めて見たのだ。

 「元気そうで何より。」

 「手紙、寄越したか?」

 「大したことは書いてなかったし、いいよ。」

 どうやら話を聞くに、実継は直継の手紙を送っている。しかし飛脚は途中の町で襲われた可能性があって、武家屋敷への配達はともかく、村の一青年への手紙は届かなかったようである。

 「こうたろ、こいつがさね丸。相馬の次の当主だ。」

 「お跡目様……、あっ、あの、ご挨拶がっ……!」

 円が首を振って、幸太郎は鬣を掴むことで落下を免れた。直継が即座に駆け寄って、抱き上げて、どじを見せて真っ赤になった幸太郎の杖を胸に凭れさせ、幸太郎の腹を抱いて立たせた。おっとりと実継は微笑んだ。

 「さね……?」

 「さね丸。うるせえだろ、こいつ。」

 「元服したってば。怒るよ。」

 「こいつ、怒ると長いからな、気ぃつけろよ。」

 「え、んう、さねつぐ、さま?」

 「どっちでもいいや。幸太郎さん?」

 「は、はいっ。」

 「有言不実行やめろ。」

 「直継のいいひとさんだ! 手紙にいっぱい書いてたね。」

 「え、ウッソだろ。まじで?」

 「無自覚〜〜! 変なとこ朴念仁でしょ、直継ってさ。」

 ひとしきり実継は直継をいじくりまわした。数年ぶりというにはその再会は慣れており、数日会い損ねていたといった程度に気安かった。元服する前からちょくちょく二人で家を脱走して、街中走り回って遊んだのだという。すと背を正し、踵を正し、実継は誠実に膝を折る。杖をつく幸太郎の顔を、正面から同じ高さで目を合わせ、

 「……改めまして相馬実継。直継の一個下。よろしく。」

 「よろしくおねがいいたします……。」

 直継のように腰に手を置き真っ直ぐ頭を下げる礼式をやってみたいが、どうしても幸太郎の体では出来ない。座っていればなんとか形になるものをともどかしく思いながら、裏表なんてどこにも見えない実継の笑顔を見れば、魂に何かやましいことがあったとして、それが全て焼けて消えていくような、そんな笑顔であった。真に誠実とは彼のような男を言うのだ。

 「色が白いね。髪の色も瞳の色も、海に映えそう。」

 「あー、幸太郎、こいつがウチで一番絵が上手い。」

 「こらこら、絵は上手いとか下手とかじゃないんだよ。魅力的かどうかだよ。好きかどうかだよ。惚れたらとことん眺めたいものさ。と言うわけで、直継のお屋敷の一部屋は京の図書頭の書斎の次くらいになってるからよろしく。」

 わははと軽やかに笑った実継は、また後でね、と手を振って、勝手知ったる直継の屋敷に停まらせていた黒毛に跨り、まるで台風のような御仁であった。また後でと言うことは何かあるのだろうかと幸太郎は顔を覆う直継を見て、直継がはてと見れば幸太郎がいたとばかり、大きな骨張った手で幸太郎の淡い色の髪を撫でた。

 そしてごく自然な動作で幸太郎の顎を掬い、扇形の睫毛はきらきらとして、幸太郎が見惚れている間にくちびるとくちびるをくっつけた。

 「……おそと。」

 「しょうがねえじゃん!」

 生まれ故郷に戻って、幼馴染や兄に会い、見送って、直継はすっかり年頃の少年みたいだった。幸太郎を抱き上げて、萎え痩せた踝が二つ、黄金の竪琴のような音が立つ。杖は器用に直継の胸に倒れ戻った。

 「好きなんだから、さ!」

 いつぞやの、真っ赤な夕陽に抱きしめられた告白は、白日の太陽が明るい初夏の、真っ青な空の美しい日であった。



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