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異説・安珍と清姫。  作者: どんどあげ


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 《つくろい

  いたし〼》

 と書かれた木の板は、幸太郎が記した。稲藁で縒った綱に括って直継の家の軒下に吊るせば、なんだか一端の仕事人になった気分であった。時折風に揺られてからから鳴って、来客の時はその看板をこんこんとする事にした。何せ戸板は直継の家の新入りで、先輩方と馴染めずにいる様子で、船大工が匙を投げたので近く宮大工がやってきてくれる予定である。

 与謝野先生の手習い所で白緒たちと共にとりな歌などやっていた頃は、習字も一等の腕前だったのに、数年文机から離されただけで腕がめっきり落ちていた。お習字は母が上手で、父は文字は書けなかったけれども腕のいい仏師で、職人の家で裕福ではなかったけれども健気で尊い日々だった。家族はどうなったのであったか、幸太郎は考えないでいる。

 今夜の直継は、謙真の実家で直継はしっとり月見酒に誘われ、少し遅くなるそうである。まるで幸太郎が彼らに頼んで仕組んだとは、素直な直継にはきっと思いも寄らぬ事だろう。彼はちょっとばかり素直すぎるきらいがあって、悪いことが許せないらしいが、これくらいはかわいいものである。

 縫い物は母がやっていた。父も器用であったから草鞋などよく編んでもらったし、家族の手を忘れたことなどなかった。ちょっと直継に要り用があった際など、幸太郎は助けることができれば思ったのだ。脚が効かなくとも書き物や繕い物は出来る。与謝野や勇之亮が手習のお手本や祐筆の依頼を持ってきて、村の女衆が間に合わない縫い物など、ちょいと銭を稼げればと思って看板を出した。それが売れること売れること。最初は幼馴染の着物のほつれを直した程度であったが、最近は村の東側から新妻などやってきて、繕い物を依頼されたり、教示を求められたりして、なかなか良い商売になったのだった。唯一の問題は、金に困る直継というのが全く想像できない点であるが。

 直継が帰ったのは、朝の鳥の声が行き渡る頃だった。直継に抱き上げて貰って連れて行って貰った小間物屋で、銀鼠色の反物を安く売っており、確かに流行外れの色だが織りも上等だった。幸太郎はその反物を小遣いで買って、直継が仕事に出る時間にこつこつと縫った。直継の凛々しい美貌にさぞ似合うだろうと、風呂敷に包んだ着物は、もう端を処理して最後に糸を仕上げるところだった。彼の胴回りなど幸太郎には知ったものであったし、採寸の時間が必要なかったのは有り難かった。たまに軽薄な笑い声が漏れてしまって、頬を抑えてくちびると頬っぺたを引き締める程度に。

 「直継君の、お着物。縫ったの。」

 「……ひっ。」

 「えっ?」

 玄関の戸板は相変わらずがたぴし煩く、直継の帰還を幸太郎に知らせ、寝たふりなんて狡い真似もしてみたが、優しく前髪を撫られて、へらへらと幸せで嬉しくて、嘘がつけなくて弱った。今朝の直継は欠伸を噛み潰しつつ、幸太郎は安く寝ているかと確認に覗き込んだ所で、えへへと子供のように笑う幸太郎に出会った。そうして取り出された銀鼠色の表着を見せられ、照れくさそうな笑顔を見せられた。

 「あ゛……っ。」

 精悍な頬にぼろりと海が落ち、直継は慌てて頬を拭い、口元を抑え、ぐすと整った鼻梁を歪めると、普段温度がしないくらい完璧な形のくちびるを嗚咽に歪めた。涼しく見えて激情家の直継は、もしも健気な愛しい生き物が、他所の男の着物でも縫おうものなら、と覚悟までしていたとは幸太郎には思いもよらず。あなたのためのものよと語るには、幸太郎には言葉が遅れ、直継は意気地なさから聞くことができなかった。

 「俺の……?」

 「君のお着物。」

 幸太郎は淡々と、涙で濡れてしまうなと考えて、風呂敷に包んで、朝陽の差し込む直継と幸太郎の家の中で、ぽかんっと直継が泣くのを見上げてしまっていた。骨ばった大きな熱い手が、幸太郎のあどけなさの戻った頬に触れ、やはらかく擦り寄って、甘い言葉も棘のある言葉も言い合った顎を包むような抱擁に変わった。

 「朝っぱらだよ。」

 「……ばか。」

 直継は、ちょっと情緒が今でも不思議な幸太郎の顎を肩に乗せ、甘やかく罵倒の言葉で愛おしさを囁いた。銀鼠の着物は、別嬪なお侍さんによく似合って、骨の形から美しい長身に生まれた時から付録していたようだった。光の角度が変わると、鱗か木の葉が重なり合うような織りが美しく。幸太郎は直継にぎゅうぎゅうと抱き締められながら、困ったこと、と眉を下げ、鮮烈な直継の必死な顔を思い出す。美しい黒髪を潮風に濡らして、凛々しい美貌を焦りに歪め、けれど汗ひとつ無い美丈夫。

 幸太郎がそのまま孤独に死ぬことと、直継とともに海の中で死ぬことを選べと言った。差し出された手があんまりにも格好良くて、睥睨するように見下ろす瞳が美しかったから。幸太郎は、正しく選ぶことが出来たのだと、自分が誇らしかった。そして直継のことがもっと好きになった。

 「あれが与謝野先生の手習所、白緒さんの酒蔵があすこね。お寺はここからは見えないの。」

 丘を上がった松林から村の東側を見下ろすと、幸太郎はあちらこちらと直継に案内出来るようになった。記憶と言葉が結びつき、ある日突然と口を利く赤ん坊の気持ちはこう言う事なのかと納得したりした。酒蔵に入る時は納豆を食べてはいけないから、酒蔵に勤めるなら納豆が嫌いなほうが良いのだなんて、幸太郎は笑って聞かせ。

 「海がくすむと、明日は雨なんだよ。」

 「くすむ? 海が?」

 「そう。くすむの。水平線があるでしょう。色が濁るの。」

 「水平線が、濁る……。」

 「さては直継君、絵を描かないね?」

 「絵は……やらねえな、あんまり。」

 「絵はきっと、僕のほうが上手ね。きっと君の似顔絵を描いてあげる。」

 そんな風なことになったら、熱烈で泣き虫な直継の美しい瞳はとろけて落ちてしまうのではないだろうか。杖を器用に使った幸太郎は、瘤瘤とした松の足元に萎えた白い脚を無防備に差し出し座り込んだ。真っ青で真っ白な水平線は、今日は透き通っていて弾けば切れそうだ。

 「こうたろ? 疲れた?」

 「少し。君も座って。隣がいいな。」

 「ん。」

 着物を汚さないように、注意深く直継は蹲み込んで、幸太郎の隣に来るまで、三度腰の位置を改めた。

 「きっすがしたいな。」

 「ばか、外……。」

 「したいなって思ったの。してくんなくっていいもん。」

 まるでいとけない少年のように幸太郎は無邪気なくらい咲って、やっぱりだめか知らん、と柔らかなくちびるを噤んだ。つと頬を抱かれるからぱたぱたと長い睫毛を上下させ、じと黄玉のような色素の薄い瞳で見上げれば、思い切ったように柔らかな感触がくちびるに触れた。

 「お外だって、君が言ったんじゃない……。」

 「したいから、した!」

 直継は耳まで真っ赤になって、思春期の少年みたいにつっけんどんで、痛くもない首を摩っているから、可笑しくなって幸太郎はきゃっきゃと声をあげて笑ったのであった。



 ***



 風呂敷に包んで肩から下げて、杖をことんことんと丘を上る。幸太郎の足には車輪のついたものはどうかと船大工は提案したが、宮大工は否を唱えた。それはこの村落が起伏絶えない地形であるからだ。足であるなら常に体についていかねばならない。であるならば、故障や破損がこの土地では前提になる車輪は足足りえないのが結論であった。

 ゆっくりでも自分の力で歩けるのはやはり楽しくて嬉しくて、傷だらけになる爪先だって楽しくて嬉しかった。繕い物を届けに行くのは幸太郎にとっては直継に接吻をしてもらう次くらいに幸せなことで。幸太郎は何のやましいこともありませんよと出かけて回るから、海への供物として散々陽気を含まされていた時代を知る者こそ隠れて回っている。

 「幸太郎、買い物か?」

 「謙真君、こんにちは。」

 「はいこんちゃ。何買うん?」

 「いやね、あの頃の泥絵具、どうしたか知らんと思ってね……。」

 「絵の具う?」

 「謙真君のお家で使わせて頂いたのだっけ、ほら、曼荼羅を……。」

 「ああ、描いたっけな。」

 村の西側中央部は、山から採れた山菜を売る店や、村の東から仕入れた魚屋があって、渡りの露天商だとか、たまに河原芸人などやってきて、輪投げをやって楽しませてくれる。小間物屋には先日世話になって、その礼も兼ねていた。

 謙真はようと手を挙げて、最近特に元気な幼馴染の肩をぽんとやる。手習所の板間で座り込む幸太郎に、こうやって毎日声をかけて挨拶をしてきたのは謙真だった。寺の子だからわざと悪童ぶって、けれども子供であるからやることといえば庭の外に出てみたり、お八つのつまみ食いをしてみたり、足が悪くて逃げられない幸太郎をほっぽって走って行ったり、いや割とやらかしていたな、と謙真は述懐する。

 そんな子供の頃、有難い曼荼羅図を旅の僧が納めて行ったのであったか、それを真似て泥絵具を使って遊んでいた記憶が微かに謙真にはあった。幸太郎は与謝野先生の奥方などまるで観音様みたいに美しく描いて、これは有望な絵師様だなんて褒めて貰ったものだった。彼女のように紅を引こうとは思わなかった。小間物屋で美しい簪に溜息は吐けど、飾ってみたいとは思わなかった。子供を産むことも考えつかない。素敵な殿方と出会いたいかと言われれば否。幸太郎は体に陽根こそ存在しないが、魂は女性ではなかったようである。

 「今度父上に聞いとくわ。蔵にあんだろ。」

 「きっとだよ。絵を描きたいの。」

 「そりゃあ良い。帰りか? 送る。」

 「本当に? ありがとう。でも、一人で帰れる。」

 けんしんせんせえ、と手習所に通う子供達が手を振った。彼も手習所では先生と呼ばれる立場である。寺の若衆に教示を乞われる立場である。昼を過ぎれば直継だって帰ってくるし、幸太郎だってこれくらいの時間は直継の残り香を抱いてふわふわ微睡むのが好きだった。やっぱり体力にも限界はあって、ふうふう言いながら家々のはずれにやってきて、切り立った崖に連なる丘の上から振り返って、その不自由な体を蹴り飛ばされた。

 「……っ!?」

 水車小屋と菰置場の影だった。みしと杖が軋む音がして、からんと転がる音がした。唐突に影の中に放り込まれた幸太郎は、脚が妙な格好に折りたたまれて、ずるずると背中が地面に落ちた。転んだ自覚はなく、荷物に割れ物は無かった。折れるとしたら杖、次に骨だ。大事な杖が折れるのは嫌だ。あんなに大切に大切に作って貰った杖。あんなに嬉しい贈り物は生涯であれがきっと一等だ。

 ーーオラ、マタぁ開け!

 ーー×××だ×××

 ーーどうせあの別嬪とやり慣れてんだ

 ーー突っ込めつっこめ

 「ぉご……ッ……ぐ……ッ? ……ゲホ……っ!」

 影が三つ、幸太郎を見下ろして、着物を剥がそうとして帯が邪魔だとばかりに昆布巻きにして、萎えた脚を乱暴に捕まれた。ぺっぺと下品に手に唾液を吐きつけて、加減などなく強引に開かれて、丁寧さの微塵もない不潔で洗ってすらいない指でいじられる。

 「ヤァめ……ッ! あガッ……ぎゃ……っ?? やだやだやだっ……、うそ、やあ、やめて……っ!!」

 ささくれた指先が痛い。強くゴシゴシと動かされて、体が左右に裂けるかと思うほどの痛みで反射的に仰け反った。痛みで硬直していれば、ぐっぽぐっぽと更に擦れた音と濡れた音がついてきて、

 ーーうるさい!

 口に詰められた。体臭と汚れでひどいにおいがした。呼吸困難で涙が溢れて鼻の奥が反射的に動くと、喉の奥までぐいと詰められ、息が止まった。痛みと苦しさでがくがく震えていると、ゴツンゴツンと殴られた。きっと男たちにとっては久しぶりの発散で、久しぶりの独り善がりに道具があって、具合が良い角度に擦っているだけだが、倒され影に押し込まれて犯される幸太郎にとって、全てが殴打で全てが苦痛で、全てが暴力だった。ぶひゅっと間抜けな音がして、脚の間を熱い液体が伝っていった。息が出来なくて今度こそ殺されると思って手を振り回せば、手首を掴まれ拘束されて、喉を口の中を擦られて生臭さで吐きそうになった。口を覆われ飲めと言われたから必死で鼻で息をしようとして、鼻から逆流した。息が出来ない。酸欠の魚のようにくちびるを動かしても、口の中が気持ち悪くて上手に呼吸さえ出来ないでいれば、ゴチュンと腹を殴られた。

 「ギャっ!!」

 ーーもう一発

 ーーもう一発

 ーーもう一回いけ

 「…やぇて……っ……。」

 微かな悲鳴が出て、空気に溶けて行った。腹を殴られるたびに漏らした水音がして男たちが笑うから、何か彼らにとっては愉快な事なのだろう。ただ幸太郎は痙攣して、恐怖と嫌悪で緊張と弛緩を繰り返して、美しい手が影の泥濘や男の体液とで汚れていくのを見た。長い睫毛に涙が伝って、虚空がきらきらと輝いていた。

 激しく嘔吐し胃の腑が痙攣を繰り返し始めたのは、また喉の奥を男に殴られたからだ。痛みと緊張で全身真っ赤になっていて、殴られた部分も真っ赤で、まるで彼岸に咲く花のように色付いた肢体を、踏み躙って嗤って唾棄して、使い捨てた。

 「ゲホ……っ!」

 白濁した吐瀉物を何度も何度も吐き戻し、細い背中を振るわせる生き物からは興味をなくした男達は、そそくさと着物を直して走り去った。

 「ぐぇ゛ぇ……?」

 肺の奥から惨めな音が出て、脚には血と生臭い液体が流れて、喉に指を突っ込みまた吐いた。吐いておかないと夜中にお腹が痛くなって、痛くて痛くて泣いても誰も助けてくれないから、今の内に出来る限り処理して洗わなければいけない。海水で洗うと血が出た場所はひどくしみて、傷が治る前にまたどうせやられるから、痛みに慣れることが出来て一石二鳥だとか、腹を殴られたらおしっこが真っ赤になって、きっと心配させる。

 「うえ……ぇ……ぁ゛……!!」

 終わらないかと思われた陵辱は、きっと四半刻も無かった。ずっと殺されると思った時間は、馬の午睡よりもずっと短い。ちょっと約束の時間に遅れた程度、そんな時間。幸太郎にとっては、命の終焉さえ覚悟した時間は、男たちの数秒の快楽と支配による愉悦で、彼らにとっては何よりも楽しい時間だったに違いない。幸太郎は今、死ぬんだと、思っていたのに。



 ***



 血の気が失せた甘やかな美貌は、髪飾りを外された淡い色の髪がしっとり濡れている。発熱する体力が無いのだ。寺の広敷に蚊遣と広い布団を敷いて、幸太郎の体は近隣の女達によって清められた。彼女達は誰もが、かわいそうに、気の毒に、なんて非道な事を、と嘆き悲しんで、大事なところに薬を塗ってやって、寺の若衆ですら近寄る勇気を持てないでいた。与謝野夫妻は手習所裏手の本邸で泣いていた。

 酷く顔色を悪くして直継が駆けてきたのは夕刻の手前である。

 「幸太郎は……!」

 荷物を整えに帰った直継に、白緒が待機して、寺の広敷に案内した。彼は散々に酷い目に遭った様子で放置され、発見に至った者たちは揃って口を覆ったほどの有様だった。直継はそのあどけない頬を両手で壊れ物を触るように包んで、ほのかな体温に涙が出たが、泣くものかと堪え、整った鼻梁にしわを寄せ。顔は粘った泥に汚れて、腹にはいくつも殴られた痣があって、背中には押し倒された時に石で切ったとみられる大きな怪我があった。大事な所は裂けて血が滲んで、女の子達は頑張って止血をしたけれども……と皆俯いてしまっていた。

 「こうたろ……。」

 長い睫毛が直継の吐息で揺れるほど儚く、細い呼吸で辛うじて生きている。客人用の柔らかく広い清潔な布団を出して貰ったから、不吉な真っ白な儀式のようでもあった。

 「すまねえ、俺が一緒にいればよかった。」

 「謙真が謝るこたぁねぇよ……。」

 直継は静かに静かに幸太郎の額に頬に、赤黒い痣のある首を撫で、震える指で柔らかなくちびるをなぞって、ようやく幸太郎がか細くも生きている事を確信して現状に把握したようだった。

 「生きてんだ、こうたろう、生きてるんだ……俺にはそれだけでいい……こーたろ、メシ、食いたいもんあるか……。」

 痛ましく肩を震わせる直継に、言葉を選ぶことすら出来なかった。そろそろとひとは減っていき、広い庭に面した広敷は、通るには誰かの目を逃れられないからということになった。女の子達は夕焼けの中を与謝野先生に付き添われて帰って行った。

 ふわふわしていて、けれども痛くて、ちょっとひんやりした。幸太郎はそんな気分で目を覚ました。ズキンと体に走る痛みが正真正銘現実を突き付ける。どうせ彼らにとって幸太郎は荒御魂に陽気を届けるための陽根の扱き穴で、血が出ようと息が止まろうとどうでもいい肉の器だったのだ。

 「……っひゅ……。」

 息が出来た。喉が針でも飲んだ心地で、こふと無様な咳が出た。こほこほと咳き込んでいると、震える手を包むように大きな手が覆って、もう片手で白湯の入った湯呑みを触らせた。動作の一つ一つを区切るようにして、直継は幸太郎の体を起こし、凭れさせ、背中の傷に障ったか眉が寄るから何度も支え直した。

 「ゆっくり、急がないでいい……。」

 「けふっ……ひ……かは……っ。」

 「そう、上手……そっと……飲めるか?」

 「んん゛っ、……きゅぅ……。」

 「よし、良い子だ……。」

 直継が片膝に幸太郎の頭を乗せる形で、なんとか白湯を飲む。注意深くゆっくりゆっくりと起こし、幸太郎の手で湯呑みを持たせて白湯を飲ませる格好だけでも整えて、ほうと幸太郎が息を吐くから、直継も細く息を吐いた。白湯を飲むだけでも精一杯で、体も痛みで起こせない。布団の中に潜らせ、弱々しくほっそりとした美しい手が直継の指を掴もうとして、ほとりと落ちる。直継はその手を拾い上げ、指の一本一本が動くのだと確認するようにして、扇形に整った睫毛が涙に濡れる。指一本、血の気のない爪、愛おしさでくちびるに押し当てていれば、えへへ、と軽薄な幸太郎の微笑み。

 「ぼく、また、しにぞこなっちゃった……。」

 「……っ。」

 力強く抱き締めてくれているのに今にも壊れてしまいそうな、直継の震える胸に幸太郎は擦り寄った。閉じ込めて、閉じ込めて鍵をかけて海の底に沈めて、乙姫様でも知らないような黒い場所に押し込めてきた粗末な箱が、すっかり壊れたみたいに幸太郎は涙をつるつる落とした。頭を包むようにして涙を拭ってくれる暖かい手が心地よかったのに、今ではすっかり恐怖と嫌悪で冷えていて、壊れた祠の中で死んだ巻き貝のようにどろりと黒いものが出る。彼と出会ってからの楽しい日々が覆って隠してくれていたのに。

 「直継君、ねえ、僕、そんなに悪いことしたかなあ……っ。」

 生きていれば良い事はあると誰かが言ったけれど、幸太郎はもう、家族が壊れて家族と引き離されて、壊れた祠の中で慰み者になっていた。直継と出会って杖を拵えて貰って、縫い物で小遣いまで貰って、あんまりにも幸せすぎた。

 「もう……疲れちゃった……。」

 ころころと湯呑みが転がって、もう少しで全部飲めそうだったのになあ、なんて幸太郎は直継の腕の中で考えた。暖かい海が降る。直継の熱い涙をはらはら受けながら、喉が渇いたと吐露するように呟いた。直継の手は幸太郎をの頭を膝に乗せ、盆に乗せられた急須を取った。湯呑みはどこだと幸い近くに転がっており、潮騒から隠れるように柱の影に座り込む。この村では豪奢な畳敷は、幸太郎が場所を選ばずに座っていざる事が出来て、気まぐれに転がっても背中に固いものが当たる事もない。子猫みたいな伸びをして、水を貰って、直継が座る隣にころりと丸くなる。あの瓦礫の中に戻ったような心地で小さくなっていれば、弱々しく握られた手を直継は拾い上げ、

 「眠っていいからな、俺も、みんなも、ここにいるから……。」

 と、優しい声音で囁いた。掛け布団だけ引っ張って、冷えないように腹に脚に被せ、頭を腕に枕して、直継のほうこそ憔悴しきって眇めた目をしていた。沢山の黒い手に蹂躙される夢を見て目が醒めて、逃げられない足を掴まれぶら下げられる夢を見て目が醒めて、三人の男に代わる代わる首を絞められる夢を見て目が醒めて、直継だと思ったら顔の真っ黒な男であった夢を見て目が醒めて、脚を掴んで別々の方向に引き裂かれる夢を見て目が醒めて、海の中にお頭を沈められる夢を見て目が醒めて、気持ち悪い舌が全身を這い回る夢を見て目が醒めて。悪夢に何度も覚醒して、その度に自分を抱き締める直継の、整った鼻梁に皺がある寝顔を眺めていた。

 たまに勇之亮が様子を見にきて、謙真が井戸水を注いでいた。ずっと幸太郎は起きているのか眠っているのかも自分で判断出来ず、子守唄を白緒が口遊んでうちわではたはたとやっている様子を見たりした。頭を撫でられたり、抱き締めて貰ったり、頬を撫でられて起こされて、うなされてたと直継がやっぱり腕枕をしていてくれて。

 「杖が直ったぞ。」

 縁側に二つの相棒が揃って並んで、片側の足が白木色に戻っていた。手垢や砂や泥や血に汚れても一緒に頑張って歩いてきた相棒は、やはりあの時に折られていたらしい。

 「……アえ? ふ……ぅ゛……うあ……っ……!」

 きっと自分が主人でなければ、折られたりする事なんかなかった。直った杖を抱き締めて幸太郎はまた涙が溢れて止まらなかった。直継が銀鼠の表着でやってきて、隣の部屋でやっている手習の様子など世話してお手本を作ってやったりと回っていた。広い庭の広敷の柱の影が、幸太郎の定位置になりつつあった。

 眠れないから優しい目元には黒い痣が出来て、泣き止まないから色素の薄い瞳はいつも血のように赤くなってい、食べては吐き戻しているからすっかり鎖骨が目立つようになっていた。子供達は大人が疲れていようと悪さをしようと、美しい村の美しい子供達に違いなかった。こうたろうくん、と最初は恐る恐る近寄ってきた。習ったばっかりのありがたぁい昔話を語って、幸太郎は表情こそ少ないが、こて、と首を傾げるようにお辞儀をすれば、子供達はわっと群がった。

 特に弟妹のいる子供は幸太郎に甘く、それこそまるで弟妹に接するようだった。白緒が子供達を嗜めたが、白緒を真似て幸太郎にあれやこれやと構いたがって、かつての自分達はこんな風に大人達から見られていたのだろうか、と思ったりした。足が不自由であるから綺麗な石や貝殻や、綺麗な蝶に羽化する蛹、南国から迷い込んだ黄色い小魚が入った金魚鉢、子供達はいっぱい宝物を見せてくれた。南国の小魚にとって、幸太郎の淡い色の髪は逸れた棲家の珊瑚みたいでくるくる喜んだ。あのらんまは、こうたろうくんの、おちちうえがほったのでしょう? こうたろうくんは、えがたっしゃなのでしょう? しらおくんにきいたの、おれもやって! 子供達というのは本当に容赦がなく、寺の広敷の美しい欄間には腕の良い仏師が彫った鳳凰が飛んでいて、本堂の曼荼羅図など見学してきた日は話を強請って、幸太郎の裁縫道具と謙真が蔵から見つけてきた絵の具の入った硯箱は広間の片隅にあって、子供達は綺麗な刺繍を欲しがったし、絵や書を強請ったりして、与謝野先生もその三人のお弟子さんにも、せんせいはだまっていらして! などとほざいてきゃっきゃと笑い合っていた。

 夕方には子供達は家に帰るし、同じ頃に早めに仕事を切り上げて直継がやってくる。東の村人は、幸太郎の身に降りかかった非道に随分慮ってくれて、直継の仕事時間を融通した。

 「ただいま!」

 「……おかぇりなさ…ぃ…。」

 そしてへらりと軽薄に、幸太郎が微笑むようになるまで、直継の帰還を祝う言葉を言えるまで、どれだけかかったか。杖の足に墨書の花が咲いていた。子供達と絵を描き、お手本を作ってやって、上手く描けると親に誉めてもらうのだ。

 「すっかり絵の先生だな。」

 と直継は頬に飛んだ墨を掬って擦り、もっと笑って欲しいと思った。

 「ごめんなさい……。」

 「うん? どうした?」

 「あの、あちこち汚してしまって……。」

 「悪いことなんてあるか。」

 「そう……なのか知らん……?」

 「おう。……じゃあ、風呂沸かして貰うか。」

 綺麗なお花の描き方を子供達とやったから、未熟な筆や墨で頬をお揃いに汚しており、利き手の手首にも墨がついていた。直継は注意深く幸太郎の容体を探ったが、子供達と遊ぶというのは結構効果的だった。足は効かないけれど書画が達者な綺麗なお兄さんは、白緒達の同輩と聞いて、自分達に変なことは教え込むまいと真っ白な信頼を真白なくしゃくしゃの墨だらけの笑顔で証明し、本当に無垢なものとは何なのか、きっと彼等の事を言うのだ。

 湯の用意を直継は寺の若衆に依頼するため軽々と広敷を渡っていって、真っ青な空が徐々に橙色に紫色の雲を生んだ頃だった。下劣な笑い声を立てる男が、夕方の支度に忙しい時間、人目を掠めてやってきた。

 びくと肩を竦ませた幸太郎は、その男が着物の中で股間を擦っている様子が明らかで、酒にのぼせて真っ黒な顔をして、真っ直ぐにこちらにくると悟った。

 「いや……。」

 微かに引き攣った声が出て、下品に舌を出した男は、大股で幸太郎の前に来て、そのまま痩せぎすの肩を掴み、着物の襟を引っ張った。畳の縁に後頭部をぶつけて目の前が一瞬明るくなって、かはりと言葉にならない音が出た。

 「もういやっ! もう嫌です! やめてっ、やめてやめてやめて! ……よしてぇ……っ!」

 酒臭い生臭い息がかかって、細い腕が震えながらも突っ張って男の胸を押す。頭が痛い、踏まれた足も痛い。膝でぐと腹を踏まれて息が出来ない。

 ーー×××出せ×××、こないだみたいにヤろうや、××たんだろ、泣いてたからなあ、××ったよなあ、足××××させてよォ? 体は×直だ、なあ、なあ、なあ?

 首を舐められ頬を舐められ、ぞわと全身に鳥肌が出て血の気が引いて、痛みに引き攣る体を何とか引きずって、畳に爪を立てて体を持ち上げる。首に吸いつかれて着物の襟から手が入る。痩せた腹をガサガサの手に弄られ、傷が癒えたかどうかもわからぬ脚の付け根に潜り込む。

 「痛い! 痛い! 本当にいやっ! 嫌なの! 嫌です! 僕の体に触らないで! 触らないでっ……!!」

 肩は脱げて、脚も膝裏まで顕になって、腰に押し付けられているものなんて確認しないでもわかる。血が出て裂けるくらい甚振っておいて、気持ちが良かったなどと反吐が出る。どうせ穴しか見ていない。どうせ快楽にしか興味がない。どうせ自分の下に押し込んで支配できる愉悦しかない、本当に情けない人間が、この世にはいるのだと幸太郎は知っている。だって直継はあんなに健気に幸太郎を想ってくれた。幸太郎の体を触って、痛くはないか、気持ち悪くはないか、怖くはないか、幸太郎がしつこく思うくらいに聞いてくれて、幸太郎が接吻けるだけで野菊が咲いたみたいに可憐に微笑んでくれる。

 「僕に触るな!」

 「……幸太郎!」

 触っていいのは、あの健気で強く、優しく熱い男だけだ。激情に任せて怒って怒鳴って、きっと殴ってやろうと思って。視界の隅に直継が走ってくる、それだけで幸太郎は、因業に逆らうことが出来る。

 「アンタさあ、俺んちの家賃、どんくらいか知ってる?」

 ッカアン、と小気味良い音で男の頭が吹っ飛んだ。同輩の泣き上戸、勇之亮は鼻緒が切れた本下駄を肩あたりにぷらぷらやっていて、吹っ飛んだと思われた男の頭は幸太郎の体の上に倒れ込み白目を剥いていた。もう一歩遅れていれば、男は顔面を股間を直継に殴り蹴り潰されて、腕や足の一本折られていただろう。

 「い、さのすけくん……?」

 「なあに、幸太郎。ちょっとその汚物、片付けるから待ってね。」

 彼が振り返ると二人の武家奉公と見られる尻っぱしょりがさっとやってきて、さっと“汚物“を担ぐとさっさと枯山水の庭を去っていった。勇之亮は半身を肘で起こす幸太郎を横目に、鼻緒の切れた下駄ともう一方を沓脱石に置き揃えているうちに怒りで震える直継が我に帰ったようで、安堵さえしたようだった。直継がこの男をぶん殴りたい気持ちは痛いほどわかる。それでも他家の男に殴らせてはいけない。だから勇之亮は軽い調子で下駄を振る。

 「こういうの、俺の役目じゃないかんね? 嫁さんに叱られちまう。」

 「済まない、俺が、離れたから……。」

 「違うって。汚物が全面的に悪い。」

 「助かった。礼を言う。本当に……!」

 「やめてやめて、お辞儀とか本当に柄じゃないの。直継君のが家格は上なんだから、マジでよして。」

 「幸太郎! 無事、か……?」

 ひらひらと幸太郎のほうへ直継を押し返すように勇之亮は手を振って、謙真どこ、鼻緒が切れちゃった、と広敷の隅にあぐらを掻こうとして、騒ぎに寺の若衆が出てきたため、身を翻して廊下に渡っていった。下駄の鼻緒くらい自分で継げるのだ。胸騒ぎがして急いでやってきて、本当に良かった。

 「幸太郎、怪我ないか、痛いとこは……。」

 直継は幸太郎を抱き起こそうと手を伸ばしたが、幸太郎の手は手拭いのかかった盥を引っ張って、背中を数度痙攣させると吐いた。ここ数日は食べても嘔吐してしまうから白湯ばかりで、吐瀉されたものもほぼ胃液であった。

 「うえ゛……ッ、」

 「気持ち悪い目に遭ったな、助けるの遅れて、ごめん……。」

 「ぇえ゛っ……けホ……っ……。」

 熱湯をよく絞った手拭いを謙真が持ってきて、新たな盥に水を張って運ばせた。熱い手拭いで幸太郎は引っ掻くように首を拭い、拭って、拭って、それでも気持ちが悪い。生理的な嘔吐はしばらく止まず、何も出なくなってもまたえずく。

 「幸太郎、やめろ……な? 血が出てる……。」

 「ひっ……ぃ、い~~……っ!」

 蹲るようにして、触られた部分をごしごしと引っ掻いて、惨めで涙が止まらなくて、幸太郎の手を直継の手が覆って、ようやっと自傷が止んだ。それでも何度も擦って真っ赤になって、細かな内出血が増えていた。幸太郎はずっと傷だらけだ。きっとちょっとみんなと体の形が違っただけなのに。

 「こ、こわ、……こわかっ……たっ!」

 「ごめん、一人にして……。」

 「っ、怖かったっ、こわかった、きもちわるかったあぁ……!」

 「こうたろ……っ。」

 銀鼠色の着物の膝に、手のひらに爪が食い込む直継の手に、幸太郎の痩せてなお美しい手が絡む。抱き締めて傷付ける事が何より怖かった。柔らかなくちびるは触れると割れそうで、泣いて歪む甘やかな美貌は直継の手で溶けてしまいそうだったのに。

 「直継君のばかっ! ばか、ばか! 僕は君がいいの、君が好きなのっ。君じゃないと、僕はずっと死んじゃうんだから……!!」

 幸太郎は縋るように直継の膝に額を乗せ、傅くように背を丸め、無防備な脹脛と赤ん坊みたいな踵が引き摺られ、直継の袖にぎゅと皺を寄せ、涙で濡らしていとけなく泣き喚いた。普段は低い体温が、沸騰させたみたいに熱くて、直継がたおやかな背中に腰に手を当て、抱き上げるように腹を抱く。

 「なおつぐくんが、すきなのっ!」

 熱烈なまでの愛情は、潤んだ瞳の中に恋しいひとを目一杯映り込ませて、自分の着物の裾を踏んで転びかけ、転んでしまっても愛しい手が抱き止めて。

 「風呂沸いたぜ。」

 と若住職が顔を出し、今はちょっと、良い雰囲気だから、と酒屋の長男と村唯一のお武家様は慌てて目配せあって、それを察した直継は耳まで熱くなった。

 「大好きっ。」

 そして大好きな友人達に自分の連れ合いはこの別嬪さんだと宣誓するように、幸太郎はくちびるに直継のくちびるをくっつけたのであった。



 ***



 幸太郎の世話に雇い入れた女の子は、幸太郎を湯帷子に着せ替えて、湯船に待機する直継の逞しい体にめろめろになりかけつつ、姫君のように恭しく背中と脚を抱き上げられた幸太郎のようになるんだと、密かに決意した。彼女は与謝野先生から、幸太郎がどんなに優しく秀でているかをよく聞いていて、いつかは会ってみたかったのだ。村の外れに家族もなく細々と暮らしていたのだと聞いて、きっといつか繕い物を教わるのだと改めて拳を作ったのであった。

 「ふわ……あ……。」

 「熱くは?」

 「ちょっと、こんくらいが、すき……。」

 直継の膝の上に深めの風呂に浸かった幸太郎は、衝撃で丸い声が出て、そのままふわふわ泳いでしまえそうな広さで半分くらい恍惚として、くてんと直継の腕に頭を乗せると、湯帷子は金魚の鰭みたいに揺蕩った。直継の膝に座って痩せ細った脚を伸ばし、子供達と悪戯して墨だらけだった腕と頬をとろけるように濯いで、直継の鎖骨の上に慣れたように頭を乗せる。

 「結構、こうたろ、お前さ……。」

 「んう? 好いたひとを好きと言って、何が悪いの?」

 「そういうとこだよ……。」

 直向きで健気で、感激屋。たまに気障ったらしくて、直継はすっかり口説かれた。いとけない頬に愛らしく微笑み、直継の肩に手を伸ばし、きゅんと宝物にするように抱きついて。逞しく鍛えられた体はどこも凹凸さえ美しく、やっぱり幸太郎の体は長く閉じ込められていたから半端に骨が出て丸みがあって、直継のように鍛えられた体は格好が良いと思う。この美しいひとの体に自分の全て、持てる全てで奉仕がしたい。血の一滴まで直継のものになっていい。直継になら何をされたっていいとまで。この身は端から直継のために生まれたのだ。わだつみの荒御魂のためではなく、幸太郎が神様のように思う、直継のためにあった。

 「見るなよ、あんまりこっち。」

 「どうして? 綺麗よ、直継君。」

 「幸太郎だって。」

 「……正直者。」

 膝の上に座らせたかわいい生き物は、やっぱり可愛かった。悪戯にくちびるを色めかしく艶やかなくらい歪めて、直継の形の良い鼻先に、湯船の中に柔らかく開いた花のようなくちびるをてんと押し当て、直継が耳まで真っ赤になってしまったのに、だって愛おしいから、だって好きだから。嫌だと言われない限り、何度だって接吻けたかった。

 「こんな僕でも、抱いてくれる?」

 幸太郎は真摯なほど、真っ直ぐに凛々しい美貌を覗き込む。よその男の下劣で汚されたことを、直継には今度こそ見られてしまった。とっくに知られていても、目の前にその光景が差し出されたことは、やはり致命的であろうか。

 「煽ったの、後悔すんぞ。」

 甘く濁った声に耳を甘く噛まれて、幸太郎は背中をぞくぞくと心地よいくすぐったさがが這い上がってきたことを自覚した。寝間の支度は寺の若衆が整えてくれた。若住職には若坊守さんがいるし、酒屋の長男だって今はお見合いにお見合いと忙しく、武家邸では初孫がもうすぐ生まれる予定である。

 「僕、赤ちゃん作れるのかなぁ……。」

 「んん゛!?」

 寝間には箱膳が用意されており、晩酌まで盥の中に井戸水で冷えていた。広い部屋ではないが、違棚と地袋に布袋の木彫りがあって、丸っこくて可愛らしいなと幸太郎が遊んでいた。布団にころりと入った幸太郎は、痩せて肋の浮く腹を撫でた。

 「直継君の子供、僕は宿せるのかなあって……。」

 「欲しい? 子供……。」

 「わかんない。」

 直継は実家の話こそ稀にしか教えてくれなかった。確かに家を継ぐ嫡男は必要かもしれないが、直継の母の他にも側女はいたし、同じ年頃の異母兄弟だっていた。ただ直継は出来が良すぎた。あまりに出来の良い息子は家を壊してしまう可能性がある。親が継いできた仕事を、ひっくり返しても尚良い政治をやってしまうのだ。

 よいせ、と声をやって幸太郎は起き上がり、痩せた腹を改めて覗き込むように襟を引っ張った。痩せたなあ、と燭台の影に溜息を吐けば、肩に骨張った手が乗った。顎を掬うようにおとがいを抱かれて、凛々しい眦に見惚れていれば、ちゅ……っとくちびるを吸われた。

 布団の上に押し倒されて、膝が妙な角度に行く前に直継は抱いて、するりと太腿の隙間に指を滑らせた。暖かくて柔らかくて、もっと色々食べさせて、食い出があるくらい肥えてくれるといい。まるで食べられているみたいな接吻で幸太郎は背中に一筋汗が出て、するすると脚に腹に鎖骨に首と、優しく撫でられ長い睫毛を思わず瞑る。新雪に足跡をつけないように触れるか触れないか、擽るように何度も何度も優しく。

 好きだと何度囁き合って、可愛いと何度褒めて、ついに言葉を無くして、直継の美しい黒髪はくしゃくしゃになって、幸太郎の淡い色の髪は指に絡んで仕方なかった。




 ***



 信じられないほどよく眠った朝は、白緒が云うには三回朝が来たらしい。直継はいつも通り仕事に出て、早くに嫁がいるんでと切り上げて、幸太郎を腕枕して眠って、また仕事に行って寺の厨番を困らせながら確り飯も食い、今朝幸太郎と揃って目が覚めて、まだ眠り足りなさそうな幸太郎の薄い瞼に接吻をして仕事に行った。明日の朝はきっと髪飾りを結ってもらおうと幸太郎は眠い頭で広い背中を見送った。

 「重湯とご飯、どちらにする?」

 「ご飯にする。直継君のお味噌汁、あるか知らん。」

 「幸太郎君、三日、いや四日ぶりの食事なのだが!?」

 「今の僕なら、空も飛べそう!」

 「止め給え。直継さんが真似をする。」

 まあ直継とて、頑張れば空を飛べそうな男ではあるが。白緒は箱膳に就いた幸太郎に茶を淹れてやり、香の物の音が小気味よい、よく晴れた空を寺の広敷の廣い縁側に見る。

 「前に、旅の学者が来ただろう。」

 「うん、直継君が道中ご一緒で、ああ良いなあ、僕も直継君と旅がしたい。」

 「全く、幸太郎君は昔から惚れたら一途だね。」

 「白緒さんの事も好きですよ。」

 「浮気者。……まあそれでだね、古い話があったよ。」

 寺に伝わった古文書に曰く、物語は紀州熊野に若い山伏が参詣するところから始まる。庄屋に一泊した山伏は、庄屋の一人娘を垣間見る。山伏から垣間見えたということは、娘からも垣間見えたということだ。二人は恋に愛欲に堕ちて、最後には寺の梵鐘の中で山火事から逃げられずに死んだ。重要なことは次だ。曰くことに、娘は自分の足で歩くことができなかったという。山火事の跡地に座り込んで祈る幽霊は、歩けず、這うように動いていた。その姿を哀れに思った仏様は、娘をいざり巫女と呼び、山伏と共に死んだ彼女が、今は山神となって日高川を渡る旅人が無事であるように祈る仕事を与えた。きっと山伏の生まれ変わりがまた日高川に来るだろうと予言して。根本にあるのは、健気な男と女の話である。神になれず人にもなれず、恋に溺れて仏にも見捨てられなかった、鬼にすらなれなかった、悲しい話。

 「この古文書を読んで、幸太郎君をいざり巫女とやらにしたかったんだろう。実際津波は困るからね。けれども天命というものは誰しもあるさ。」

 「僕、死ぬ時は直継君に殺されたい……。」

 「おやめ。直継さんが今度こそ目を溶かすほどお泣きになるよ。」

 恍惚と手を結びそうな幸太郎に、白御はついぞうちわでぴしりとひと吹きやった。

 古文書を読める立場というのは決まっている。文字が読めて、寺の古文書を読んでも棄損したりはしなかろうと信頼され、もしもの時の身元が保証され、その古文書がいつ誰に読まれていたかは住職もまめであるから日記に記したりしてあるだろう。

 「どうする? 幸太郎君が殺せといえば、きっと勇之亮の父上はそう采配してみせるよ。」

 ご馳走様でした、と手を合わせた幸太郎は、白緒の急須を受けつつ、ゆっくり暖かいほうじ茶を飲んだ。今でも紅顔の美少年の面影ある白緒は、憮然とくちびるを結んだままである。

 「直継君と相談するね。」

 「君ねえ、直継さんが殺せといえば……。」

 「彼は殺さないよ。」

 白緒は頭痛を堪えるようでもあったが、幸太郎は今日は少しくすんだ水平線を見て、雨が来るね、と呟いた。

 「直継君は、優しいしとだから、殺そうと思っても殺せないよ。」

 幸太郎の言葉は、しっとりとどこか濡れていて、出来のいい刀で嘘吐きの舌を切るような、それそこ地震の前に微かに水面が弾むような、なんとも言えない不安定さがあった。

 「ちなみに、幸太郎君はどうしたい?」

 「決まってるでしょう。」

 直継は幸太郎の神様だ。生きることがなんなのか、全くわからなくて、自力で立てず、自分で歩けず、ただ這うだけの生き物。金の髪飾りと黒真珠を飾られて、海に捧げられるはずだった生贄は、自分で神様を見つけて自らを奉仕に差し出した。山からの男神だと言われて誰だってもしやと思うくらいに美しい男。

 「生き地獄に落としてやる。」

 幸太郎の微笑みは、戦慄するほど美しかった。


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