一
一
直継はとある藩主の筆頭家老の孫である。実の母は亡く、顔も知らない兄は夭折した。祖父のことは嫌いではないが、父とは考え方が合わず、実家で修めるべく学問と武芸を身につけ、お師匠様方からもう教えることはないと言われた翌日に出奔した。丁度城下に国の各地で民話を収集しているという旅人学者がいたため、一緒に荷物に紛れさせて貰ったのだった。学者はもう少し北国のほうへ行くと言った。
直継は切り立った崖とその足元の白砂が美しい村に着いたところで草履を結び直した。真っ青な水平線、外湾であるから波は高いが、暮らすひとびとの明るさそのもの、海辺に惚れ込んで食客となった。村にやってきた頃はえらく別嬪なお侍が来たと話題になったそうだが、直継は農家の男に気軽に声をかけ、漁師罠が破られて苦心してる女に声をかけ、順調にただの別嬪さんでない事を見せてきた。何せ文武両道、仕事の未熟さは仕事を見せると速攻と模倣は様になる。多くのお師匠様方が手放しであったのは決しておべっかなどではなかったのだと最近になって自覚した。やってきて半年も経てば、修理が必要だがと使っていない小屋に住むかと聞かれ、耕し手伝った米や、地引網を共に引いた魚が届けられ、まあ成程、整った鼻梁に強気な常盤色の瞳に夜闇を纏ったような黒髪の、美しいお侍は然程経たずに村の中腹の小屋に住んでも違和感のない気軽な青年といった風情であった。
ずず、と低い地鳴りの音がしたのは、直継がその村に棲みついて丁度一年目のことである。学者はこの村が海に面した漁村農村であることから、崖の模様を見、庚申塚だか地蔵尊だか道祖神だかを探し当て、庄屋の許可を得て寺や手習所などの言い伝えをさらって回っていた。直継は漁村から少し歩いたところに先ほど醤を貰ってきたところであって、振り返れば漁村は統率されたように舟を漕ぎ出し、女子供は直継のいる丘のほうに走ってきた。
弾かれたように彼は自宅に駆け戻った。朝食に向けて火の用意がある古い小屋は、道具や材料を借りながら改修した自慢の邸宅で火が移りでもしたら大事である。まず火を蹴り消した。次に水路、災害時の応対など父に聞いておいて良かったと、顔を上げれば山の田畑では細く煙が三本上がって、心得たものだと直継は舌を巻く。地力が違う。この浜辺の村は、切り立った崖をきっかけに二分されている。漁村農村側の東側と、寺や手習書のある西側だ。まるで一枚の板を器用に折ったような地形で、両側とも美しい白砂に恵まれ、松の木が瘤瘤と防風に一役買っている。夏場は台風も来る。
「おい、あの小屋は。」
あんなところに小屋があっただろうか。微かに海が引いていると年寄り連中はやいのやいの言っていた。西の村人は、直継の声でびくと肩を竦ませた。小屋と直継は言ったが、あれはそんないいものでもない。掘立小屋か、板と石の集合体か何かだ。
ーー因業だよ。
しゃがれた低い声が、全てを諦めたように言った。
「因業……?」
「あんた、東に住み着いた、流れものかい。」
「そちらには挨拶が遅れたか。いい生活させて貰ってる。」
地震から醤の土瓶をそのまま持ってきてしまった。直継より干支の一周はするだろうか、眉根こそ気弱そうだが警戒心を隠さない男は、学者に手習所の先生だと案内されていた男であった。
「ぼか、与謝野という。」
「直継。」
「ちょいとこちらに、お客人。」
一年経っても客人である。なんだか無性に悩ましい。年寄り連中は南無阿弥陀仏か何かのお題目を唱え、子供達は不安そうに母を見る。若い連中が与謝野の指示で走り回って、避難の完了などを細い煙で報告しあっており、西の山の松林や、東の村外れの林の中の稲荷神社からも細い煙が上がったところだった。
「見ない振りをしてくれ。」
と与謝野は言った。遠くを見た、ひどくつらそうに眉根を寄せて。
「あの子は、因業になっちまったんだ……。」
二人の周りには誰もいなかった。風に流されないように、与謝野は口の中で呟くように直継に言った。それは忠告であり、理由を忘れた教訓、つまり謎の呪いであり、暗黙の了解というものを語る、父の横顔そっくりだった。
波が少し引いた。大波はありそうだ。大波にあの因業とやらを祠に納めて飲み込ませる、そんな儀式があるのかも知れない。
「生憎、俺は古式泳法の免許皆伝でね。」
直継は漁村を走り回って手伝って回って、この辺りの海は温暖であることを知った。崖を包むように外湾があるから波も高い。あの祠と呼ばれる崩れた瓦礫は海に捧げられた供物ではあるまいか。学者は各地にそういった風習があると言っていたし、高所で煙を立てて避難誘導だって、彼の著書には記されてあった。砂浜の瓦礫の中に白いものが蠢いた。風に吹かれたのではない。白砂が泳ぐものではない。
「心配り失敬、俺は行くよ。」
直継の故郷では、直継の足に追いつける者は、師範を含め一人もいなかった。与謝野が落涙したのも見ない振りする程度に、一応の人情があった。西の浜辺は白く、滑りやすい。足が滑らないように草履は解いた。数ヶ月漁村の子供達と遊んで回って、とっくにコツは掴んだし、大波に舟を攫われないように先に沖へ出すのだということも教わった。瓦礫の裾に白いものが確かにあった。砂だらけで、貝殻と流木があって、全く人気のない場所だった。波は微かに引いていた。
「ここで一人で死ぬか、逃げて俺と死ぬか、どっちにする。」
美しい黒髪を海風と汗に濡らし、形のいい顎から汗が滑る。直継が掴んだ板と柱の隙間に、着物を着た何者かは確かに存在した。荒御魂への生贄、南の海の珊瑚のような淡い色の髪に、金色の髪飾り。黄玉色の瞳の、それは確かにひとだった。
***
かさかさのくちびるが蠢いた。
「…ごめんなさい……。」
と、独り言のように細い声を出しながら。
幸い津波と呼べる大波はなかった。しかし直継の全身が濡れる程度の高波はあって、直継は因業と呼ばれる子供とも大人ともつかぬ痩せた体を抱き上げ、前もって近くに舟を寄せてくれていた漁師の親父に引き上げられた。瓦礫は高波に飲まれて完全に跡形もなく、しかし土台らしき石を組んだ跡があったため、やはり祠が発祥と思われた。そしてその中にいた何者かは、直継に抱き上げられてわずかも抵抗しなかった。
「ア゛? 俺じゃなくおっさんに礼を言え。」
「…ぉごっ……ごめ、めんなさ、ぃ……っ。」
着物も全部ずぶ濡れで、冬でなくてよかったとだけ直継は考えて、波が落ち着くまでは海に漂う親父たちは、手拭いやら酒やら用意してくれて、真っ白な着物姿の生贄だったものは、自らの肩を抱いてただ俯いた。じいさんがゆうとった寄らずの祠かいね、と漁村の連中は無精髭をさすって、まさか祠の中にこんな綺麗な真珠のようなものが住んでいたとは信じられない風情であった。崖の上からは何をか叫んでいるが、一刻もすれば高波は落ち着き、舟は村に帰っていく。異様に軽くて、異様に細かった、と直継が手のひらを見ていると、どちゃりと背後で海が跳ね。
「ごめん、なさい……。」
浜辺に傅き、また肩まで海の中に戻りながら、ぼろぼろと泣いている。
「どうした、腰が抜けたか?」
「あっ、ちがぅ……もと、から……で……。」
えらく幼い喋り方をすると思ったが、どうにも感触が違う。この漁村の子供達は真っ白に日焼けして、真っ白な歯を見せて、くしゃっと愛らしく笑うのに。崖の向こうの村人はそんなに陰湿なのだろうか。いやまあ割と陰湿そうではあった。大人というのは案外陰湿だ。
「なんだ、足萎えか。」
着物の裾が泳ぐから、その異様に細い膝の下が見えていた。襟に鎖骨が浮いて、黒真珠の首飾りをしていた。
「捕まってな。」
「キャ……っ!?」
ざぶざぶ海に入って、ざばと軽い体を抱き上げる。海水を飲んだ着物のほうが重いくらいで、着物の中に細い体が泳いでいた。背中と膝に腕を通して抱き上げれば、そのまま飄々と直継は足音も立てずに白砂を渡り、今朝修繕した地引網も軽々道行に整頓し、村の東西を分ける道祖神のところまでやってきた。
「お前、家が流されたけど、どうする。」
黄玉色の瞳は、台風の前の小船のように揺れている。冷えたか怯えかがたがたと震えて、血の気を失っただけでもこんな顔色にならない。
「俺の家に来るか? つっても、俺だってまだ流れもんらしいけど。」
精悍で凛々しく見えた青年は、くしゃと子供みたいに笑った。朝食がまだだ。この騒ぎでは夕方の作業もそぞろだろう。きっと心配しているものがいる。乱れた足音が一つやってきて、直継が応と手を挙げ振り返り、黄玉色は長い前髪に俯いて隠れてしまった。
「ありがとう、直継君。」
息咳切った与謝野は、咳をする風に礼を言い、膝に手を置く振りをして直継に向かって深々と頭を下げた。黒い顔をした老人たちが、丘の上から白目黒目と異様にぎょろぎょろと直継たちを見下ろしていた。
ひとまず濡れた着物はどうにかしなければ、腹も減った、と頭を掻いた直継に、新たしい着物と握り飯が届けられていた。直継の家は六畳ほどの藁や農具を仕舞っていた倉庫を改装したもので、土壁も自分で仕上げたし、梁の歪みも自分で直した。多少の地震では崩れることもなかった自慢の邸宅である。竈は元からあったから、季節によって使い分けられていたと思われる。火を起こし直して生水を煮沸して、布団は綿と藁を古着で包んだものを使っている。筵を下げていた出入り口は、風が強い時期には敵わないから船大工に板戸を拵えて貰った。
「飯は? 醤があるから、魚貰って刺身にするか?」
そんな直継の自宅の隅に、いまだに濡れた着物で丸くなっているのは足が効かないからで、筋肉などないがりがりに痩せていて、夜の猫の目のように、その美しい瞳だけが輝いていた。
「粥にすっか。」
匙で取り分け、湯を足してことことやっていれば、どうにも戸板の向こうが騒がしい。海の男の騒がしさでないし、山の男の足音でもない。しかも先程会った時は、家財の確認で今日は休みだと呵呵大笑だった。辛い時に大笑いできるこの村のひとびとが、彼は好きだった。家の中だけが異様に静寂を揺蕩えており、悪戯でもあるのかと直継は戸板を蹴った。一歩怯んだ気配がしたからぎちぎちと戸板を滑らせると、髪を切り揃えた青年が立っていた。手には風呂敷を持っていて、辛うじて直継の家に今から訪問の合図をするところであった様子になっている。
「なんだ? 立て付けが悪くてな。客か?」
紅顔の美少年と呼んでいい青年は草原色の風呂敷を抱きしめ、大きなまなこを思い切ったようにぎゅと持ち上げた。直継の精悍な美貌と違い、なかなかの睨み合いである。
「よしなさいよ、白緒。お礼を言うなら兎も角ね。」
こちらは声ばかりはすっかり成熟した青年だった。鳶色の髪を摩る逆の手には瓶を数本下げていた。
「兄さん、こいつだけでも入れてやって。幸太郎の……。」
「こうたろう。」
「うん、あんたが攫った海への供物。幸太郎っての。」
飄々とした風情でまた一人、短く刈り込んだ頭と良く熟れた稲穂か宵に見る一番星のような瞳が幸太郎とよく似ていた。正直者だと直継の直感が告げている。丘の向こうからはあの黒い視線の気配がある。入れ、と直継は短く告げた。
「こう……幸太郎君だろう? 僕のことを、覚えて?」
幸太郎と呼ばれた生き物は、頬はこけて髪もざんばらで、そんな中に金の髪飾りなど黒真珠など飾っているから余計に異様なものだった。白緒は家の中の暗い所に隠れるようにして肩をびくつかせた幸太郎を、迷うことなく抱きしめて、その肩に痩せ細った顎を乗せると、感極まって幼い背を振るわせ、声を殺して泣き出した。白緒は健気に嗚咽を堪え、ついに痩せて余計に大きな印象のある眼球がぼろぼろと海に溺れて、次々流れた。痩せぎすから人間らしい動作が出てきて、むしろ直継は安堵した。
「んで、何。酒と飯ならある。着替えもある。」
「堅いこと言うんじゃないよ、直継君。お酒は飲む?」
「かなり。」
「オーケー、俺は勇之亮。泣き上戸。」
「俺は謙真な。ちな絡み上戸~~。」
「どっちもだりぃな?」
泣きすぎて引きつけを起こしそうになった白緒を二人は落ち着かせ、今日の騒ぎでしばらくはうるさいだろうが、上手く口が回っていない幸太郎の名前が知れただけでも有難い。今度は寺の広敷を使って飲み会でも、なんて景気のいいことを言って彼らは去った。
「おい、幸太郎。」
「……はい。」
「粥、食えそう?」
着替えだと渡された着物は甘やかすような砂色で、草原色の風呂敷には深緑の襟や四君子の帯も入っていた。もそもそと着替えて掘立小屋という瓦礫の中でそうしていたように丸くなる。野生の獣みたいだなと直継は思った。匙に一口冷ましてやって、半口行儀悪く啜った。ひとつまみの塩がいい仕事をした。君子厨房に入らずとはいうが、彼は厨仕事だって大好きだった。そのまま直継は幸太郎の顎を捕まえ、かさかさのくちびるをくちびるで覆い、親指と中指を頬に押し込み顎を開かせると、雛鳥にやるように舌で粥を流し込む。肉が薄いからか体温は低く、あちこち不健康な痣があった。
「…ぅん゛う……ぅ……ぎゅっ……っけほ……っ。」
「まずい?」
「……んう……っ。」
口移しで餌付けをするのは人間の作法でないとういうことは、幸太郎も知っているらしかった。器の半分で勘弁してやって、痩せた体では座っていることも辛かろうと、すっかり直継は幸太郎を抱き上げて寝床に入れてやり、もう随分暖かい季節ではあるが、温石を出してやった。海に随分浸かっていたから熱が出るであろうという見当もあった。朝の日の出とともに直継は起きて仕事に行く。手伝いが欲しい時、完全に彼の体は先着順の労働力となる。褌一枚で男衆で笑い合っていても、あらいやだあと女衆が揶揄う、そんな人々の中で働くのは、正直好きだ。孤独な時間だって勿論好きだけれど、直継は誰かの隣が好きだった。ご家老様と傅かれるより、そこらの気のいいお侍さんでちょうどいい。郷里の親友こそたまに会いたくなるけれど、新たな土地で新たな世界を見つけるのだって楽しいものだ。朝食には昨日に差し入れられた握り飯で、今朝にどこからかまた量が増えていた。幸太郎の身内からだろう。
自宅に帰ると農地から引いて貰った水路から水を汲み、熱が出た額に手拭いを置く。手拭いやら端切れは、余っているからと田んぼの女将さんがくれた。狭い土地であるから事情なんてみんな共有の秘密で、つまりは内緒というのは全員が知っているということだった。あえて口に出さず察してやる情がある。船大工にこう言ったものは作れるかと相談し、ならばこういった材料が必要だという話になった。
「幸太郎、足を見せろ。」
「……ぅ? ……はい?」
熱が引くまで随分かかった。きょとんと首を傾げる幸太郎は、一日二回しっかりした量の粥を食わされ、痩せているが悲壮感は随分減った。幸太郎の脚は骨と皮だけということはなかった。踵は発達せず足の指も白いまま、微かな傷は這えば誰でも経験する怪我だ。膝の辺りから急に痩せていて、膝で這っていざる事が精一杯か、と直継は眉を寄せた。
「足首、上げて。」
「……んっ。」
足首は少しは曲がる。足の裏は不気味なほど白く、けれど足の指は張らない。
「これは、生まれつきか?」
「ん、ん……ぅ?」
「いつから歩けない? 歩いた事がない?」
「…ぁ、ある、い……て、なぃ。」
舌足らずは訓練だ。熱が下がってからは自分で噛んで嚥下もできるし、喉が渇いたと訴えたこともある。
「神経か……? 痛かったら言えよ。」
武芸の師範は医術も心得ていたから、もしも戦で体をやられた時どうするかという議論もよくやった。特定の部位を叩くと、その場所に連動した部位が跳ねたり折れ曲がったりと反応するのだ。これが幸太郎にはない。全体的に氷のように冷たい。幸太郎の証言を信用するなら、神経を生まれつきか、はたまた出産時の事故か、亡くしてしまったのだろう。こうしたものは神聖視されやすいと教えてくれたのは旅人学者だったか、村に一人はこうした無垢のものがいて、神事につかわされたりしたのだという。だから因業と村人は呼んだのだろうか。そうして海への供物にした。口減しの別の名称だ。
「…あったかい……。」
「うん? 俺の手か?」
「ン……おてて、おっきくて、……ぬくい……。」
「かわいいな。おいで。」
チチチ、と野良猫でも呼ぶように直継が手を広げると、幸太郎は膝でずるといざって、青白く萎えた足を無防備に引きずって、直継の首筋に細い腕を回すとそのまま直継の胡座の中にちょこんと座った。
「……は……?」
こうでしょう、とばかりにやっぱりきょとんと首を傾げた幸太郎は、凛々しい眦が真っ赤になってまんまるになって、それでも条件反射のように幸太郎の背中を抱いてくれるから、よくもまあ。首筋の鼓動を聞くように幸太郎は直継の鎖骨に首を傾げるように乗せ、気持ちよさそうに目を閉じた、長い睫毛がおとがいにあたって擽ったかった。
与謝野の言を信じるのであれば、生贄には生まれながらに定まったものではないらしい。直継のように、おいでと呼んでくれる親がいる、あるいはいたのか、胡座の上に痩せて骨の出た華奢な生き物は、嘗てはきっと、抱きかかえるかいなが、絶対に存在したはずだ。
「なおつぐさん、おまるをちょうだい……。」
「お、こっち来い。連れてってやるから。」
食事が出来れば次は排泄である。城から出て直継が弱った唯一が便所である。ご不浄という概念はあれど、それ専用の建築物は市井には未だ少ない。真っ白な爪先が蝶々みたいな真夜中で、幸太郎は耳まで真っ赤になって直継に抱きついた。数軒行った先の便槽とも呼べない溝に連れて行き、着物の裾を捲ってやる、頭の中では上手くいったが、膝に着物を挟んでしまって、随分汚した。
「悪い、今のは俺が悪かった。」
「ご、ごめんなさいっ……。」
「幸太郎が悪いんじゃない。便所が遠いのが悪い。」
「……へ……ぅ?」
暗闇の中を小便で湿った独特のにおいと共に帰る事となり、おまると幸太郎は言っていたから、確かに屎尿瓶はあれば便利かと直継は幸太郎の背中をぽんとやる。必死に嗚咽を堪えていて、羞恥から体が熱くなっている。火を叩き起こして湯を作り、温かい手拭いで動かない足を拭いてやる。着物と褌をほどき、直継も汚れた着物を脱いだ。
「い……やだ、いや……っ。」
「拭くだけだ。」
「…ぃいぃっ、ヤ!」
「恥ずかしくないから……。」
野良猫だって糞の世話をもう少し人間にやらせるだろう。細い腕が突っ張って、手拭いが冷えないうちにやっておきたい。かぶれて傷になる。幸太郎は痩せ細った膝を震わせ、がたがたと視線を泳がせ首を振る。羞恥で混乱して暴れるとはまあ年頃の反射ではあるが。
「痛かったら止める。俺が痛くしたこと、あるか?」
「にゃいっ! ないっ。……やぁあ……やだっ!!」
月明かりが差した。次の雨が来る前に塞がなければ酷いだろうなと直継が考えていた所だった。ぺったんこどころか肋の浮いた腹に、着物越しに帯が擦れた痣がある。肉が薄いから血管が傷つきやすく内出血があるのだ。白い肌に産毛が輝いて、足が効かないから骨っぽい腕で精一杯直継の肩を押す。
「いやっ……いやです……いや……はなしてはなしてっ……痛いのいやですっ。」
「……ちィっ……。」
美しい黒髪を引っ張られて、直継だって堪忍袋というものがある。それも全く短い緒だが。幸太郎の骨ばかりの上半身を肩の上に乗せ、腿の内側に手拭いを握る手を通す。もうすっかり冷えかかって、冷たいのが痛々しい。
「お前ねえ……俺だってちんこなんて見慣れてんだよ……。」
自分の逸物となんて何度面会したって感動的なものでない、と揶揄うように言うはずだった。直継の手を挟む痩せた腿は、それでも筋肉の腱がどのように通っているかが見えた。そしてあると思っていたものはなく、ふに、と柔らかな感触だけがある。これは果たしてなんだ。
ーー因業。
因業だと村の年寄りたちは言っていた。足が効かないことなんて瑣末なことだ。自分が抱き上げて運んでやればいい。幸太郎にはペニスがなかった。嫌だと泣いて暴れる本人を前に、ヴァギナが存在しているかを探れるほど、直継はひとでなしではなかった。
「ごめん……。」
「ごめんなさいっごめんなさい! そこは痛いの、いたいの、ほんとうに嫌なの! ほんとうにいやなの……っごめん、ごっなっ……さい……いたいことしなひえ……っ!!」
「ごめん、幸太郎、何もしない、痛いこともしない。痛いことなんてない。」
「っやだ! やだ! やだ! たすけて……ったすけて、たすけ……っ……ヒュ……え゛ふっ……コッ……いや…いやっ……ぁすけ……っ……ゲホっ……。」
おとっちゃん、と幸太郎は確かに言った。男の名前で男のしるしを持たずに生まれた。父親に縋って逃げたかった、逃げられなかった。因業、共に育ったとみられる友人が、こっそりと会いに来て、抱き縋る、しかし共には帰れない。直継と共に来て、直継と死にたい、だから幸太郎は直継の手を取った。
「ごめん、な……っ。」
「ごめんなさい……。」
涙が出そうになって、直継は幸太郎の頭を包み、己の首筋に涙が流れ、耳元で叫ばれて、それでも優しく、努めて優しく幸太郎を抱きしめる。嗚咽し咽せて、引きつけるようになって、背中を撫た。何に謝っているのかもう直継は判断が出来ず、怯える幸太郎は謝りながら拒否をする。ごめんなさい、ごめんなさい、何か悪いことをしたのだろうか。小便を漏らしたとて、それを拳骨で叱る大人はあれど、何度も謝らせるのは親でない。子供を支配したがる子供がやることだ。
幸太郎はちいさな咳を繰り返し、やがてくてんと気絶した。直継は幸太郎にしっかり着物を着せて、冷たい爪先を温めるように抱きしめて眠った。
***
幸太郎が生かされて一ヶ月が経った。宮大工と船大工が腕によりをかけて作ったのは、脇に挟む布を付けた杖である。直継が何度も何度も実験はしたが、結局は幸太郎と最終調整させろと言うことになった。全く田舎の者の思いつきとは面白く、特に船大工なんてあくせく働き動き回るのが大好きで、こんなものはどうだいと、日に三度も四度も直継を訪ねてきてくれるほどだった。宮大工はそれに比べれば腰は重いが、一度これだと思いつくと、それらを応用して幾重に設計をして行って、厳重な試験を何度も繰り返す事が苦でなかった。そんな二人に頼んだのだから間違いなんて起こるとも思わず、実際上手く行った。
不自由な爪先に纒足のような、意味としては全くの真逆に布を巻いた。股関節が未熟ではあるが動く。爪先を張れないから、杖の方を張れるようにしよう、と宮大工が鳥居の楔を天啓にいくつか拵えた。その場で丈を調節し、脇に挟むのであればどんな素材がいいかは書き付け、漁師用の網などどうだと提案しては却下して、提案して提案して、採用していた。
直継は直継で幸太郎が直継の肩に抱きついて方々と行ってみて、幸太郎の腕は細いけれどそこそこ形になった。漁師網を繕ったり、着物を繕ったり、足が効かなくてもやれることはいっぱいある。
ある夜の恐慌は、あの後三度あった。暗いところで男の前に裸体が晒されると言うのが条件のように直継は考えた。察せないおぼこでもあるまい、しかし丘のこちらは全く違う好奇心で幸太郎を見た。丘を挟んで向こう側の年寄りがやっていた供物遊びを、丘のこちらでは全く知らない様子だった。そんな夜は直継の着物に包んで、余計な考えや物を見ないようにして、自傷を始める細い手が酷く美しいことに気がついた。嫋やかに見えて、案外骨張っているのは痩せているというより、基礎の骨作りが男の体であるからだ。肘の位置は直継と同じように高く、着物の帯を結んだ下は尻も小さい、というよりは骨盤が狭い。
白緒たちはまめにやってきた。新たしい着物や履物、南蛮菓子など持ってきて、東の外れの稲荷神社で語らってきた様子である。様子であると言うのは直継は境内に座す四人を少し離れた鳥居の足元でカステラボーロを頬張り、解散というところで幸太郎を抱き上げるまで、意識して他所を向いていたからだ。幼馴染とでもいうのか、謙真の家が寺で、勇之亮の出は地頭の分家で、白緒の家は酒屋である。与謝野を手習所の先生として、彼らは幼い頃からいろはを隣り合って習っていたのだという。
「こうたろ、お前の家って、どんなん?」
「んっと、前は山で……、」
「山にあった?」
「ん。おとっちゃんが、ええと、……っこし?」
「引っ越した?」
「うんっ。それで、ええと、荷物いっぱいで……ぼく、これだから、おかっちゃん、が、駄目んなっちゃって……あ、あのねあのね、弟いた。」
「弟が町にいる?」
「わかんない。」
とくん、とくん、と直継の血潮の音を聞きながら、直継の黒髪を触って、直継の襟に睫毛を押し付けて。幸太郎はとっくに自分の昔を捨てたらしかった。家族がいるものを生贄とは呼びづらい。村を追い出された可能性だってある。誰が奪ってしまったのか、奪われてしまったのか、幸太郎は多くは語らなかった。
「探しに行くか?」
直継の声に、幸太郎は首を横に振った。
「会いたくはない?」
直継の声に、幸太郎は首を縦に振った。
幸太郎の動作に、直継は少しだけ立ち止まって、黄玉色の瞳が滲み、それを隠すように伸びた前髪に、ゆっくりとくちびるを押し当てた。まるで子供みたいだった。まるで全てを悟った即身仏のように瓦礫の中にいた。野生の獣を懐かせるような食事をして、失敗もしたけれど、幸太郎の尊厳は出来る限り直継は抱きしめてきたつもりである。最近は直継が着替えていれば、膝でいざって帯を渡してくれるし、寝床で冷たい足を足に挟んでやれば、照れ臭そうに可愛らしく微笑む。草鞋を編み直したり、草履を編んだら銭になるのではないかと村人に言われた。きっとずっと、そうして幸せに生きて幸せに死ぬ生涯があったのに。
「えへ、へ……。」
直継に接吻けられた前髪を、幸太郎は嬉しそうに撫た。宝物だった。宝物になった。
「つえ、杖、嬉しい。」
「使えるかあ?」
「使う、つかうもん。使えるもの、僕にだって。」
「どこに行きたい?」
「がけのうえ。」
よ、っと直継は丹田に力を入れて、普通の半分程度の体重しかない幸太郎の腋下に手を入れ、直継の頭より高く抱き上げた。夕陽に明るく照らされて、足の骨と骨とがこつりと黄金の琴でも弾いたみたいな音がする。綺麗な奴だとしみじみ思う。浮世離れした椿の向こうに消えた伝説の比丘尼のような美しさが、直継には健気で堪らなかった。
「好きだ。」
幸太郎の顔が赤いのは、夕陽のせいだから、きっと自分も真っ赤なんだろうと、直継は思った。夏の夕方の疾風が、二人を抱きしめて、海からの風は少しも辛くなんてない。
「直継君。」
「俺は、幸太郎が好きなんだ……。」
「なおつぐくん……。」
「好きだって、言っちまった……。」
虹彩の中に混じった常盤色の凛々しい瞳が、迷子の子供のそれのように揺れている。幸太郎がどんなふうに生きて扱われて踏み躙られて、見捨てられようとしていたのか、それも全て抱きしめて綺麗なものも汚いものも全部全部、全部が愛くるしくて堪らなかった。
こてとちいさく首を傾げた幸太郎は、直継の肩に蝶が留るような重さで指先を置いて、また、こてんと首を傾げた。
「おろして。」
「あ、ああ、いやだよな、ごめん、そこに座るか? 気持ち悪くは……。」
「支えて。」
「はいっ!」
襟を掴んで、ぐいぐいと引っ張ることが出来るくらい、そうして悪戯するみたいに笑うことが出来るくらい、幸太郎だって直継に救われた。斜面を岩や小石で整備した道の傍に座るかと問うた直継に、幸太郎は口を挟む事なく告げる。
爪先が地面について、足首はやっぱりいうことを聞かなかった。痩せていくのは痛くて痛くて、足の間にいろんなものをねじ込まれて痛くて痛くて、ひどく痛くて。足の裏でじゃりと砂をふむ感触でさえ、直継がくれた。
「ここ、これ。」
「この高さ?」
「かんぺき。」
必要な時に必要な栄養が貰えなかった幸太郎の体は、やっぱり直継に比べたらちびで痩せっぽちで、こうして腹を抱いて貰わないと立つことさえ出来ない。直継の頬に幸太郎は手を伸ばし、凛々しい美貌をむにと挟んで、ぐいぐいと熱いほっぺたを撫で回して、ふへと不恰好な笑い声が出て、精悍な頬に形のいいくちびるに、きっと神様というのはこんな顔をしているんだと、思って。
襟を掴まれ顎が下に出た直継の、くちびるを少し避けたところに、柔らかで暖かい接吻は出来たかどうか、思わず強く瞑ってしまった幸太郎は、長い睫毛を震わせた。熱に潤んだ黄玉色の瞳が次に見たのは、美しい黒髪の一筋一筋の煌めきだった。脇から背に後頭部をしっかり抱いて、鼻が歯が当たらないように顔を傾けて、真実こうするのだと教えるように薄い瞼が震えていた。
「んあ……、」
微かな喘ぎ声が漏れた。まるで世界に二人だけになった気分で、家に隠れるようにして、寝床に雪崩れ込むようにして、隙あらば接吻をして、互いの顔に触れていないところなんて眼球くらいのもので、
「鼈甲飴みたいで、うまそ……。」
「にゃあんッ!」
悪戯にやだやだと肩を竦めて、最近よく上がるようにあった腿で蹴る。幸太郎の膝下は動かないけれど、股関節と腹筋はそれをフォローできるようにして直継は運動させている。金の髪飾りが揺れる淡い色の髪はたつぷり太陽の甘い香りがした。
「なおつぐくん、直継君……。」
恍惚と呼んでくる通りのいい甘い声が、徐々に掠れて囁くだけになる。直継は幸太郎の体を抱いて汗の香りを擽って、しつこく接吻けて、ぺったんこの胸は襟からはだけ、帯が邪魔だった。身体中が心臓になったみたいに熱くて破裂しそうになっていて、直継は真っ白な胸に触れ、切なそうに常盤色の瞳が潤む。
「やめないで……やめないでね……ッ?」
「ばか……止めらんなかったら……。」
「いや。して。 好きなんでしょ? してよ……。」
直継の哀願とも呼べそうな震える声を、幸太郎こそ制した。未熟で半端な体に欲情できるかと果たして体に聞けば、直継は意図して幸太郎から体を離した。直継の襟を引っ張って、いつも抱き付く首筋は、明日の朝には抱きつけないかもしれない。確かな弾力を下腹に受けて、幸太郎は努めて直継の胸に顔を埋め、この香りはなんだろうと小さな鼻を動かした。つんと鼻に抜ける薄荷のような美しい匂い。
扇形の睫毛を震わせる直継が着物の裾を手繰った。もっとふくよかな体がいいのだろうかと眉を下げていれば、紐を解かれ足に濡れた布が絡まった。甘い海のような香りがした。
くちびるを指で拭って舐める直継は残酷なくらい色っぽくて、幸太郎はすっかり蕩けた。直継が手と手を合わせるように握り込んだだけで嬉しくなった。そうするのが当然のようにくちびるを合わせ、舌先を絡めて涎がはしたなく垂れて弱った。
最初の頃は幸太郎はいつも弱々しく怯えて詫びの言葉ばかりを呟いていたな、と直継は熱っぽく見つめてくる上気した頬を撫でながら、幸太郎が甘えてくるのが兎に角嬉しかった。
***
杖が完成して、それらを微調整しつつ、歩行訓練や按摩を幸太郎は根気強くやった。元が感激屋の少年であるからと幼馴染達は微笑ましそうに見守って、直継のほうこそ過保護になってしまって、
「君は僕のおとっちゃんか!?」
としたたか叱られた。爪先は地面に擦れて細かい傷が絶えなかったし、膝も顔まで擦りむいて、与謝野から預かった酒や包帯や手拭いを幼馴染達は差し入れる。夜に甘い運動もするから徐々に体力だってついてきた。声が枯れなくなった。直継が満足するまで抱きついていられるようになった。惚気か自慢か結果報告か、まあどれでも馬に蹴られる前に放っておけという話である。
因業だと白い着物に黒真珠を飾られて壊れた祠に納められていた青年は、今日にようやく、直継にあとを追わせて切り立った崖の上に自力でやってきた。腕にも脚にもしっかり肉がつき、魚は勿論、働き終わった役牛や罠にかかった猪肉を薬だと言って持ち寄ってくれた村人がいた。けれど道を行けばたまにそそくさと逃げるような連中もいて、しかし幸太郎が海への供物と成った経緯を痛ましく思う者は、よくぞと抱きしめてくれた。幼馴染がしきりと直継が嫉妬するほど訪ねて来てくれて、昔を語り合って、随分幸太郎の言葉も戻った。幸太郎の家族も直継が本気で調べれば、行方が知れそうな程度に情報も徐々に集まってきた頃だった。
「直継君、ここから落ちたら、絶対死ねると思わない?」
「十中八九、死ぬなァ……。」
「僕はね、あすこから、ずっと、ここを見てたんだよ。」
あすこ、とかつて幸太郎の棲家があった掘建小屋だか瓦礫の山だか壊れた祠だか。果たして指差してみて、あすこだったよね、と幸太郎は首を傾げたが、直継は確かに大波が来る前に、あそこにいる何か得体の知れない白いものを、確かに助け出さなければと、思ったのだ。
「幸太郎、俺さ、一回帰ろうと思う。」
「ええっ……いやだぁ……。」
離れ難くて思わず言った。そんな風情の幸太郎に、ふはと直継は吹き出した。相変わらず可愛い生き物だ。
二人の出会った浜辺から、彼が生贄だった日々から、彼が流れもののお侍だった日々から、そんなにも経っていない。けれども幸太郎の精神状況は、直継と暮らしていく中で劇的に回復した。反射的に謝罪が出そうになるものの、恐慌状態だって自力で自我に帰ってくれるくらい好転した。直継に抱き上げられながら直継と喧嘩だってするし、明確な意思表示だって出来るようになった。幼馴染に言わせれば、昔に戻ったそうであるが。
「ここから飛んだら、絶対死ねるって、思ってた。」
「ああ、そんなツラ、してたよ。」
「ねえ直継君。」
「なんだ、幸太郎。」
海風が淡い色の髪を嬲って、美しい黒髪が風に舞う。
「僕は、君の故郷まで、歩いていけると思うかい?」
「さあな。」
薄情なまで、直継は幸太郎に言った。
「俺が抱いていくから、考えたこともねえや。」




