アシュベリー公爵
王都の片隅で、アシュベリー公爵家の屋敷は静かに朽ちようとしていた。
かつては客人で賑わった広間も、今では火を落とした暖炉と色褪せた絨毯が残るだけだった。
執務室で一人帳簿を睨んでいたアシュベリー公爵は、使用人から最後の希望として呼び寄せた人物の到着を知らされ、重い足取りで応接室へ向かった。
静かに扉が開く。
通された女を見た瞬間、公爵の顔色が変わった。
「……セレナ⁉」
信じられないものを見る目だった。
だがセレナは微笑んだ。
「お久しぶりです、お父様」
その後ろには、半ば無理やりに護衛役を買って出た王都守備隊の騎士ルークが立っている。
公爵は呆然としていたが、やがて何かに縋るように立ち上がった。
「そうか……そういうことか」
掠れた声が震える。
「お前が『梟』だったのか……」
「ええ」
「ふっ……はは……はははは!」
公爵は大声を上げて笑うと、己が両手を見つめた。
「なら助かる。私はまだ終わっていなかったのだ……!」
その言葉に、ルークの眉がぴくりと動いた。
「フレオニールさえ排除できれば立て直せる。あいつらの妨害がなければ、私がここまで追い詰められることはなかった……!」
そして、公爵は父親の顔で娘を見た。
「頼む、セレナ……家を救ってくれ」
セレナは数秒だけ沈黙した。
それから、あの作り物の笑顔を浮かべて答える。
「依頼内容は承りました」
その瞬間、公爵は安堵したように息を吐いた。
懐かしい娘の声。
セレナは、王都の誰よりも優秀だった。
だから今回も何とかしてくれる――。
公爵は、そう信じて疑わなかった。
* * *
数日後――。
信じられないことにフレオニール侯爵家はその影響力を失った。
密輸、横領、買収……。
積み重なった不正の証拠が王家に届けられ、公爵家の対立派閥は、たった一夜で瓦解してしまった。
アシュベリー家の最大の障害は消えた。
そしてセレナは、再び騎士ルークを伴い、実家を訪れた。
「依頼は完了しました」
テーブルの上に報告書を置く。
伯爵は何度も書類をめくり、興奮した声を上げた。
ルークはその姿に嫌悪感を抱く。
「終わった……本当に終わった!」
顔には久しぶりの笑みが浮かんでいた。
しかし、その笑みは長く続かない。
「ただし――、アシュベリー家の負債は残っています」
公爵の表情が固まる。
「侯爵家による妨害は排除しました。しかし、負債そのものは、また別の問題です」
「……待て、セレナ、何を言っている?」
「事実を申し上げただけです」
「待てと言っている!」
公爵は机を叩いた。
ルークは思わず身構えたが、セレナは無反応だった。
「お前なら簡単に消せるだろう⁉ なぜ消さぬ!」
声が裏返る。
口角に泡をため、公爵は捲くし立てた。
「債権者を黙らせることも、帳簿を消すことも、証拠を潰すこともできるはずだ!」
「ええ、できますね」
セレナはあっさり認めた。
その返答に公爵は身を乗り出した。
「なら――」
「ですが、できかねます」
静寂が落ちた。
公爵は理解できない顔で娘を見つめる。
「なぜだ……?」
「なぜと申されても、契約外ですから」
「契約……?」
「私は依頼された仕事を完了しました」
感情のない声だった。
「あとはアシュベリー家の問題かと」
公爵はしばらく呆然としていた。
やがて唇を震わせる。
「セ……レナ……」
その声は怒りではなく、焦りだった。
「違うんだ……セレナ、あの時は仕方なかったんだ……」
セレナの瞳がわずかに揺れた。
ルークがセレナの顔を横目で窺う。
公爵は必死だった。
「家を守るには……他に方法がなかったんだ!」
席を立ち、セレナの足元にすがりつく。
「……わかってくれ、セレナ! 私だって苦しかったんだ!」
震える声で必死に続ける。
「父親として正しかったとは思わない。だが当主としてはあれしかなかったんだ!」
それは言い訳だった。
けれど公爵にとっては本心でもあった。
あの日――。
彼は娘ではなく家を選んだ。
そのことを後悔していても、間違いだったとは認められない。
認めれば、己が人生そのものが崩れてしまうから。
それだけは認めるわけにはいかなかった。
「だから頼む! この通りだ……!」
公爵は頭を下げた。
「他に何も望まない……最後にこの家を救ってくれ!」
長い沈黙が流れた。
セレナは父親を見つめている。
何を考えているのか分からない。
ただ、ひとつだけわかることがある。
今の彼女なら本当にこの公爵家を救えてしまう。
負債も。
没落も。
全て。
それだけの力を梟は――いまの彼女は持っている。
だからこそ、次に紡がれた言葉は残酷だった。
「セレナ……! お前は家族を見捨てるつもりか⁉」
その声が屋敷に反響した。
ルークは思わずセレナを見る。
彼女は黙っていた。
笑顔もない。
怒りもない。
ただ、いつもの微笑みを浮かべ、伯爵を見ていた。
ふいに、セレナは小さな口を開く。
「私も、家族だったはずですが」
公爵の顔から血の気が引いた。
セレナはそれ以上何も言わない。
責めない。
非難しない。
過去を語らない。
ただ静かにそこに座っていた。
その沈黙が何より重かった。
公爵の脳裏に忘れていた光景が浮かぶ。
すべての罪を押し付けられた娘……。
その助けを求める目に、背を向けた自分。
これが正しい選択だと自分に言い聞かせた。
この選択ができてこそ公爵の器なのだと、保身のため、実の娘を切り捨てた、あの日の光景が……。
「あ……あぁ……」
公爵は力なくうなだれた。
娘は何も求めない。
許しも、謝罪も、弁明さえも。
すべて終わったこととして扱っている。
自分がこの手で追い出したのは、実の娘セレナだった。
だが今ここにいる者は違う……。
王都の闇に生きる『梟』だ。
あの日失った娘は、もう二度と戻らない。
それが理解できた瞬間、公爵は言葉を失い、その場に座り込んでしまった。
* * *
屋敷を出る頃にはすっかり夜になっていた。
公爵家の門を抜けようとした時だった。
「セレナ」
ルークが呼び止める。
彼女は立ち止まった。
「何でしょう?」
振り返った顔には、いつもの笑顔が戻っている。
ルークは拳を握った。
あの顔を見てしまった……あの空っぽの瞳を。
だからもう見過ごせない。
「もう、一人で背負うな」
セレナは何も言わない。
「帰る場所がないなら作ればいい!」
ルークは熱のこもった目で、真っ直ぐに彼女を見つめた。
「俺……いや、俺たちがいる!」
冷たい夜風が吹きぬけた。
セレナは、遠くに見える歓楽街の明かりを見つめながら、しばらく黙っていた。
ルークはその横顔に、いまにも消えてしまいそうな儚さを感じた。
やがてセレナが小さく吹き出した。
「ルークさんって、お優しいんですね」
「お、俺は本気だぞ!」
「そうなんでしょうね……」
そして彼女は視線を落とした。
たった一瞬、ほんの一瞬だけ、誰にも見せたことのない弱さが垣間見えた気がして、ルークは心臓を鷲掴みにされたような気持ちになる。
「でも――」
彼女は首を横に振った。
「ごめんなさい。私には向いてないんですよね」
眉を下げて笑う。
「セレナ……」
「誰かを信じるのも、誰かに寄りかかるのも……」
そして、ルークの目をガラスのような瞳で見据える。
「幸せになるのも」
「……っ⁉」
ルークは言葉を失った。
何か返さなければならない。
だが、何も見つからない。焦りから全身が冷たくなった。
必死に言葉を探す。
だが、どんな言葉もこの昏い瞳の奥には届かない気がした。
彼女自身が救われることを諦めている。
そんな相手をどう救えばいいのか、ルークには分からなかった。
セレナはルークの言葉を待たずに歩き始めた。
そして、ふいに振り返り、笑みを向けた。
「――おやすみなさい、ルーク様」
その声に、ルークはハッとして顔を上げた。
だが、そこに彼女の笑顔はなく、去りゆく背だけがあった。
そのままセレナは夜の闇へと消えていく。
ルークの伸ばした手は空を切った。
鍛錬を積み重ねたこの手は、どんな相手でも倒せる自信があった。
助けを求めるか弱き人々を救える自負があった。
でも、いまは何一つ役に立たない。
救いたかった、支えたかった、居場所になりたかった。
けれど、彼女には何一つとどかない。
残されたのは、どうしようもない無力感だけだった。
ルークは立ち尽くしたまま暗闇を見つめる。
もう彼女の姿は見えない。
それでも、闇から目を逸らせなかった。




