エピローグ
王都に夜の帳が降りた。
昼間の喧騒が嘘のように静まり、街灯の明かりが石畳を照らしている。
その夜は、誰にとっても普段と変わらない夜のはずだった。
けれど、彼女を知ってしまった男たちには違っていた。
――歓楽街の路地裏。
雑踏の中を歩きながら、レオはふと足を止めた。
見慣れた黒い外套が視界の端をよぎった気がしたのだ。
反射的に振り返る。
だが、そこにいるのは見知らぬ女だけだった。
「……なんだ」
自嘲気味に笑う。
最近はこんなことばかりだった。
人混みの向こう、酒場の入り口、市場の片隅。
どこにいても、つい彼女の影を探してしまう。
あの日から随分と時間が経った。
情報屋としての仕事も増えたし、名前も少しずつ売れてきた。
以前なら喜んでいたはずだった。
けれど今は違う……。
成果を上げるたびに、彼女の顔が浮かぶ。
もし、彼女が見ていたら、何と言っただろう。
少しは……認めてくれただろうか?
そんなことを考えてしまう。
そして、そのたびに思い出す。
『そういうの、嫌いなんですよ』
あの時の笑顔を――。
優しかったはずなのに、どこまでも遠かった眼差しを。
結局、自分は彼女の孤独に触れることすらできなかった……。
レオは小さく息を吐き、空を見上げた。
* * *
伯爵邸の書斎では、エドワードが書類に目を通していた。
仕事は順調だった。
婚約者との関係も良好だ。
家門も安定し、新しい事業も軌道に乗った。
誰が見ても幸福な人生だった。
「エドワード様、お疲れではありませんか?」
柔らかな声に顔を上げる。
アリシアが心配そうにこちらを見ていた。
「少し休まれた方が……」
「いや、大丈夫だ。ありがとう」
エドワードは微笑んだ。
自然な笑顔だった。
少なくとも彼女にはそう見えただろう。
アリシアは安心したように微笑み、
「では、お先に失礼いたします」と、部屋を後にした。
バタンと扉が閉まり、部屋に静寂が戻る。
エドワードは席を立ち、窓の外へ視線を向けた。
眼下には王都の夜景が広がっている。
ふと脳裏に浮かぶ。
すり切れた黒い外套と美しい笑み。
そして、あの言葉……。
『困ります、どうして私がエドワード様を恨むのですか?』
今でも分からない。
あれは許しだったのか、それとも断罪だったのか……。
ただ一つだけ確かなことがある。
自分はもう、彼女の人生のどこにも存在していないということだ。
それは時が経つほど重くなっていった。
遠くに見える歓楽街の明かりに目を細める。
エドワードは、自分の心が闇に沈んでいくのを感じていた。
* * *
地下の執務室で、ギルバートは一人グラスを傾けていた。
山のような報告書が机に積まれている。
王都で起きた揉め事、裏社会の動向、新興組織の台頭。
その中には、時折見覚えのある名前も混じっていた。
騎士、伯爵、若い情報屋……。
どいつもこいつも似たような顔をしている。
セレナを――梟を知ってしまった男たちだ。
ギルバートは苦笑した。
昔から変わらない。
皆、自分だけは何とかできると思う。
手を伸ばせば届くと思う。
だが現実は違う。
届かないからこそ苦しむのだ。
彼自身、そのことを嫌というほど知っていた。
救えない。
だから見守るしかない。
それがどれほど無力なことか理解しながら、それでも目を逸らせない。
グラスの中で琥珀色の酒が揺れた。
「まったく」
呟きは誰にも届かない。
「難儀な女だよなぁ……」
* * *
――王都守備隊の詰所。
夜勤を終えたルークは、一人で外に出ていた。
夜空を見上げる。
雲はなく、星がよく見えた。
以前なら気にも留めなかった景色だ。
だが今は違う。
静かな夜ほど、余計なことを考えてしまう。
もし、もっと早く知っていたら。
もし、あの日、違う言葉をかけられていたら……。
そんな考えが何度も何度も頭を過る。
だが、そのたびに結論は同じだった。
何も変わらなかっただろう。
彼女はきっと、同じように笑ったはずだ。
同じように距離を取り、同じように去っていったはずだ。
ルークは歯を食いしばる。
結局、自分は何一つ力になれなかった。
彼女の傷を知った、その孤独を知った。
ただ、それだけだ。
それでも目を逸らしたくはなかった。
この手が届かないと知っている。
この手で救えないと知っている。
それでも――。
あの笑顔を見なかったことにはできなかった。
だから今日も王都を守る。
彼女がどこかで歩いているかもしれない、この街を。
それは希望ではなかった。
諦めきれない、ただの未練がましい男の言い訳だった。
* * *
王都の夜は静かだった。
路地裏にも。
貴族街にも。
守備隊の詰所にも。
それぞれ違う夜がある。
しかし、ひとつだけ共通していることがあった。
誰もが時折、黒い外套の女を思い出すのだ。
夜風が吹く。
王都のどこかで、今夜も梟は飛んでいるのかもしれない。
いつまでも。
いつまでも。
夜の底に沈んだまま。
誰も知らない。
彼女が本当に泣きたかった夜は、とうの昔に終わっていたことを――。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
曇らせって、これで合っているのでしょうか……?(有識者求む)
ありがとうございました!




