元婚約者 エドワード伯爵
「まだか……」
エドワードは祈るような気持ちで両手を組む。
王都の高級倶楽部、その最奥にあるVIPルーム。
若き伯爵エドワードは、胃を締め付けるような焦燥感の中で『その人物』を待っていた。
現在の婚約者であるアリシアが、先日の茶会で毒を盛られた。
幸い命に別状はなかったが、状況から見て犯人は伯爵家内部の者である可能性が高い。
表沙汰にすれば家名に傷がつく……。
だからこそ彼は、王都の裏社会で絶対の解決屋として知られる『梟』へ依頼を出したのだった。
「お待たせいたしました、伯爵閣下――」
静かに扉が開く。
その声を聞いた瞬間、エドワードの背筋に悪寒が走った。
まさか……。
そんなはずは――!
入ってきた女の顔を見た瞬間、彼はソファから立ち上がっていた。
「……セ、セレナ⁉」
「おや」
黒い外套を羽織った女は小さく目を見開く。
が、すぐに営業用の完璧な笑顔が覆い隠した。
「これは驚きました。本日のご依頼主がエドワード様だったとは。このような偶然もあるのですねぇ」
数年前に失った婚約者……。
心からの愛を誓った女。
いや、目の前に現れたのは、かつて、自分が切り捨てた女だった。
* * *
梟の、セレナの調査は信じられないほど速かった。
アシュベリーの懐刀と呼ばれていた女ではあったが、これほどとは思わなかった。
毒の成分。
使用人の勤務記録。
フレオーニル侯爵派との繋がり。
たった数時間――。
ソファに座り、訪れる部下に何度か指示を出すだけで、たった、それだけでセレナは全てを暴いてしまった。
「どうやら犯人は側仕えのメイドですね」
机の上に証拠を並べていく。
「実家の借金を盾に、ローウェル子爵の手の者から脅迫されていたようです。おそらく、フレオーニル侯爵家が絵を描いたのでしょう」
「そ、そんな……!」
フレオーニル家が裏で糸を引いていたとなると、本当の狙いは当家ではなく、派閥の長であるアシュベリー家ではないのか⁉
セレナの顔色を窺うが、彼女がそれを気にしている様子はなかった。
「証拠は明朝までにお届けできるかと。これでご依頼は完了ですね」
淡々とした声……そこに感情はない。
まるで仕事道具が報告書を読み上げているようだった。
――その時だった。
派手な音を立て、部屋の扉が開く。
「エドワード様……!」
青ざめた顔のアリシアが立っていた。
後ろには狼狽える医師の姿がある。
どうやら、医師の制止を振り切って来たらしい。
「アリシア! なぜ起き上がった⁉」
エドワードは慌てて駆け寄る。
「まだ安静にしていなければ……」
「ごめんなさい……私のせいでご迷惑を……」
「違う!」
エドワードは即座に否定した。
「君は……何も悪くない」
その肩を優しく抱く。
「守れなかった私が悪かったんだ……」
アリシアの瞳が潤む。
エドワードは安心させるように微笑んだ。
「もう大丈夫だ。二度とこんなことにはさせないよ」
その光景を、セレナは少し離れた場所から見ていた。
何も言わず、何も感じていないような顔で……。
ただ見ていた。
そこには、嫉妬も、怒りも、悲しみでさえ――。
何一つ存在しなかった。
彼女の無反応が、なぜかエドワードの胸をひどく締め付けていた。
「では、これにて失礼いたします――」
セレナは丁寧に礼をした後、踵を返し、音もなく部屋を後にした。
* * *
エドワードは婚約者を医師に預け、反射的に追いかけた。
外廊下へつながる扉を開けようとするセレナが見えた。
「ま、待ってくれ!」
セレナが振り返り、笑みを作った。
「エドワード様、どうかなされましたか?」
仕事相手を見る目だった。
それが苦しい。
どうしようもなく苦しかった。
「セレナ……すまなかった……!」
気づけば膝をついていた。
「私は君を信じなかった……信じられなかった……」
喉が焼ける。
「君を守れなかった……守らなかった!」
胸が痛い。
「全部、知ったんだ……!」
エドワードは、すがるようにセレナの顔を見上げた。
セレナがアシュベリー公爵家を追放された後、ようやく辿り着いた真実。
彼女は家族を守るため、全ての罪を背負っていた……。
それなのに……。
自分は……。
「私は卑怯だった!」
床に額がつく。
「どんな償いでもする!」
声が震える。
「だから頼む……!」
罵ってくれ。
憎んでくれ。
殴ってくれ。
そうでなければ。
自分は――。
「あ、あの、エドワード様? いったい……何を仰っているのですか?」
不思議そうな声だった。
本当に意味が分からないというような。
セレナは慌てたように周囲を見回す。
「お立ちになってください。誰かに見られでもしたらお立場が……」
こちらを気遣うような振る舞いに、エドワードの顔が引きつる。
「わ、私を恨んでいるはずだろう……?」
「困ります、どうして私がエドワード様を恨むのですか?」
「え……?」
「もう、何年も前の話ですよ?」
セレナは微笑む。
顧客に向ける、梟としての美しく完璧な笑顔。
その笑みには、エドワードの知るセレナの面影はなかった。
「……それに、あの時はアレが私の役割でしたからね」
「役割……?」
「そうです。エドワード様、あなたは伯爵家を守られた」
淡々と事務的に続ける。
「私はアシュベリー家を守ろうとした」
まるで他人の話をするように。
「それだけのことでしょう?」
エドワードは息をするのも忘れ、ただセレナの言葉を待っている。
「ふふっ、今さら感情を動かすような話ではありませんよ」
優しく、穏やかに。
そして残酷に、セレナは告げた。
「私たちはもう他人なのですから」
エドワードは理解した。
許されたのではない。
いや、違う……。
彼女は最初から自分を裁いていない。
怒る価値も、憎む価値も。
後悔する価値すら。
自分には残されていなかった……。
彼女の中では、とっくの昔に終わっていたのだ。
「それではエドワード伯爵、もう『梟』など呼ばれぬよう――」
セレナは丁寧に一礼する。
「どうか末永く、婚約者様とお幸せに」
扉が閉まる。
入ってきた時と同じ、とても静かな音だった。
だが、エドワードには、世界が終わる音に聞こえた。
「あ……」
声が出ない。
胸が苦しい。
痛い。
どうしようもなく、痛い……。
怒ってくれた方が良かった。
憎まれていた方が良かった。
それならばまだ、自分は彼女の人生に存在できた……。
だが、違った。違っていたのだ。
セレナの人生から、エドワードという男はとうの昔に消えていた。
「ああ……」
エドワードは、頭を抱える。
嗚咽が漏れる。
――彼女は壊れていた。
そして自分は、その一因だった。
それなのに……。
謝罪すら届かない場所へ飛び立ってしまった。
もはや、自分の手が届くことはない場所へ……。
エドワードはその場に座り込み、閉じた扉を見つめていた。
まるで、自分だけが取り残されてしまったように。




