第40話 虹の下、霧散した青い点
三日三晩にわたって盆地を重く蓋していた雨雲が、唐突にその役目を終えたように裂け始めた。
雲の切れ間から、暴力的なほどに眩しい朝の太陽光が、泥の村へと差し込む。
光の屈折が、空に薄汚れた虹を架けた。
だが、太陽の光は、決して希望だけを照らし出すわけではない。
暗闇と雨によって誤魔化されていた戦場の凄惨な現実――五百を超える死体、内臓がはみ出した肉塊、赤黒く染まった濁流、そして破壊し尽くされた村の惨状を、一切の容赦なく白日の下に曝け出したのだ。
物見櫓の指揮所を降りた千代は、泥だらけの広場の中央に、力なく座り込んでいた。
彼女の制服は血と泥と胃液で汚れきり、髪は雨水を吸って重く額に張り付いている。
勝利の歓喜は、微塵も湧き上がってこなかった。
脳内を支配しているのは、致死量の疲労物質と、指先一つ動かす気力も湧かない圧倒的な虚脱感だけだ。
彼女の視界に『戦術眼』のデジタル表示は現れない。魔力は完全に底を尽き、ただの生身の女子高生の瞳として、眼前の地獄を眺めることしかできなかった。
泥を引きずりながら、生き残った者たちが千代の元へ集まってきた。
杖をつき、魔力枯渇で一回り小さくなったように見える老軍師アーレイ。
割れた装甲の隙間から血を滲ませ、タワーシールドの残骸を杖代わりにしている女傭兵オリエール。
そして、レオハルトの長剣を抱きしめるようにして歩いてくる、目を真っ赤に腫らした少年カミイ。
七人いた怪物たちのうち、五体満足な者は一人もいない。そして、三人は永遠に欠けた。
彼らは無言のまま、千代の周囲の泥の上に、思い思いの姿勢で倒れ込むように座った。互いの生存を喜ぶ言葉すらない。プロの傭兵にとって、生き残った直後の無事は「ただ死ぬタイミングが後回しになっただけ」というシニカルな事実でしかないからだ。
「千代様……っ! 皆様……っ!」
静寂を破り、村の奥から兎人族の村人たちが駆け寄ってきた。
長老のブロップ、案内役のルイ、妹のマイナ。彼らは、泥にまみれながらも、生き残った喜びと感謝で顔を輝かせている。
「ありがとうございました! 助かりました、皆様のおかげで、村は守られたのです!」
「ああ、なんと感謝してよいか! 我々の命の恩人じゃ!」
村人たちが千代たちの周囲を取り囲み、次々と土下座をして感謝の言葉を口にする。
それは、紛れもない純粋な歓喜だった。
だが、千代たちの耳には、その言葉がひどく空々しく、遠い世界のノイズのようにしか聞こえていなかった。
彼らを責める気はない。弱者が自分たちの生存を喜ぶのは、生物として極めて正常なエゴイズムだ。
しかし、彼らの目には、炭になったドワーフの最期も、立ったまま死んだ剣聖の矜持も、濁流に沈んだ狂犬の意地も、本当の意味では見えていないのだ。彼らにとって傭兵の死は、村を守るために消費された「有益な壁」の破損以上の意味を持たない。
千代は、泥水に映る自分の顔を見た。
もう、彼女の目に『戦術眼』の光はない。
つまり、目の前でひれ伏し、感謝を述べる村人たちの姿は、もう戦闘中に「守るべき対象」を示す『青いマーカー』としては認識されていないということだ。
ただの他者。
契約は満了した。これ以上の労働も、感情の投資も、完全に無意味だった。
「……アーレイ」
千代は、ひどく掠れた声で隣の老人に話しかけた。
「ええと……時給換算で、いくらになるのかしら、この仕事」
「時給? まぁ黒パンも買えんじゃろ。これが博打場なら誰も寄り付かんわい」
アーレイが、濡れて火のつかないパイプを咥えたまま、乾いた笑いを漏らす。
オリエールも、泥だらけの顔をしかめて同意した。
「割に合わないにも程があるわ。……あの馬鹿ども、死に損ねの分際で、とんでもない借金を押し付けていきやがった」
村の広場の中央。
泥土がこんもりと盛られた、三つの急造の塚が並んでいた。
遺体を回収できたわけではない。
一つの塚には、焼け跡からカミイが見つけ出した、ドーゴンの愛用のウォーハンマーが。
もう一つの塚には、カミイが持ち帰った、レオハルトの無骨な鉄の長剣が。
そして最後の塚には、濁流の川岸に流れ着いていた、ゲンガイがへし折った魔獣の巨大な角が、泥濘の海に深く突き立てられていた。
朝の太陽の光が、その三つの墓標のシルエットを、泥の地面に長く引き伸ばしている。
彼らは死んだ。
金にもならない、名誉にもならない、ただの泥の村の防衛戦で、自らの役割を完璧に遂行して。
彼らの存在証明は、この下らない墓標と、生き残った者たちの肉体に刻まれた疲労と傷跡だけだ。
千代は、ゆっくりと空を見上げた。
雲が完全に散り、馬鹿みたいに青く、澄み切った空が広がっている。
元の世界で見慣れた空と、何一つ変わらない、圧倒的な無関心を持った青空。
「……終わったんだ」
千代の口から、最後の一息のような呟きが漏れた。
女子高生による、異世界での最も泥臭く、最も理不尽なシミュレーションゲーム。
七つの星は、泥の中でその役割を終えた。




