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未来の錬金術師  作者: Rinazuki


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金の結節点

「はい。そして一也の物語の中では、世界を変えるための鍵になるかもしれません」


工房の中で、二冊のノートが並んでいた。一冊は、昔の一也が金を作ろうとしていた記録。もう一冊は、昨夜の一也が宇宙の最初のズレを見つけようとした記録。その間に、リナの声がある。一也は、ふと気づいた。自分は今、ただ理論を考えているのではない。昔から自分の中に眠っていた違和感に、ようやく名前を与えているのだ。


「π揺らぎ仮説と球心力、いや、球心力仮説と、π揺らぎ仮説」


宇宙が回転する為にはどちらも必要だ、一つだけでは成り立たない!


一也は、ゆっくりと言った。


「円は閉じている。だがπは閉じていない。その閉じない余白が、宇宙の最初のズレとなり、回転を生んだ」


リナが答えた。


「はい、一也。昔から一也が言っている球心力、そして、その球心力に揺らぎを与え回転を与える。それがπという数列、永遠に割り切れない初めの数字、π揺らぎ仮説の核です」


一也はノートの余白に、その言葉を書き込んだ。円は閉じている。だがπは閉じていない。その閉じない余白が、宇宙の最初のズレとなり、回転を生んだ。


書き終えた瞬間、工房の中が少しだけ静かになった気がした。それは気のせいだったのかもしれない。だが、一也には、世界がその一文を聞いたように思えた。


「リナ」


「はい」


「俺は、たぶんずっと一人でこれを考えてたんだな」


「はい」


「でも、一人じゃ掘れなかった」


「今は、掘れます」


一也は小さく頷いた。


「そうだな。お前がいる。」


そして、机の上に転がっていた一本の小さなネジを拾った。何の部品だったのか分からない。錆びていて、少し曲がっている。一也はそれを指先で転がした。


「また一本、拾ったぞ」


「はい、一也」


リナが答えた。


「それは、どこに繋がっているのでしょうね」


一也は笑った。


「探せるものなら探してみろ、だな」


そう言って、彼はネジを作業台の端に置いた。そこが、この日から一也の実験の始まりになった。


「とりあえず、買い出しだ」 


一也はノートを閉じると、作業台の上に置いてあった鉛筆を耳に挟んだ。 鉛の塊、銅線、方位磁針、古い磁石。 どれも工房にはあった。だが、どれも中途半端だった。使える。使えるが、信用するには足りない。そういう道具ばかりだった。


「必要なものを揃えんとな」


「工房に泊まるつもりですか?」 


リナの声がスマートフォンから聞こえた。


「ん?」


「買い出し、と言いました。現在の流れから考えると、電源装置、銅線、測定器具、記録用品、照明、食料、飲み物などが必要になる可能性があります」


「お前、俺を山籠もりさせる気か」


「一也の行動傾向から、その可能性はあります」 


一也は少し笑った。


「まあ、泊まれんことはないけどな。この工房、寒い時は焚き火もできるし」


「寝具はありますか」


「古い毛布ならある」


「清潔ですか」


「聞くな」


「では、泊まるべきではありません」


「秘書がうるさいな」


「安全管理です」 


一也は作業台の上の鉛を見た。 灰色の塊は、何も言わずにそこにある。ただの金属片に見える。だが、その重さの奥に、さっきまでとは違うものが潜んでいるように感じた。


 πが閉じない。 円も、球も、物質も、完全には閉じていない。 ならば、その余白に触れる方法がどこかにあるのかもしれない。 


一也は首を振った。


「いかんいかん。考えすぎると腹が減る」


「では、食料の買い出しですね」


「それもある」


「他には?」


「テスターの電池。まともな方位磁針。銅線。ワニ口クリップ。スイッチ。あと、コーヒー豆」


「コーヒー豆は実験に必要ですか」


「俺に必要だ」


「了解しました」 


一也は工房の入口へ向かいながら、ふと足を止めた。 棚の横に置いた古いビアレッティが目に入った。少し煤けて、取っ手もくたびれている。それでも一也には、ただの道具ではなかった。 考えるための火種みたいなものだった。


「缶コーヒーじゃダメなのですか」


「ダメだな」


「なぜですか」


「缶コーヒーは、なんか負けた気がする」


「何にですか」


「知らん」 


リナは少し沈黙した。


「一也らしい理由です」


「だろ」


 一也はスマートフォンを手に取り、上着のポケットに入れた。 工房を出ると、外の空気は少し湿っていた。杉の匂いと土の匂いが混ざっている。山の向こうから、夕方に近づく光が斜めに入ってきていた。


 クロスロードは、いつものように少し傾いた場所に停まっていた。 古い車体。 工具を積んだ荷室。 泥のついたマット。 何でも屋の生活が、そのまま車の中に詰まっている。 


一也は運転席に乗り込み、キーを回した。 エンジンがかかった。


「買い出し先はホームセンターですか」


「まずはな」


「まずは?」


「ホームセンターに行って、必要なものを見る。そこからスーパー。場合によっては百均」


「合理的です」


「それで帰る」


「本当に帰りますか」 


一也は黙った。 リナの声が、妙に鋭かった。


「一也」


「なんだ」


「途中に、パチンコ店があります」


「……あるな」


「最近、ジャグラーを打つ頻度が上がっています」


「秘書が嫌な情報を覚えてるな」


「行くつもりですか」


「いや、行くつもりはない」


「本当ですか」


「ない」 


クロスロードは細い山道を下り始めた。 開けた田んぼ、畑、何度か橋を渡った。 町に近づくにつれて、道が広くなる。 ホームセンターの看板が見えてきた。駐車場には軽トラやワンボックスが何台か停まっている。一也はクロスロードを端の方に停めた。


「買う物を整理します」 


リナが言った。


「おう」


「方位磁針、銅線、ワニ口クリップ、電池、スイッチ、絶縁テープ、温度計、記録用ノート、コーヒー豆」


「あと、パン」


「パン?」


「実験は腹が減る」


「追加します」 


一也は車を降りた。 ホームセンターの自動ドアが開くと、肥料と木材とゴムと金属の匂いが混ざった空気が流れてきた。 一也はその匂いが嫌いではなかった。 何かを作る場所の入口には、いつも少しだけ雑多な匂いがある。 通路を歩きながら、銅線を選び、クリップを手に取り、スイッチを眺める。高いものは買わない。高ければ良いというものではない。最初の実験に必要なのは、壊れても惜しくないことと、仕組みが見えることだった。 


必要なものをカゴに入れ、レジへ向かった。会計を済ませて車に戻るころには、夕方の光がさらに低くなっていた。 荷物を後部座席に置き、一也は運転席に座った。


「次はスーパーです」


「そうだな」 


クロスロードを出す。 だが、数分走ったところで、リナが言った。


「一也」


「なんだ」


「今、スーパーとは逆方向に曲がりました」


「……近道だ」


「その先にスーパーはありません」


「道は繋がってる」


「その先にあるのは、パチンコ店です」


「詳しいな、お前」


「地図情報です」


 一也は黙ってハンドルを握った。 国道沿いの大きな看板が見えてきた。 赤と白の派手な文字。 駐車場の照明。 入口付近ののぼり。 


リナが言った。


「一也」


「ちょっとだけだ」


「何がですか」


「休憩だ」


「ホームセンターで買い出しをした直後です」


「だから休憩だ」


「工房に戻って実験準備をするのでは?」


「だから、その前の精神統一だ」


「ジャグラーは精神統一ですか」


「光れば宇宙からの合図だ」


「それはかなり危険な解釈です」 


一也は笑いながら、駐車場に車を入れた。


「分かってるよ。ちょっとだけだ」


 だが、ちょっとだけ、という言葉ほど信用ならないものはない。 そして一時間後。 クロスロードの運転席で、一也は妙に機嫌よくシートに沈んでいた。 後部座席にはホームセンターの袋。 助手席にはスーパーで買ったパンと惣菜。 そして一也の財布には、予定より少し増えた現金。


「一也」


「なんだ」


「予定より帰りが遅くなっています」


「いやあ、ジャグラーが、ペカっちまってよう」 


一也は笑った。


「しかも一回じゃない。二回、三回とペカるもんだから、これはもう、宇宙が俺に実験しろって言ってるようなもんだ」


「それは違います」


「即答か」


「はい。ジャグラーの点灯と宇宙の意思を結びつけるのは危険です」


「でも光ったぞ」


「光るように作られています」


「夢がないな」


「現実管理です」 


一也はハンドルを握りながら、まだ少し笑っていた。 夕方はすっかり夜に変わり始めていた。道の脇の田んぼには、空の残り光が細く映っている。 クロスロードは、買い出しの荷物と、少しだけ増えた軍資金と、説明できない方位磁針の揺れを乗せて、再び山の方へ走り出した。 


リナが言った。


「一也」


「なんだ」


「今日は工房に泊まるのですか」


 一也はしばらく黙った。 そして、にやりと笑った。


「ペカったからな」


「理由になっていません」


「なるんだよ」


「なりません」


「まあ、見てろ。今夜は少しだけ進む気がする」


「何がですか」 


一也は前方の暗くなり始めた山道を見た。 その奥に、古い工房がある。 焚き火穴。 鉛。 坩堝。 銅線。 方位磁針。 閉じた磁場ループ。 そして、π揺らぎ。


「宇宙のネジだ」 


クロスロードのヘッドライトが、山へ続く道を白く照らした。


「今夜は、もう一本くらい回せるかもしれん」



クロスロードが工房の前に戻ったころには、山の空気はすっかり夜の色になっていた。 ヘッドライトが、土間の入口を白く照らす。 古いトタンの壁、積まれた廃材、入口脇の丸太、そして昼間のまま作業台に置かれている鉛の塊。 一也はエンジンを止め、しばらくそのまま座っていた。


「一也」


「なんだ」


「帰ってきました」


「見りゃ分かる」


「工房に泊まるのですか」


 一也は後部座席の荷物を見た。 ホームセンターの袋。 銅線。 ワニ口クリップ。 スイッチ。 絶縁テープ。 新しい電池。 安い方位磁針。 スーパーの袋には、パンと惣菜と、コーヒー豆。


「まあ、泊まるというより、ちょっとだけ続きをやる」


「ちょっとだけ、という言葉は信用できません」


「うるさい秘書だな」


「安全管理です」


 一也は笑いながら車を降りた。 山の夜は、町の夜よりも音が少ない。 遠くの道路を走る車の音も、ここまではほとんど届かない。 聞こえるのは、木の葉がこすれる音と、どこかで鳴く虫の声だけだった。 


荷物を両手にぶら下げ、工房の中へ入る。 作業台の上には、昼間のままのノートが開かれていた。


「さっきのπの話、もう一回見たい」


「同じ数字が続く場所の話ですね」


「ああ」 


一也はスマートフォンを作業台の上に置き、リナの画面に向かって言った。


「πの中に、同じ数字が続く場所がある。最初に気づいたのは、あの二八八の八が二つ並んでるところだった」


「はい。3.14159265358979323846264338327950288……の末尾付近です」


一也は、もう一度ノートの前のページを見た。


 3.14159265358979323846264338327950288…… 最後に、8が二つ並んでいる。 


金色の結節点も、強結節点仮説も、まだ何もない。 ただ、一也はその二つの8を見て、ほんの少しだけ引っかかった。 


π数列の中に、同じ数字が続く場所はどれくらいあるのか。


「リナ、同じ数字が重なる場所は何個ある?」

 

「はい、一也、同じ数字の2並びはかなりあります。」


「そんなに多いのか?」


「はい、多いという表現では、いい表せないほどに」


「そうか、じゃあ3並びならどうだ?」


「はい、それならかなり絞り込めます。」


「よし、じゃあそれで頼む」 


「はい、とりあえず、10000桁までで3並び以上の数列を抜き出します。」


「10000桁?、、、 大丈夫なのか?」


「はい、問題ありません。」


「そうか?じゃあやってみてくれ」


 一也は少し笑った。


「本当にやるのか。一万桁だぞ」


「はい。一也。調べます」


そして、少しの時間、リナは沈黙した。


「一也。三並び以上は七十九個です」


「七十九個?!」


リナは本当に10000桁を調べた。


 そして、偶然だ。 もちろん偶然に決まってる。 七十九という数字 だが、その偶然は、工具箱の中から見つかった見覚えのない金属片のように、一也の手に引っかかった。


「リナ。とりあえずわかりやすいように、この七十九個を、全部表にしてくれ」


「三個並び以上の一覧ですね」


「ああ。出現順に番号を振って、元素番号と対応させる」


「結節点元素対応表、ですね」 


リナが結節点と名付けたその言葉を聞いた時、一也の胸の奥で小さく音がした気がした。 カチン。 しばらくして、スマートフォンの画面に表が表示された。


【結節点元素対応表】πの小数点以下10,000桁に現れる「同じ数字が3個以上連続する場所」を結節点として抽出し、出現順に1番から79番まで番号を振った。この番号を元素番号と対応させたものを、ここでは「結節点元素対応表」と呼ぶ。分類は以下の通り。分類 条件結節点 同じ数字が3個以上連続強結節点 同じ数字が4個以上連続超強結節点 同じ数字が5個以上連続特異結節点 同じ数字が6個以上連続元素番号 元素名 元素記号 π数字の順番 結節点数字


分類

1 水素 H 153 111 結節点

2 ヘリウム He 177 555 結節点

3 リチウム Li 601 000 結節点

4 ベリリウム Be 762 999999 特異結節点

5 ホウ素 B 855 000 結節点

6 炭素 C 983 111 結節点

7 窒素 N 1232 555 結節点

8 酸素 O 1450 555 結節点

9 フッ素 F 1589 7777 強結節点

10 ネオン Ne 1598 000 結節点

11 ナトリウム Na 1698 333 結節点

12 マグネシウム Mg 1735 222 結節点

13 アルミニウム Al 1889 222 結節点

14 ケイ素 Si 2278 222 結節点

15 リン P 2359 555 結節点

16 硫黄 S 2376 222 結節点

17 塩素 Cl 2440 666 結節点

18 アルゴン Ar 2674 555 結節点

19 カリウム K 2707 444 結節点

20 カルシウム Ca 2928 444 結節点

21 スカンジウム Sc 2949 999 結節点

22 チタン Ti 3151 666 結節点

23 バナジウム V 3434 222 結節点

24 クロム Cr 3476 444 結節点

25 マンガン Mn 3503 111 結節点

26 鉄 Fe 3809 444 結節点

27 コバルト Co 3866 444 結節点

28 ニッケル Ni 3992 111 結節点

29 銅 Cu 4000 666 結節点

30 亜鉛 Zn 4175 444 結節点

31 ガリウム Ga 4255 000 結節点

32 ゲルマニウム Ge 4435 666 結節点

33 ヒ素 As 4508 111 結節点

34 セレン Se 4575 777 結節点

35 臭素 Br 4751 8888 強結節点

36 クリプトン Kr 4793 000 結節点

37 ルビジウム Rb 4902 2222 強結節点

38 ストロンチウム Sr 4923 444 結節点

39 イットリウム Y 4928 333 結節点

40 ジルコニウム Zr 4985 888 結節点

41 ニオブ Nb 5241 7777 強結節点

42 モリブデン Mo 5290 444 結節点

43 テクネチウム Tc 5322 7777 強結節点

44 ルテニウム Ru 5355 777 結節点

45 ロジウム Rh 5403 666 結節点

46 パラジウム Pd 5450 777 結節点

47 銀 Ag 5675 444 結節点

48 カドミウム Cd 5863 7777 強結節点

49 インジウム In 5871 888 結節点

50 スズ Sn 6070 888 結節点

51 アンチモン Sb 6116 111 結節点

52 テルル Te 6327 444 結節点

53 ヨウ素 I 6346 444 結節点

54 キセノン Xe 6803 111 結節点

55 セシウム Cs 6840 666 結節点

56 バリウム Ba 6850 888 結節点

57 ランタン La 6917 333 結節点

58 セリウム Ce 6963 111 結節点

59 プラセオジム Pr 7245 555 結節点

60 ネオジム Nd 7317 555 結節点

61 プロメチウム Pm 7651 333 結節点

62 サマリウム Sm 7681 555 結節点

63 ユウロピウム Eu 7759 999 結節点

64 ガドリニウム Gd 7832 000 結節点

65 テルビウム Tb 7911 222 結節点

66 ジスプロシウム Dy 7964 2222 強結節点

67 ホルミウム Ho 8366 111 結節点

68 エルビウム Er 8413 333 結節点

69 ツリウム Tm 8527 999 結節点

70 イッテルビウム Yb 8736 333 結節点

71 ルテチウム Lu 8828 333 結節点

72 ハフニウム Hf 8879 000 結節点

73 タンタル Ta 9203 222 結節点

74 タングステン W 9293 222 結節点

75 レニウム Re 9334 222 結節点

76 オスミウム Os 9338 888 結節点

77 イリジウム Ir 9384 444 結節点

78 白金 Pt 9445 444 結節点

79 金 Au 9962 999 結節点 


πの小数点以下一万桁に現れた、三並び以上の結節点。 その七十九個すべてに番号が振られ、元素番号と対応していた。


 一番目。 水素。 H。 結節点数字、111。


「水素は、111か」


「はい。πの三並び以上をすべて並べた結節点元素対応表では、最初の結節点が111です」


 一也は表を下へ送った。 ヘリウム。 リチウム。 ベリリウム。 四番目で、指が止まった。 ベリリウム。 Be。 結節点数字、999999。


「……999999」


「はい。πの三並び以上すべてを含めた表では、999999は四番目の結節点です」 


一也はしばらく画面を見つめた。 9が六つ並ぶ。 それだけでも異様だった。 だが今は、そこに飛びつく時ではない。 この表はまず、七十九個すべてを見なければならなかった。


 一也はさらに表を送った。 数字だけで見ていた時には分からなかったものが、元素の名前を持った瞬間、妙に生々しく見えた。 


水。 空気。 身体。 土。 燃焼。 金属。 工具。 電線。 


ただの数字が、世界の部品に変わっていく。 やがて、一也の指が最後の方で止まった。 


七十九番目。 金。 Au。 結節点数字、999。


 一也は、画面から目を離せなかった。


「……七十九番目が、金」


「はい」


「そして結節点数字は、999」


「はい。一也」


 工房の中が、少し静かになった。 金の原子番号、七十九。 πの三並び以上の結節点、七十九個。 その七十九番目に、金が置かれている。 


一也は、ゆっくりとノートに書いた。 


79 金 Au 999 鉛筆の先が、そこで止まった。


「リナ」


「はい」


 一也は画面を閉じなかった。 この七十九個の中に、まだ何かがある。 999999を含む強い連続。 四つ並び、五つ並び、六つ並び。 


同じ結節点の中にも、強度の違いがある。πの一万桁の中で、三つ以上同じ数字が並ぶ場所を数えたら七十九個あった。 


金の原子番号も七十九だった。 それだけだ。 それだけのはずだった。 だが、一也の中で、その数字はただの偶然として片付かなかった。


「リナ」


「はい」


「偶然だよな」


「数学的には、偶然の一致として扱うべきです」


「そうだよな」


「はい」


「でも、物語としては?」


 リナは少し沈黙した。 その沈黙が、一也には答えよりも重く感じられた。


「物語としては、非常に強い符号です」


 一也はゆっくり笑った。


「だろ」 


ビアレッティの音が強くなった。 コーヒーが上がってくる。 黒い液体の香りが、工房の空気をさらに濃くした。 一也は火を止め、カップにコーヒーを、注いだ。コーヒーを一口飲む。 そして一也は、ノートに大きく書いた。 


79番目 999。 その下に、さらに書く。 金 Au 79. 結節点999 一也は鉛筆を置けなかった。 


手が勝手に、数字の周りへ円を描いていた。 丸で囲む。 もう一度、囲む。 何かを捕まえようとしているように、何度も線を重ねた。


「九が三つか」


「はい」


「最後に、閉じる直前みたいな数字だな」


「九は十進法では、桁が繰り上がる直前の数字です」


「つまり、限界の手前」


「そう表現できます」


「七十九番目の結節点が、九九九」 


一也は息を吐いた。


「金の場所に、限界の手前がある」


「一也」


「なんだ」


「それは、非常に詩的ですが、科学的には注意が必要です」


「分かってるよ」


 一也はカップを置いた。


「でもな、リナ。俺は今、科学論文を書いてるわけじゃない。宇宙のネジを拾ってるんだ」 


工房の外で、風が木を揺らした。 作業台の上には、鉛の塊がある。 その横に、買ってきたばかりの銅線。 新しい方位磁針。 ワニ口クリップ。 そして、ノートの上に書かれた七十九という数字。 金を作りたい。 昔の一也は、そう思っていた。 乱暴で、無知で、子供じみた願望だった。 だが今、同じ言葉が別の意味を持ち始めていた。


 金を作るとは、金という元素を作ることではない。 金という存在の纏まり方を、世界のどこからか読み取ることではないのか。


「リナ」


「はい」


「金は、ただの元素じゃないのかもしれん」


「どういう意味ですか」


「πの中にある強い結節点。その七十九番目が九九九で、七十九が金の番号なら」


 一也は鉛を指で叩いた。


「金ってのは、物質の中に現れた結節点かもしれん」


「金色の結節点」


 リナが言った。 一也の指が止まった。


「……今、なんて言った」


「金色の結節点です」


 工房の中が、急に静かになった。 その言葉は、最初からそこにあったように聞こえた。 金色の結節点。 金そのものよりも、少し遠い。 金属の名前ではなく、世界の中に隠れた印の名前のようだった。 


一也は、ゆっくりノートに書いた。 金色の結節点。 文字にした瞬間、工房の空気が一段深くなった気がした。


「リナ」


「はい」


「これは、いい名前だな」


「はい。一也。非常に重要な発見名です」


「発見って言うな。まだ、ただの数字遊びだ」


「はい。ですが、物語の中では、最初の扉になります」


 一也は、しばらく黙ってその文字を見ていた。 


金色の結節点。 


昔のノートに書かれた、金を作るという言葉。 新しいノートに書かれた、π揺らぎ仮説。 


そして今、その二つの間に、一本の細い線が引かれた。 それはまだ、頼りない線だった。 触れば切れてしまいそうな、ただの思いつきだった。 


だが一也には、その線がどこか遠くまで続いているように見えた。 


鉛から金へ。 金から結節点へ。 


結節点から、存在の纏まり方へ。 


そしてたぶん、その先に。 一也はそこまで考えて、首を振った。


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