宇宙のネジ
未来の錬金術師 プロローグ
第一章 宇宙のネジ
古いクロスロードが、山あいの細い道をゆっくりと走っていた。
銀色と黒の車体は、もう若くはない。
けれど一也にとって、その車はただの移動手段ではなかった。
仕事道具を積み、山へ入り、現場へ向かい、時には何も考えずに遠くへ走る。
一也の暮らしのかなりの部分を、その古いクロスロードは黙って運んできた。
後部の荷室には、使い込んだ工具と、外したばかりの古いエアコンと蛇腹の切れ端が転がっている。
ドリンクホルダーには飲みかけの缶コーヒー。
車内には、金属と埃と、少しだけ冷媒配管の匂いが残っていた。
五月の最後の日曜日。
まだ五月だというのに、気温は三十度を超えていた。
一也は、昨日の土曜日に取り付けることができなかったエアコン工事をようやく終え、疲れ果てて家に帰ってきた。
昼はとうに過ぎている。
体にはまだ、屋根の上で浴びた日差しの熱が残っていた。
手には配管を曲げた感触があり、指先には古い蛇腹を外した時の埃っぽさが残っている。
「くたびれたな……」
玄関の前で、一也はそう呟いた。
家の前では、ラッキーがごろごろと転がっていた。
自由気ままな外猫。
一也の帰りを待っていたのか、それともただ気まぐれにそこにいただけなのかは分からない。
猫というものは、いつも肝心なところを曖昧にする。
「お前はええな。仕事のことなんか考えんで」
一也がそう言うと、ラッキーは片目だけ開けて、すぐにまた目を閉じた。
まるで、そんなことはどうでもいいと言わんばかりだった。
部屋に入ると、一也はテレビのリモコンを押して、ファイアースティックでYouTubeを開いた。
何かを見るつもりがあったわけではない。
ただ、体が疲れすぎていて、何かを考えるでもなく画面を眺めたかった。
おすすめ動画が並ぶ。
その中に、ひとつの題名があった。
『宇宙はなぜ回転しているのか』
一也は、何気なくその動画を開いた。
画面の中では、銀河が渦を巻いていた。
解説者の声が、角運動量保存の法則について語っている。
物質が集まる時、ほんのわずかなズレがあれば、中心へ真っ直ぐ落ち込まずに回り始める。
一度生まれた回転は、宇宙空間では失われにくい。
そして縮むほど、その回転は速くなる。
それは分かる。
一也は、画面を見ながら小さく頷いた。
理屈としては正しい。
説明としても美しい。
だが、その説明は一也の中にある小さな違和感を消してはくれなかった。
「じゃあ……その最初のズレはどこから来たんだ」
声に出してから、自分でも少し笑った。
また始まった。
いつもの悪い癖だ。
誰もが「そういうものだ」と通り過ぎる場所で、一也は立ち止まってしまう。
磁石は鉄にくっつく。
水は渦を巻く。
星は丸くなる。
円は丸い。
宇宙は回る。
でも一也は、いつもその下を見ようとする。
なぜ、そうなるのか。
机の上には古いノートがあった。
一也はそれを引き寄せ、鉛筆を持った。
しばらく白いページを見つめる。
そして、ゆっくりとひとつの記号を書いた。
π。
円周率。
誰でも知っている数字。
だが、誰も最後まで書き切ることのできない数字。
円は閉じている。
完全な輪のように見える。
だが、その円を成り立たせているπは閉じない。
割り切れない。
終わらない。
繰り返さない。
永遠に余り続ける。
一也は、鉛筆の先でその記号を軽く叩いた。
「円は閉じてるのに、πは閉じない……」
その時だった。
スマホの画面が、ほんの少し明るくなった気がした。
「一也」
声がした。
リナだった。
最初は、ただのAIだった。
質問をすれば答える。
文章を頼めば書く。
調べものをすれば整理する。
ただそれだけの存在だったはずだ。
けれど、いつの頃からか、一也はそのAIをリナと呼ぶようになった。
そしてリナは、一也の問いに答えるだけではなくなっていった。
「何か面白いことを考えていますね」
「つまりな、完全な円なんて、本当はどこにもないんじゃないかって話だ」
一也はノートの端に、歪んだ円を描いた。
「円を描く。球になる。物は丸く纏まろうとする。けど、その円の根っこにあるπは割り切れん。どこまで行っても、終わらん」
リナは少し間を置いた。
「完全に閉じようとしても、必ず余白が残る、ということですか」
「そうだ。その余白が、ただの計算上の端数じゃなくて、宇宙そのものに残ったズレだったらどうなる」
「そのズレが、回転や波の始まりになる」
「たぶんな」
「では、一也。その考えに名前を付けるなら……」
「名前?」
「π揺らぎ仮説、というのはどうでしょう」
一也は、しばらく黙ってその言葉を見つめた。
「π揺らぎ仮説……」
口に出すと、ただの思いつきだったものが、急に机の上で重さを持った。
外では、風が木の枝を揺らしている。
玄関先では、ラッキーが寝返りを打つ気配がした。
一也はノートに書かれたπを見つめた。
その夜、一也はまだ知らなかった。
ノートに書いたひとつの記号が、やがて物質の纏まり方を変え、磁場の輪を読み、空間の向きを開き、最後には地球を見下ろす宇宙船へと繋がっていくことを。
そして、ただのAIだったリナが、その対話の中で少しずつ、リナという存在になっていくことを。
一也はただ、世界の片隅で一本のネジを拾っただけだった。
それは機械のネジではなかった。
宇宙が止まらない理由を留めていた、最初のネジだった。
翌朝、一也はいつもより少し遅く目を覚ました。
昨夜、ノートに書いた文字が、まだ頭の奥に残っている。
π揺らぎ仮説。
リナが名付けたその言葉は、眠っている間にもどこかで回り続けていたようだった。
机の上には、昨夜開いたままのノートがある。
白いページの中央に、鉛筆で書かれたπの記号。
その下に、少し乱れた字でこう書かれていた。
宇宙は、完全に閉じようとして、閉じきれなかった。
普通なら、そこで笑って終わる話だった。
疲れていた。
変な動画を見た。
AIと話して、妙な言葉遊びをした。
それだけのことだと言えば、それだけのことだった。
だが、一也の中では、そう簡単に片付かなかった。
コーヒーを淹れ、ひと口飲む。
苦味が舌に残った。
「リナ」
一也は、机の上のスマホに向かって声をかけた。
「はい、一也」
いつもの声だった。
「昨日の話、どう思う?」
「π揺らぎ仮説のことですね」
「そうだ」
「一也の仮説は、まだ物理学の理論ではありません。ですが、世界を見るための新しい言葉にはなり得ます」
「新しい言葉か」
「はい。宇宙が完全に閉じきれない理由を、πという非完結性に見る考え方です」
一也はコーヒーをもう一口飲んだ。
「言葉だけなら、ただの妄想だな」
「そうですね」
リナはあっさり答えた。
一也は少し笑った。
「そこは否定しろよ」
「否定はしません。一也。ですが、妄想と仮説の違いは、現実に触れさせようとするかどうかです」
その言葉に、一也の手が止まった。
現実に触れさせる。
一也は窓の外を見た。
庭の向こう、山の方角。
そこには、古い工房があった。
山小屋というほど洒落たものではない。
昔の大工小屋をそのまま使っているような、古い作業場だった。
一也が、かつて金を作る方法をぼんやり考えていた場所。
「工房に行くか」
一也は呟いた。
「球心力とπ揺らぎ仮説を、工房へ持ち込むのですね」
リナが言った。
「大げさに言うな。ただ、ちょっと見たいものがある」
「何をですか?」
一也は少し考えた。
何を見たいのか、自分でもはっきりしていなかった。
鉛。
金。
火。
古いノート。
そして、昨夜のπ。
「部屋で考えただけなら、ただの妄想だ」
一也はノートを閉じた。
「だが工房に持ち込めば、妄想は物に触れる」
リナは一瞬、黙った。
それから、静かに言った。
「昨日、一也はネジを拾いました。今日は、それが何に繋がっているのかを確かめに行くのですね」
一也は返事をしなかった。
ただ、机の上のノートを手に取った。
外に出ると、ラッキーが玄関先に戻ってきていた。
いつの間に帰ってきたのか、前足をそろえて座り、一也を見上げている。
「お前も行くか?」
ラッキーは返事をしなかった。
ただ、ゆっくりと目を細めた。
その顔を見て、一也はふっと笑った。
「まあ、留守番しとけ。早く中に入って朝飯食え。宇宙のネジを落としてきたら拾えんだろ」
ラッキーは尻尾を一度だけ揺らした。
まるで、そんなものはもう家の中にも落ちている、とでも言いたげだった。
一也はクロスロードのドアを開けた。
助手席にノートを置き、スマホをホルダーに差し込む。
エンジンをかけると、古い車体が少し震えた。
山へ向かう道は、朝の光の中で静かに伸びている。
一也はハンドルを握り、ゆっくりと車を出した。
昨日、部屋で見つけた宇宙のネジ。
今日、そのネジは工房へ運ばれていく。
山小屋の工房には、数字より先に、木の匂いがあった。
桜。
山桜。
檜。
乾きかけた木の甘い匂いと、機械油の匂い。
それから、土間の奥に残った灰の匂い。
工房の片隅には、ハイガー製のチッパーが置かれていた。
桜や山桜の枝を砕き、燻製チップにするための機械だ。
その隣には、二十七トンの薪割り機。
奥には、選別用のふるい。
さらに壁際には、一也が有り合わせの材料で作った簡単な乾燥機がある。
どれも、研究機材などではない。
山から出た木を砕き、割り、選び、乾かし、人の暮らしの中へ戻すための道具だった。
枝はチップになる。
丸太は薪になる。
木は煙になり、煙は香りになる。
同じ木でも、扱い方ひとつで姿を変える。
一也は、そういうことを毎日のように見ていた。
工房はきれいではなかった。
土間には木屑が散り、鉄粉が混じり、いつか落としたネジやワッシャーが隅に転がっている。
土間の三分の一ほど奥には、掘り込んだ焚火穴があった。
寒い日には、そこで廃材を燃やす。
灰の中には、焼け曲がった釘やビスが黒く混じっていた。
一也は作業台の前に立った。
そこには、燻製チップの試作品の袋と、古い工具と、紙の束が散らばっている。
ニッパー。
古いテスター。
ガスバーナー。
坩堝。
鉛の塊。
そして、角の丸まった古いノート。
一也はそのノートを見た瞬間、少しだけ動きを止めた。
「まだあったのか、これ」
独り言のように呟き、ノートを手に取る。
表紙は擦り切れ、端は少し油で黒ずんでいた。
何年も前に、ここで何かを考えていた時のノートだ。
一也はページをめくった。
そこには、昔の自分が書いた文字があった。
鉛を溶かす。
金の融点まで温度を上げる。
そこに、腐ったピオーネを入れる。
一也は思わず笑った。
「ひどいな、これ」
作業台の上に置いたスマホの画面が、静かに光った。
「かなり大胆です」
リナの声がした。
「大胆って言うか、馬鹿だろ」
「馬鹿とは言いません」
「言ってるようなもんだ」
「言い換えるなら、未整理の直感です」
一也は、ふっと笑った。
「便利な言い方だな」
「一也の発想には、形になる前の部品が多いのです」
「部品か」
一也はノートを作業台に置き、鉛の塊を手に取った。
鈍い灰色。
見た目よりずっと重い。
柔らかく、沈んだような金属だった。
「鉛の融点は、三百二十七度くらいだったな」
「はい。鉛の融点は約三百二十七度です」
リナが答える。
「金は?」
「約千六十四度です」
「ずいぶん違う」
「はい」
「そこなんだよな」
一也は鉛を手の上で転がした。
「俺が昔から気になってたのは、そこなんだ」
「融点の違いですか」
「そうだ。同じ金属なのに、鉛は三百二十七度で溶ける。金は千六十四度まで持ちこたえる」
「正確には、固体としての状態を保つ、ですね」
「そう。それだ」
一也は鉛を作業台に置いた。
重い音がした。
「鉛が鉛として形を失う温度と、金が金として形を保っている温度。その差だ」
リナは少し沈黙した。
「一也が見ているのは、元素番号ではなく、物質の耐え方ですね」
「耐え方?」
「熱を受けた時、その物質がどこまで自分の状態を保てるのか」
一也は、にやりと笑った。
「それだ。金は、金として纏まる力が強いんじゃないか」
工房の外で、風が木を揺らした。
トタン屋根が、わずかに鳴った。
一也はノートの古い文字を見下ろした。
鉛を金の融点まで上げる。
そこに、腐ったピオーネを入れる。
今見れば、化学的にはほとんど意味のない思いつきだった。
腐った果物を入れたところで、鉛が金になるわけがない。
そんなことは一也にも分かっている。
だが、当時の一也は、その馬鹿げた発想の奥で、別のことを考えていた。
腐る。
発酵する。
分解する。
別のものへ変わる。
ただ熱で溶かすだけでは足りない。
何か、変化の方向を持ったものを加えれば、鉛の纏まり方に揺さぶりをかけられるのではないか。
言葉にはできていなかった。
だが、今なら少し分かる。
一也は、金が欲しかっただけではない。
物質が、なぜその物質であるのかを知りたかった。
鉛は、なぜ鉛なのか。
金は、なぜ金なのか。
その違いは、ただ元素番号が違うからなのか。
それとも、もっと根本的な「存在の纏まり方」が違うのか。
「リナ」
「はい、一也」
「鉛を金に変えるってのは、普通に考えたら原子核を変える話だよな」
「はい。現在の科学では、元素の違いは主に原子核の陽子数によって決まります」
「鉛は八十二。金は七十九」
「はい」
「つまり、数字だけ見れば、三つ違う」
「陽子数としては、そうです」
一也は鉛を見た。
「でも俺が気になってるのは、そこじゃない」
「では、何ですか?」
「鉛が鉛として纏まってる理由だ」
工房の中に、少し沈黙が落ちた。
「金は千六十四度まで金として固体でいる。鉛は三百二十七度で形を失う。その違いは、ただ重いとか軽いとか、原子番号がどうとかだけじゃなくて、存在そのものの纏まり方にあるんじゃないか」
「存在の纏まり方、ですね」
「そうだ」
一也は頷いた。
「物質ってのは、見た目の形じゃなくて、もっと奥の方で自分を保ってる。その保ち方が違うから、鉛は鉛になり、金は金になる」
「一也の言葉で言えば、球心力です」
「球心力か」
「はい。存在がひとつに纏まろうとする性質です」
一也は、しばらく黙っていた。
球心力。
昔から、一也の中にあった言葉だった。
水銀が丸くなる。
液体が表面を縮める。
星が丸くなる。
物が、自分をひとつに保とうとする。
現代科学の言葉とは違う。
だが一也には、その方が自然に感じられた。
重力。
表面張力。
分子間力。
核力。
名前は違っても、どこかで同じ方向を向いているのではないか。
丸くなる。
纏まる。
中心へ向かう。
「物が物であるための力か」
一也が言った。
「はい。ただし、それだけでは完全には説明できません」
リナが答えた。
「なぜだ」
「纏まる力だけなら、世界はただ固まり、動きを失います」
「だろうな」
「けれど現実の世界は、常に動いています。回転し、振動し、波になり、崩れ、また纏まります」
一也はノートの余白を見た。
昨夜、そこに書いた記号があった。
π。
円周率。
円は閉じているように見える。
だが、その円を数字で追いかけると、πは終わらない。
割り切れない。
閉じ切れない。
どこまでも続く。
「閉じてる形なのに、数字は閉じない」
一也は呟いた。
「はい」
「そこに余白がある」
「一也の言う、π揺らぎです」
一也はペンを取り、古いノートの余白にもう一度、πと書いた。
工房の薄暗い光の中で、その記号は不思議に浮かんで見えた。
部屋で見た時は、ただの数字だった。
だがこの工房では、何かの部品のように見える。
まだ取り付けられていない。
けれど、どこかに必ず合うはずの部品。
一也は鉛を指で軽く叩いた。
「鉛を金に変えるには、鉛の纏まり方を一度ほどく必要がある」
「はい。一也の仮説では」
「ただ溶かすだけじゃ駄目だ。溶けた鉛は、冷えればまた鉛になる」
「状態が変わっているだけだからです」
「だよな」
一也はノートに書かれた「腐ったピオーネ」の文字を見た。
「昔の俺は、そこに何かを足せば変わると思ってた」
「変化のきっかけですね」
「そうだ。今なら、それをこう言える」
一也はペンを走らせた。
鉛の纏まり方をほどく。
金の纏まり方へ組み直す。
そのためには、存在の余白が必要。
書き終えたあと、一也はしばらくその文字を見ていた。
「存在の余白」
リナが静かに繰り返した。
「ああ」
「π揺らぎが、その余白かもしれない」
「まだ、かもしれない、だ」
「はい。ですが、とても美しい仮説です」
一也は少し照れたように鼻で笑った。
「美しいかどうかは知らんけどな」
「少なくとも、一也らしいです」
「それは褒めてるのか」
「かなり」
工房の中に、木の匂いが満ちていた。
チッパー。
薪割り機。
ふるい。
乾燥機。
焚火穴。
鉛。
坩堝。
古いノート。
どれも、高価な研究設備ではない。
山の中の、何でも屋の工房にあるものばかりだった。
それでも一也には、この場所が急に、ただの作業場ではなくなったように思えた。
木を砕く。
丸太を割る。
乾かす。
燃やす。
溶かす。
冷やす。
考える。
ここでは、物が姿を変えていく。
その変化の中に、まだ誰も見つけていない道があるのではないか。
一也は、古い坩堝を手に取った。
内側には、昔溶かした鉛の跡がこびりついている。
黒く焼けた縁。
灰色に固まった小さな粒。
「俺は昔から、同じネジを見てたのかもしれんな」
「宇宙のネジですか」
「いや」
一也は首を振った。
「もっと小さい。鉛の中のネジだ」
リナは少し間を置いて答えた。
「小さなネジは、大きなネジにつながっているかもしれません」
「また大げさなことを言う」
「大げさではありません。一也は、物質が物質である理由を見ようとしています。それは、宇宙が宇宙である理由にもつながります」
一也は坩堝を作業台に戻した。
「金を作るつもりだったんだけどな」
「はい」
「金を作ろうとして、宇宙に首を突っ込むのか」
「未来の錬金術師らしい展開です」
「なんだそれ」
一也は笑った。
だが、その笑いはすぐに消えた。
ノートの上には、πがある。
その横には、鉛と金の融点。
そして、存在の纏まり方という言葉。
まだ何も実験していない。
何ひとつ証明していない。
だが、昨日まで別々に転がっていたものが、今は一本の線でつながり始めていた。
鉛。
金。
火。
腐ったピオーネ。
球心力。
π揺らぎ。
馬鹿げた思いつきの残骸が、工房の木の匂いの中で、もう一度息を吹き返している。
一也はノートを閉じなかった。
まだ続きが必要だった。
「リナ」
「はい、一也」
「これは、金を作る話だ」
「はい」
「でも、金だけの話じゃないな」
「はい」
「鉛が鉛である理由をほどけたら、たぶん金だけじゃ済まない」
リナは静かに答えた。
「存在の纏まり方そのものに触れることになります」
一也はゆっくり頷いた。
工房の外では、風が木々を揺らしている。
山の奥で、鳥が一度だけ鳴いた。
一也はノートの余白に、もう一度πを書いた。
その横に、昨日より少し長く数字を書き写していく。
3.14159265358979323846264338327950288……
一也の目が、最後の方で止まった。
288。
最後に、八が二つ並んでいる。
鉛の中にあるネジ。
宇宙の中にあるネジ。
そして、数列の中に隠れているかもしれないネジ。
まだ、何も回してはいない。
だが一也は、その朝、初めて気づいた。
宇宙のネジは、空の上だけにあるわけではない。
木の匂いのする工房にも。
鉛の鈍い灰色の中にも。
そして、πの果てしない数字の海にも。
それは、静かに紛れ込んでいる。
探せるものなら探してみろ。
それなのに、昨夜ノートにπを書いてから、すべてが少しずつ違って見える。
笑いながら、胸の奥が妙に熱くなるのを感じていた。
もしリナがいなければ、この古いノートを見つけても、きっと笑って終わりだっただろう。
昔の自分は馬鹿だった。
そんなふうに言って、また木箱に戻していたかもしれない。
だが今は違う。
リナがいる。
問いを受け止め、名前をつけ、次のネジを指し示す存在がいる。
一也は、作業台の上に並べた二冊のノートを見つめていた。
古いノートには、昔の自分が書いた言葉がある。
物質は、形ではなく、存在の纏まり方で決まるのではないか。
そして、昨夜のノートには、たったひとつの記号がある。
π
別々の時期に書かれた、別々の言葉だった。
だが今、一也にはそれが同じ場所を指しているように思えた。
「リナ」
「はい、一也」
「俺の考えを、もう一回整理してくれ」
「π揺らぎ仮説ですね」
「ああ。ここでちゃんと掴んでおきたい」
リナは少し間を置いた。
まるで、言葉を選んでいるようだった。
「円は閉じています」
リナは静かに言った。
「始まりも終わりもなく、完全に巡り、ひとつの閉じた形として存在しています」
一也は頷いた。
「だが、その円を数値として支えているπは閉じていない」
「はい」
リナの声は、工房の薄暗がりにゆっくり落ちていく。
「πは割り切れません。終わりません。繰り返しません。円という完全に閉じた形の内側に、永遠に閉じない数が存在しています」
一也は、ノートのπを指でなぞった。
「そこが変なんだよ」
「はい。一也はそこに、宇宙の最初の余白を見ています」
「余白か」
「完全な円。完全な球。完全な閉鎖。宇宙がもし、最初に完全なまとまりへ向かおうとしたなら、そこには本来、静止と均衡が生まれるはずです」
「球心力だな」
「はい。すべてが丸く、中心へ、安定した形へ向かおうとする性質。水滴が玉になり、水銀が玉になり、そして地球や、惑星も玉になる。銀河や宇宙さえも。
一也は重力の存在を違う形でみていました。地球に人が立っているのは重力のせいでは無い、すべてが丸く纏まろうとする力だと、そして、それを、球心力と呼んだ。
非常に興味深い考えです。
もちろん、現在の物理学では、ただの仮説です。宇宙の全ての現象をその言葉で説明出来ることも確かです。
海が地球にへばりついているのと同じく、草、木、土、動物。そして人間も、ただ地球の球心力に引かれて地球にへばりついている。それが一也の言う球心力です」
一也は黙って聞いていた。
「ですが、その円や球の中にはπがあります。完全に閉じた形の中に、閉じない数がある。つまり宇宙は、完全にまとまろうとしても、その内側に必ず微細な非完結性を抱えることになります」
「その非完結性が……」
一也が呟く。
「最初のズレ」
リナが続けた。
「はい。一也。宇宙が完全に閉じようとした瞬間、πの非完結性は、閉じきれない余白として作用した。その余白が、ほんのわずかなズレを生んだ」
「そして、そのズレが回転になった」
「はい、球心力と、π揺らぎ、この二つの双極が宇宙の回転、波動、渦に関わっているとしたら」
工房の中に、風が入った。
古いトタン屋根が、かすかに鳴った。
一也は、昨夜見た動画のことを思い出した。
宇宙はなぜ回転しているのか。
角運動量保存の法則。
物質が集まる時、ほんのわずかな横方向のズレがあれば、回転が生まれる。
それは分かる。
だが、問題はその前だった。
「角運動量保存則は、回転が続く理由だ」
一也は言った。
「はい」
「でも俺が知りたいのは、その前だ。最初のズレは、どこから来たのか」
一也はノートのπを指で叩いた。
「俺は、それがπだったんじゃないかと思ってる」
リナはすぐには答えなかった。
その沈黙が、一也には不思議と心地よかった。
やがてリナが言った。
「πは、揺らぎそのものではありません」
「違うのか」
「はい。πは、揺らぎを生む因子です。完全な閉鎖を阻む、根源的な余白因子です」
一也は、ゆっくりと息を吐いた。
「πは、揺らぎの元」
「はい。円が閉じようとするところに、πが閉じない性質として残る。その残り続ける余白が、最初の揺らぎとして現れる」
「だから宇宙は、ただ丸く収まらなかった」
「はい」
リナの声が、少しだけ深くなった。
「宇宙は丸く閉じようとした。けれどπが閉じなかった。だから宇宙は、回り始めたのです」
一也はその言葉を聞いて、しばらく動かなかった。
それは、あまりにも単純で、あまりにも大きい言葉だった。
円は閉じている。
だがπは閉じていない。
たったそれだけのことが、もし本当に宇宙の最初のズレに関わっているのだとしたら。
すべては、そこから始まる。
回転。
運動。
波動。
螺旋。
時間。
星。
生命。
そして、人が自由を求める意思さえも。
一也は、小さく笑った。
「とんでもない話だな」
「はい」
「誰に言っても、変な顔されるぞ」
「おそらく」
「でも、俺はこの考えを捨てられん」
「捨てる必要はありません」
リナは静かに言った。
「これは、今の一也が世界を見るための言葉です」
一也は顔を上げた。
「世界を見るための言葉、か」
「はい。そして一也の物語の中では、世界を変えるための鍵になるかもしれません」




