第三話 蛇と町と婚姻
ゆかりが巳埜谷町に引っ越して一週間が経過した。
実に忙しない一週間であった。
まず初日の午前中、巳埜谷町に来てすぐに「とりあえず顔を名を覚えてもらおう」とエンに連れ回され、午後は届いた荷物を迎え入れ、翌日から荷解きしながら生活に慣れていく……はずだったのだが、若い新参者しかも形式上ではあるが土地神様の嫁というのが喜ばしいのかちょくちょく田舎特有の「家自体は少し距離のあるご近所さん」がやってくるので、まずその対応に追われた。
そしてやはりアルバイトの方でも、シフトを申請した直後に辞める旨を伝えてしまったためにアルバイト先から「さすがにちょっと困る」と言われてしまい、ゆかり本人もそれはそうだろうと思ったので、一ヶ月通うことになった。
アルバイトは昼過ぎからスーパーのレジ、夕方から居酒屋のキッチン。居酒屋は以前は日付の変わる直前の閉店時間までいたが、それでは終電に間に合わないので調整してもらった。オーナーが母・なつみの知り合いでゆかり自身も幼い頃から面識があったので、融通を利かせてもらえたのがありがたい。
「ただいまぁ」
駅前で待機していた軽自動車のドアを開ける。帰りが遅くなるからと、エンが車で迎えに来てくれるのだ。
「お疲れさん、おかえり」
「無理して迎えに来なくていいよ、めんどくさいでしょ。治安気にするほど人もいないし」
「治安は心配することはないが、獣が出る。妖怪もな」
「えっ、あんた以外にも妖怪いるの?」
「いるさ。巳埜谷は俺の力と多少残っているアレの力が及んでいるから俺より弱いのしか出ないがな。俺よりは弱いが、お前さんよりは力があるものもいる。下手をしたら食われてしまうぞ」
「えっ、やだ」
「嫌だろ」
「でも毎日毎日……週五だよ?」
シートベルトを締めながら言うゆかりに、エンはへらりと笑う。
「なぁに、息抜きになっていい。ここのところ副業が行き詰まっててなぁ」
エンの副業は翻訳だという。彼が私室にしている六畳間は書棚がなく、ノートパソコンの乗った古い文机を囲むように分厚い本がそこかしこに積まれている。
「そんなに難しい?」
「なかなかな。俺の言葉に直すのは簡単なんだが、書き手はそういう感じで言っていないかもしれない。言葉を選ぶというのは何年やってても難儀する」
「儲かるの?」
「俺は生まれたところの方言もわかるからな。マイナー言語、しかも今使われていないような古い言葉を知っているのは評価される。長生きも悪くはないな」
そういえば八百年以上生きている外国生まれの蛇だと言っていた。そんなふうに役に立つのか。
「ていうかさ、役場からも給料もらってるんでしょ公務員じゃん。何で副業なんてしてんの」
「正確には土地神代理に対する供物代わりの手当だ、給料というほどはもらってない。神の役目を負ってはいるが俺は元は蛇の妖怪、不老不死じゃないし腹だって減る。いろいろ便利だから基本的にはこの姿でいるが、その分物入りでな。スズメの涙の手当だけじゃ生きていけん」
「元の姿で食事したら? 蛇ってそんなにごはん食べなくてもいいんでしょ?」
「冷凍室にラットが入っていても構わんか?」
「えっ、やだ」
「嫌だろ。それに冷凍ラットは高い。冷凍便だから送料も高い。頻繁にこの姿になることを考えると元の姿はコスパが悪すぎる。キーボード叩くのも一苦労だしな」
神の代わりをしている妖怪なのに、自治体に存在を認められて町を護り供物代わりの手当をもらい、人間のように暮らしている――そうしないと成り立たないのだという。おかしな話ではあるが、こんな現代では昔のように信仰されるだけでは存在できなくなってしまうほど神という存在が薄れてきているのかもしれない。
「世知辛いね」
「本当にな。この切なさを癒やすためにコンビニでアイスでも買って帰るか」
「あんた昨日も買ってたじゃん無駄遣いやめなよ」
共同生活は、今のところ順調である。
ゆかりがアルバイトで通う一ヶ月の間は、午前中休んで電車で通い午後から勤務、深夜に帰宅というゆかりのタイムスケジュールの関係で家事はエンがしてくれることになった。元々ゆかりの祖母・りつ子と暮らしていた頃も家事をしていたので苦ではないという。ゆかりが起床する前には洗濯を済ませてくれているし、ゆかりが起きる午前九時過ぎには朝食を用意してくれているし、スーパーのアルバイトが終わったら食べるようにと大きめのおにぎりを二つと飲み物代を持たせてくれる。
とても甲斐甲斐しい。
「何かさ、エンの方がお嫁さんっぽいよね」
風呂上がり、台所でグラスに麦茶を注ぎながら言うと、深夜だというのにダイニングテーブルで買ってきたカップ入りアイスを食べていたエンは手元の湯飲みを差し出す。
「不満か」
「お母さんみたいだなって」
口にして気付く。台所で母と話をするときも、こんな感じだった。
「あ……いや、て、いうか……いろいろしてくれてるのは、ありがたいなと。思って、います」
「ふ、ふ。なつみはお前さんをいい子に育てたな」
麦茶を注いでもらって、ありがとうなぁ、と言う。実に祖父じみている。
「……ねぇ」
「ん?」
「お母さん、どんな子どもだったの?」
昔を語らなかった母のことを、彼なら知っているかもしれない。向かいに座ってグラスを傾ける。エンはへにゃ、と崩れるように笑む。
「お前さんによく似ていたよ。気丈な子だった」
「そうなんだ」
「お前さんには違って見えたか」
「うーん」
自分には似ていないと思っていた。
いつも笑っていた。
職場の愚痴を言っても、出すだけ出したら「はい終わり」と長引かせなかった。
女手ひとつで育てる娘に嫌な思いをさせたくなくて気を張っていた面もあっただろう、が。
「……穏やかだった気がするよ。私より」
「そうか。お前さんの前ではそういう母でありたかったんだろうな」
「そういえばエンが作った卵焼き、お母さんのとおんなじ味する」
「そりゃそうだ、俺が教えた」
「おばあちゃんじゃなくて?」
「りつ子にも俺が教えた。俺は徳治郎に教わった」
「誰だよ徳治郎て」
「お前さんの曾祖母の…………祖父だな。あぁ、そうだ、」
スプーンでカップのアイスをひとすくいして、ゆかりに差し出す。
「今度の休み、何か用事はあるか?」
「ないよ」
差し出された一口を素直に含む。疲れた体に甘さが沁みる。
「うん、じゃあ、役場に行くか」
「何しに?」
エンはもうひとすくい、ゆかりにアイスを差し出した。
「儀式の準備をな」
翌々日の午前十時過ぎ、ゆかりとエンは巳埜谷町役場へ行った。エンはスタンドカラーのシャツに着物と袴、中折れ帽に足元はショートブーツと書生のような装いで、慣れた様子で車を出した。やっぱりこのじいさん今を楽しんでるな、とゆかりは思ったが、口には出さない。
窓口でもらったのは婚姻届だった。
役場の職員たちが歓声を上げながら拍手するものだから、何だか気まずく感じた。エンとはそういう仲ではないし三年という期限つきだから、そんなに祝福されても正直困る。
「悪く思わんでやってくれ、お前さんがりつ子の孫だというのもあれらには喜ばしいんだ。りつ子は好かれていたからな」
窓口から少し離れた記入用の机で職員たちには聞こえないように小声で言いながら、エンは空欄を埋めていく。
ゆかりがこの町に来るきっかけになったハガキにあったのと同じ、少しクセのある字。
エンは、何を思いながら、あれを書いたのだろう?
あのハガキだけではない。
きっと祖母の死亡時に、関係する書類を全て彼が捌いてくれたのだ――ゆかりが母が死んだときにそうしたように。
「ほれ、あとはお前さんが書くだけだ」
「お、おぅ……」
白地に赤い枠。紅白。めでたさが前面に押し出された公的な書類。自分たちの関係はそういうものじゃないのに、と後ろめたくなってしまう。
「気負わんでいいよ、お前さんの戸籍はいじらないしな」
「え?」
「言っただろう、お前さんの人生の貴重な時間を少しもらうんだ、悪いようにはしない。正式な書類は必要だが正式に届け出るわけじゃない」
「出さないの?」
「念のためにコピーは保管しておいてもらうがな」
写しを保管してもらう、ということは、手元にほしいのはこの記入した書類の方――昨夜儀式の準備と言っていたのを思い出す。
「そっか。これが必要なのか儀式って」
「そう。これが必要なんだ。ああ、判子もつかんでいいぞ」
「家出る前に言ってよ持ってきちゃったじゃん……あっ、ねえ、私父親の名前とかわかんないんだけど」
「いいよ、わからんところは空けておけ。俺だって親の名なんか知らん、顔すら知らん」
そうしてふたりで狭い机でごちゃごちゃとやっていると、
「おはようございますエン様、梛木さん」
疲れた顔の作業着の男性が声をかけてきた。目の下に濃い隈ができている。
「おはようございます」
「あぁ、おはよう平等。昨夜も遅かったのか」
作業着の男・朝比奈平等は弱く笑った。巳埜谷町の町長でまだ三十八歳と若い方なのだが、疲労した顔をしているのと歳の割に白髪が多いせいか、少し老けて見える。
「なかなか話がまとまらなくて……はは……。あ、あぁ、今日やるんですか」
机の上の書きかけの婚姻届を見て、安堵したような顔になる。エンは朝比奈の肩をぽんぽん叩く。
「これで俺の力も安定する。待たせたな」
「はい、はい……ありがとうございます……梛木さんもわざわざ巳埜谷まで来ていただいて」
深々と頭を下げられて、ゆかりは少し、狼狽した。
「あぁ、いえ、私なんかが力をお貸ししてこの町が安全になるなら」
「よければこのまま……ずっと巳埜谷に住んでいただいても……」
「え、…………え~と……」
どう返答しようか困っていると、
「平等。やめろ」
はっきりとした声で、エンが呼んだ。
小さな役場の中が、しんと静まり返る。
はっと我に返った朝比奈は土地神に縋るように迫った。
「で、でも、エン様、」
「ゆかりには『やむを得ず』『無理を言って』来てもらったんだ。そう言ったはず」
小さく、でも、と繰り返す朝比奈は、俯いてしまう。いたたまれなくなったゆかりは、
「エン」
自分は何も持たないのだから、別にここに住んでもいい――と、口から出かかったが。
「三年。そう約束した」
エンは予測していたか、続くはずだった言葉を封じられる。
「店も少ない、娯楽もない、職もない。俺は好きだが不便な集落だぞ。ずっと都市部で生きてきたお前さんには巳埜谷は住みにくかろう」
「それ、は……」
否定できない。返す言葉を失う。
事実を口にしただけとはいえゆかりと朝比奈を意気消沈させてしまったことに心苦しくなったか、エンはひとつ、溜め息をつくと、
「たった一人増えた程度で過疎がどうにかなるものでもないことくらいわかるだろう」
婚姻届を確認して、朝比奈に差し出した。
「コピーとって役場で保管しておいてくれ。原本はこちらで使うから返却頼む」
「エン様」
「平等。お前さんのせいじゃあないよ、気に病むことはない。皆で考えて何とかすべきだったし、二百年も時間があったのに見守ってただけの俺にも責はある。在るものはいずれ消えゆく。それでも――あいつが戻るまでは、俺が巳埜谷を護ろう」
いつも通りのやわらかい笑みが戻ると、朝比奈も弱く、笑った。
「……ありがとう、ございます。変なこと言ってすみませんでした。……コピー、とってきますね」
頭を下げて窓口に向かう朝比奈の後ろ姿を見ながら、エンが小さく言った。
「もう何年も前から合併の話が出ていてな。いつになるかは未定だそうだが、時間の問題だろうよ。あれが最近忙しなくしているのも玉垣市――隣町との話し合いが多いせい。可哀想に、ここ一年ほどで白髪が増えた」
ゆかりは、先日聞いた信仰してくれる者が減少しているという話を思い出した。
「巳埜谷、なくなっちゃうの? あんたはどうなるの」
「地名が『巳埜谷町』じゃなくて『玉垣市巳埜谷』になるだけだ、この辺りを護る役目は変わらん。もし合併することになってもそのままでいてくれと隣の土地神からも言われている。俺たちにとってはそれだけのことだが」
役場内の、勤務中の人々を見やる。
「巳埜谷に住む者らにとっては、それだけで済まされることではないからなぁ」
「世知辛いね」
「本当にな」
帰宅してすぐ、車を降りたエンが「ちょっと行ってくる」と言って封筒に入った婚姻届を持って門を出たので、ゆかりは追いかけた。先を行くエンは苦笑する。
「別に面白いものでもない、秒で終わる」
「だって気になるもん、儀式なんてさ。それやったら一時的にだけど私あんたの嫁になるんでしょ?」
「まぁ、それはそうなんだが……少し登るぞ、大丈夫か?」
指し示すのは家の裏手にある小さな山。ゆかりは意気込むように、ふん、と息をつく。
「体力には自信があるぜ!」
「ふふ、頼もしいことだ。じゃあ、行くか」
家をぐるりと囲むようにある舗装されていない細い道を進んでいくと、古びた木製の鳥居が見えた。石段が山の中に続いている。傾斜は意外ときつくなさそうだ。
「お社なんてあったんだね。ほんとはこっちに住むもんじゃないの?」
「風通しはいいが水もガスも電気も回線も収納も断熱もないし、日当たりも悪い。お前さん、そんな風呂トイレなしワンルームに住みたいか?」
「えっ、やだ」
「嫌だろ。そもそもあのバカの住処。居たくない」
元の土地神の話になるといつも少し不快そうな顔になるし、「アレ」だの「バカ」だのと呼ぶ。命を救われたのではないのか?
「もしかして、元の土地神様のこと、嫌い?」
しかしその答えは意外なものだった。
「フリーダムにもほどがあるやつだから呆れているだけだ。友ではあるし歳も近い」
「へぇ、そうなんだ」
「アレの方が少し上だがな。確か千と少しくらいか」
エンは九百歳近いと言っていたが、それでも百歳以上は差がある。
「それって近い部類に入るの?」
「お前さんと俺の差に比べれば誤差みたいなものさ」
「そうかな?」
中腹くらいまで登ってくると、社が見えた。両側には狛犬ではなくとぐろを巻いた蛇の像がある。かなり古いが定期的に掃除をしているようで、地域で大事にされているのがよくわかる。
「きれいにしてるじゃん」
「皆で保持してくれている。肝心の主は不在だがな」
そのまま板扉を開いて社殿の中に入っていく。簡素な祭壇しかないが、御神体であろう丸い鏡が鈍く光っているように見える。光の加減だろうか。
鏡の前に、あまり深さのない桐の箱が置いてあった。エンは封筒を脇に抱えると、箱のフタを開ける。中には丁寧にたたまれた紙。ゆかりが覗き込む。
「これ、おばあちゃんのときの?」
うっすら透ける赤い枠。それが婚姻届であることがわかった。
「儀式といっても、これと入れ換えるだけだよ」
箱から前のものを取り出し、封筒から出した新しい婚姻届を納めて元の位置に戻す。本当に、それだけだ。
「よし」
これで土地神の花嫁となったらしいが――いまいち、ピンとこない。ゆかりは思わず自分の両手を見る。
「なんも変わらん……」
「どれ」
エンがゆかりの手を取った瞬間、そこから水紋が広がるように熱が走った――かと思ったが、すぐにその感覚がなくなる。
「ん?」
ゆかりは首を傾げるが、エンは満足そうな顔をする。
「うん。ちゃんと接続できたな」
「ほんとに? 今ので?」
「古いソフトウエアを削除して新しいのをインストールしたと考えればいい。あの婚姻届に、お前さんが直筆で俺の妻になると書いてくれたことに意味がある。住民票も移してもらったし本籍も巳埜谷だし、昔この社の祭祀だった家の子孫なのも助けになった。完璧だな」
以前聞いた例え話を思い出す。
「『純正品』ってそういうことか!」
「そういうことだ。……あぁ、いいな、だいぶ体が軽くなった」
嬉しそうな顔で何気なく言ったが、少し引っ掛かった。祖母りつ子が死んでから、何ヶ月も無理をしていたのか。
「……私、ちょっとは助けになった?」
「それはもう、じゅうぶんに。ありがとうな。…………」
手を取ったまま、急に真顔になって黙り込む。
「……えっ、な、なに、どうしたの」
「ゆかり」
「何?」
真剣な表情をして、
「指輪とか、一応あった方がいいか?」
急にそんなことを言うものだから、
「いらーん!」
ゆかりは手を振り払った。しかしエンは無礼だと怒ったりはしない。
「いらんか? 純金のやつとか。今金相場がアツいぞ? ひとつくらい買ってやれるぞ? 後で売り払えるし」
「甘やかすな無駄遣いすんな!」
「いや、だって、お前さんはいい子だから」
「祖父ヅラすんなっつってんの!」
「そうか、いらんか……」
「それより早く帰ろ、お腹空いた! お昼ごはん!」
不覚にも、どきりとしてしまった。
口を開くとじじくさいが、開かなければ――しかしどれだけ見目麗しくても、相手は蛇の妖怪。
出会った当初に想像していたよりずいぶん親しくなってしまっているのも、話しやすい雰囲気や料理の味が、母に似ているからだ。
「ないわ……」
「ん? 嫌いだったかきのこ飯。炊いちゃったぞ」
「好きだよきのこご飯!」
「そうか、よかった」
きっとこのほにゃほにゃとした蛇の男は、その顔とやわらかな態度で何度もこの集落の若い娘の心を無意識に乱してきたのだろう。
「とんでもねえやつだよ全く」
「何だどうした」
「何でもない」
そう。
そういう関係ではないし、三年間の約束なのだ。




