第十五話 土地神代理の嫁と蛇の妖怪
巳埜谷駅に着くと、いつも通り見慣れた軽自動車が待っていた。
「おかえり」
窓が開いて緑の髪の土地神代理が手を振る。それを見たゆかりは少し力が抜けるのを感じた。しかし、何故か、嫌な感覚ではない。
(……今、私、ほっとした?)
思わず立ち止まり、右の手のひらを見る。
「どうした」
気にしたか、エンが車から降りてくる。本当に迎えに来ただけの、部屋着の浴衣にスリッポンというラフ極まりないスタイルだ。
「玉垣のに何かされたか? 次会ったとき殴った方がいいか?」
「ううん、違う、そうじゃない。寧ろなんか……いろいろ教えてもらった、し、玉垣の人たちにも、よくしてもらった、んだけど」
「だけど?」
「…………ちょっと、手、いい?」
「ん」
「両方」
「ん」
躊躇してから、差し出された手の先、中指を薬指だけを摘まむように取る。手全体を握るのは何だか恥ずかしかった。触れているのはほんの少しなのにそこから伝わりくるほのかな熱は、体温か、力か。
「わたしの、かみさま」
無意識に声に出て、はっとする。
「あ、え、っと、ちが、ごめん、そうじゃなくて、や、ちがわないけどっ」
ゆかりのものよりも大きな手は、一旦離れて、ゆかりの手を包むように軽く握る。
「落ち着いたか?」
「え」
「よその神の社に長時間いたんだ、緊張したんだろう。お前さんは長縄憑きの血筋だからな」
「そう、なの、かな…………あの、さ」
「ん?」
「私さ、神主の資格とか、取った方がいいかな」
玉垣神社には神職が何人もいる。何か思うところができたのだろう、とエンは悟った。
「必要ないよ」
「そうなの? 何で?」
「梛木は斎主ではある、けど、そもそも巳埜谷のミナギに対する信仰は土着のものだ。社もわかりやすく形にしただけのこと、中はすっからかんだしなぁ。お前さんも見ただろう」
確かに、エンとの婚姻の呪いをする際に中に入ったが、小さな社の中は祭壇に御神体らしい円い鏡が一つと、呪いに使った婚姻届が入った古い質素な文箱ぐらいしかなかった。
「ミナギはウカミ様の娘、俺なんかと違って正真正銘神霊と呼ばれるものではある。でも玉垣のほど頼られているわけでもないし、前にも説明したが巳埜谷は住人が少しずつ減っている。今すぐではないにしろ、いずれは」
「でも、それはさ、これからちゃんとやってけば」
「ゆかり。お前さんに俺の嫁でいてもらうのは三年。そう約束しただろう」
見守り、案じるような、優しい目だ。
身内のように慈しむ、優しい声だ。
そう、エンはゆかりが三年後には出て行くものだと思っている。
それもそのはず、ゆかりは当初は嫌がっていたのだ。
こんな田舎に呼び出され、わけのわからない頼み事をされ、仕方なく受けたこと。
ゆかり自身も、最初は面倒だと思った。
買い物をするにも働くにも不便な小さな町。
やけに親しげにしてくる住民。
祖母と両親がゆかりのためにと伏せていた家のこと。
ひとつ屋根の下で共に暮らすのは若い男に化けているのに年寄り臭い鮮やかな緑色の蛇だし、元の土地神も、永く生きていて強い力を持っているのだろうに妙に乙女チックで可愛らしくて。
実に奇妙な巡り合わせ。
(だけど)
「私、巳埜谷にいちゃ、いけないの?」
手を握り返し、真っ直ぐ見返す。
「まだ来てそんなに経ってないけどさ。いろいろ知っていくたびに、何とかできたらなって考えちゃうんだよ。町の過疎とかはどうにもならないかもしんないし、あんたの嫁じゃなくなったその先のことなんてまだ全然わかんないけど、でもさ、その前に何かできるんならやっておきたいって。それってダメなの? あんた、やりたい放題していいって言ったじゃん」
エンは、きょとんとして、困ったように少し、笑う。
「いちゃいけないなんてことは…………しかしなぁ、ゆかり、」
そう、エンは人がいい。蛇だが。
長年こんな閑静で程よくあたたかい里で皆から慕われていれば、穏やかなお人好しにもなるだろう。蛇だが。
長年棲んでいるからこそ、巳埜谷町の実情もよくわかっている。
そのはずなのに。
それだから。
「あんたのそういうとこがムカつくんだよ!」
ゆかりは、ぎっ、とエンを睨み付けた。
「私とあんたの関係は三年で終わりかもしんないけど、巳埜谷は三年で終わりじゃないでしょうが」
握り返す手にもぐっと力が入り、エンの顔が歪んだ。
「いたっ、ゆかり、ちょっと、手っ」
「あんたね、巳埜谷の人間じゃない私から三年も奪っといて、その後は野となれ山となれとか無責任にも程があるんじゃない? 神様じゃなくなってもお世話になった巳埜谷が大事なんでしょ? 巳埜谷を護りたいんでしょ? へらへらしてんじゃないよちゃんとしな!」
「はいっ」
まさかの叱責にびくりとして、思わず返事をしてしまった。ゆかりの目はまだ鋭い、が、手の力は少し緩む。
「決めた」
「え?」
「この先やりたいこと」
手を離すと、己を落ち着かせるように、ひとつ、息をする。
「これまではさ、ミナギが帰ってくるまであんたの力が安定するようにって必要最低限で何とかしようって考えてたわけじゃん? でもそれじゃあんたが想定しているよりずっと早くあんたの好きな巳埜谷がなくなっちゃうよ。そんなの嫌じゃないの?」
「で、でも、それは、だから、俺やミナギは永く生きてるから、いずれは」
「いずれなくなるのはしょうがないとかじゃなくて! あんたはどうなの!? できるだけ長くもたせたいとか思わないの!?」
「そ、れは、」
「はっきりしな!!」
「はいっ」
また、反射的に返す。しかも気を付けをしながら。エンは考える――何故こんなことに。どうして俺は駅前でまだ二十歳そこそこの娘に叱られてるんだ?
しかしゆかりは、
「まぁ、そうね……ちゃんとした神社じゃないんなら、神主とかにはならなくてもいいのかな……また大学行くとか金銭的にしんどいしな……」
エンの様子など気にも留めず考え込んで呟く。またいつ叱られるかもしれない、エンは身構えた、が。
「……まぁ、それはそれとして、よ。つまりさ、」
大体気が済んだのか、ゆかりはいつもの調子に戻った。
「私、ミナギと代理のあんたの斎主ってやつなんでしょ? 私しかいないんでしょ? だから、その、斎主ってのを、ちゃんとやろうと思う。後に繋いでいけるかはわかんないけど、私はやる。やりたい。やらせてほしい」
不思議と、思い詰める、とか、使命感、というものは、感じられない。
強くはあるが、どこかにやわらかさも含んでいる言葉、表情。
ゆかりはゆかりの意思で、そう決めたのだと、エンは理解した。
「……なつみも昔、そんなことを言った」
苦笑いが漏れる。
「あれもなかなか頑固でな。何とか説き伏せて外に出した…………はず、なのに、なぁ。いや、お前さんを巻き込んでしまったのは俺ではあるが」
「あんたが責任感じることじゃないよ」
ゆかりは助手席側に回り、ドアを開けて車に乗り込む。エンも運転席に戻る。
「何でこんなことになったか、なんて、元を辿ればミナギに好きな人ができちゃったとこまで遡っちゃうことになるけど、でもミナギが恋したのが悪いのかって言われたらそうじゃないっしょ。巳埜谷が過疎っちゃったのだって、こうなる前に住んでる人たちが何とかしなきゃならなかったのもあるにはある、でもこんな田舎じゃどうしようもないってところもあるじゃん。多分さ、関わってるみんなにおんなじようにちょっとずつ責任はあって、でも特定の誰かが抱え込むようなことじゃないんじゃない?」
シートベルトを締めながら言っていることもその顔も、黒い蛇を連れたあの男に似ている――どちらにもそっくりじゃないか。エンは、思わず、笑ってしまった。
「親子だな。今度は父親と同じようなことを言う」
「お父さん何て言ってた?」
「責任を感じることはない、結果こんなことになってはいるが誰が悪いとかはない、とさ」
「……そっか」
ゆっくり、発進する。小さかったラジオの音量を上げたゆかりは知っている曲がかかっているのを聴いて口ずさむが、ふと、自分の持っているらしい力のことを思い出す。
「ねぇ、エン」
「うん?」
「私の声って元気出る?」
「髪が逆立って色が変わって全身ムキムキになるほど爆発的に、なんて勢いがあるわけじゃあないが、湧くような感覚はあるよ。逆に、さっきは叱られて身が強ばった。なるほど立派な八乙女だな」
そういえば、ウカミヒコにも「心地よい」と言われた。微々たるものかもしれないが、助けにはなるのだろうか。
「ふーん。なら、これからいっぱいお喋りしてあげるね」
「俺には祖父ぶるなと言うくせに自分は孫みたいなことを言う」
「じゃあ嫁らしいこと言った方がいい?」
赤信号で停止し、エンはゆかりを見て笑んだ。
「たとえば?」
いつもの力の抜けた笑い方、ではない。
暗い車内に辛うじて入る信号機の光と車のヘッドライトの反射が照らす目が、玉のようにつややかに光る。
玉垣の白い狐とは違う、妖しい美しさ。
ゆかりは――一瞬、すぅ、と引き込まれそうな感覚に陥ったが、行き着く前に止まり、我に返る。
ほんの数秒間のこと。
初対面のときの「当てられた」状態に似てはいたが、少し違ったような。
「え、あぁ」
ゆかりの口から言葉にならない声が零れ落ちるように出ると、今度はエンの方がはっとした。
「すまん」
慌てて正面を向いて気まずそうな顔でハンドルをぎゅっと握り、やってしまったとでもいうように大きな溜め息をつく。意識がだんだんはっきりしてきたゆかりも前を向き、目をつむって頭を振った。
「びっ……くりしたぁ。なに、あんた今何かしたの?」
「いや、した、というか、してない、とも言い切れず」
だんだん小さくなる声。ゆかりはイラッとした。
「ブツブツ言ってないで説明しな」
「はいっ」
今は信号で停止しているが運転中、八乙女のお叱りを受けて体が硬直しないように、エンは深呼吸してから言葉を選び始めた。
「……俺はミナギに少しだけ力を分け与えられてはいるが神じゃない、妖怪だ」
「いつもそう言ってるね」
「長生きしているだけとは言っちゃいるけどな、これでも多少は人間が持たないような力を持ってはいるんだよ。今お前さんがかかったのは、ゲームの状態異常にある魅了とか、そういった類のものだ。わかりやすくいえばな」
ゆかりが深呼吸する番だった。ついまた怒鳴ってしまいそうになったが、先ほど駅前で大きな声で責めた際にエンは身が強ばったというから、今そんなことになったら事故になる。
「だったら早く教えてよ最初のうちに知っておきたいことじゃんそれ」
「いや、その……梛木の者だし大丈夫かと……今もかかりきらないで何とかなったし……」
「万が一ってこともあるでしょうが。現に今ちょっとかかってたんでしょ」
「そう、そうだな、いや、本当にすまん」
信号が変わり、エンはアクセルを踏んだ。
「好き好んで持っているわけじゃあないんだよ。なまじっか永く生きてしまったせいで、身を守るためには必要だと生成されてしまったらしい。人間に討たれたり封じられたりする可能性もないわけじゃない、仕方がないといえば仕方がないんだろうな」
うんざりした口ぶりから見るに、心底いらないものだと思っているようだ。もしかしたら、何か失敗したことなどがあるのかもしれない。
「襲われたこととかあるの?」
「ないよ。元の姿で山の中にいればまずバレない。ただ、りつ子が入院する少し前だったか、そういう生業の者に様子見に来られたことがあってな。幸い役場を交えて事情を伝えて穏便に済ませられた。さすがに少し肝が冷えたなあの時は」
こんなに温厚でも、土地神の代わりとして町を護り住民に慕われていても、そんなことがあるのか。
無言で静かに衝撃を受けるゆかりに、エンは苦笑いで返す。
「何せ蛇だし妖怪だからなぁ、何も知らない人間にとっては不気味な存在なのさ。……そういう者らには独自のネットワークがある。俺は人間に害なす妖怪じゃないと判定されて広まったようだから、もう来ないよ。心配ない」
「でもチャームスキルあるんじゃん、地位のある人とかかかったら国家がヤバいやつじゃん。聞いたことあるよ、昔そういう美女に化けた狐の妖怪がいたって」
「使おうとしなければないのと同じだよ」
――つまりは。
「じゃあさっきは私のこと魅了しようとしてたってこと?」
そういうことではないか?
が、
「あ、いや、その、わざとじゃない、やろうと思ってやったわけじゃ」
エンは狼狽しながら否定した。
「ただ、その…………」
「なに」
ちら、とゆかりを見て、目を逸らして、口元を歪める。
「お前さんが、嬉しいことを言うから…………少し、浮かれて、その、うっかり漏れ出た、のかも、なんて」
照れたようなその言い方に、ゆかりは顔が熱くなるのを感じた。悟られないように、さっきよりも大きな溜め息と共にドアに肘をついて頬杖をつき、窓の外を見る。
「やっぱおじいちゃんとお喋りするのやめる」
「えっ、ちょっ、そんな寂しいこと言うなゆかり、お前さんもう反抗期なんかとっくに過ぎただろう」
「あんたが喜ぶようなこと言うたびチャームかけられたら堪んないっつってんの!」
「で、出ないように頑張るからそこを何とか」
この時、エンもやや顔が赤くなっていたことを、そっぽを向いていたゆかりは知る由もない。
本当は、エン自身にはわかっていた。
魅了の力を使ってしまったのは、不本意ではない。
一瞬。
ほんの一瞬ではあるが、ゆかりを、自分の掌中に入れてしまいたくなった。
(よくないな、よくない。俺は蛇だぞ)
守ってほしいと頼まれたのだ。
任せられたのだ。
それを自分が奪ってどうする?
「ゆかり」
「なに?」
「ミナギはともかく、俺にはあまり入れ込むなよ。神じゃなくて妖怪だからな」
ゆかりは怪訝な顔をして、
「ミナギが帰ってくるまではあんたが私が祀るべき神様でしょうよ」
そんなふうにさらりと返すものだから、エンはまた少し嬉しくなってしまったが、
「で、嫁らしいことは言ってくれないのか」
「言わねーし調子乗んなジジイ」
茶化して罵られておくことにした。




