第十六話 鱗と波
玉垣神社式年祭当日、
「俺も行きたいゆかりの晴れ姿見たい甘酒飲みたい~」
朝っぱらから巳生縁こと巳埜谷町土地神代理エンは年甲斐もなく駄々をこねた。玄関を出ようと靴を履いていたゆかりは振り返りもせず呆れる。
「あんた今巳埜谷から離れちゃダメなんでしょうが」
「一日ぐらいなら平気だぞ! じゃなきゃ俺は免許取れてないし車も買えてないし車検も出せないからな」
確かに巳埜谷町には自動車学校も運転免許試験場もディーラーもない。
とはいえ。
「でもできるだけ離れない方がいいんでしょ」
「それは…………そう……」
うなだれる。
「副業も納期近いって言ってなかった?」
「ぐうぅ」
更にうなだれる。
「お土産買ってくるからおとなしく待ってなよ。駅まで送って」
エンは仕方なさそうに愛車のキーを指に引っ掛け、スリッポンを履く。
「あぁ、そうだ、ゆかり」
「何?」
「これを持っていなさい」
何か小さなものを摘まんで差し出したので手のひらで受ける。
指輪だった。
花弁が五枚ある銀色の花の真ん中に、とろけそうな光沢の緑色の石が嵌まっている。意外と古くさくない可愛らしいデザインだ。
「えっ……」
ゆかりは戸惑う。そういえば以前、指輪を用意した方がいいかなどと言っていたが――
「違う違う、そういうのはいらんとお前さん言っていたじゃないか」
「お、おう」
違うようだ。
「りつ子の形見だ。ちょうどいいのがあったから簡単に呪いをかけておいた。八乙女は変なのを寄せつけやすい、身に付けておけば俺より力の弱いものからは大体守られるはず」
「あ、なるほど、お守りか、へぇ」
物が物だけに少しどきどきしてしまったが、祖母の形見と知り安堵する。
一応土地神代理の嫁という自覚はあるものの、さすがに左手は意識してしまいそうので、右手の薬指に嵌めてみる。ぴったりだった。玄関を出て、改めて明るいところで眺める。
「めちゃめちゃきれいだな……もしかして、お高いやつ、なのでは?」
鍵を閉めながらエンは笑う。
「そんなに大きくはないとはいえ琅玕だしなぁ。りつ子は飛び上がって喜んでいたけど喜洋はでかい溜め息ついてたから高かっただろうな」
「ロウカン」
「最高クラスの翡翠だよ。鑑別書がある。領収書もあったな、ちらっとしか見てないが確か三桁いってた」
ひっ、と小さな悲鳴を上げたゆかりは、何となく、左手で守るように覆う。
「そ、そんなのお守りなんかにしない方がよかったのでは?」
「気にすることはないさ、よく見ろ傷だらけだぞ。よほど気に入っていたらしくてな、入院するまでずっと付けていたよ」
目をこらす。本当に、地金の部分に細かい傷がたくさん入っている。だったらいいのだろうか――いや、本人は愛用していたとしてもそれはそれ、高価なものには変わりないのだが。
「電車の時間、いいのか」
「あっはいっ行こっ」
祖父が祖母に買ってあげただろう、祖母の宝物。
それに、エンが力を込めたもの。
ゆかりは心強さを感じた。
玉垣小春が言っていた通り、式年祭が始まって早々、人はどんどんやってきた。本来は小春が紙コップに入った冷やし甘酒をテントに立ち寄った参拝客に手渡す役目だったのだが、足を負傷し長時間立っていられないので椅子に座って大鍋から紙コップに甘酒を注ぐ係に回り、ゆかりは小春のいとこ姉妹(姉の方は小春と同い年で、妹は中学生だそうである)と共に緋袴のいわゆる「巫女さんスタイル」で紙コップ入りの甘酒をこぼさぬように・丁寧に・そして素早く参拝客に配る係を任された。
小春のいとこたちは「初めてやるのにすごく手際がいい」とゆかりを褒めた。元々やっていたアルバイトは接客業だったし、どんなに忙しくても客の前で笑顔を保ち続けることには慣れている。おそらく小春のいとこたちは、ゆかりが内心緊張し、慣れぬ装いで必死に作業をこなしていたことを知らない。
一応甘酒配布所の担当責任者である玉垣柊一郎が合流したのは昼前のことだ。朝は祖父や父と同じように狩衣を着て烏帽子を被っていたが、甘酒配布所のテントにやってきたときは白衣に浅葱色の袴に着替えてきた。柊一郎が現れるなりじわじわと女性の姿が増えていき、あぁ、やっぱりモテるのだとゆかりは思った。
「おつかれさま。って、まだもうちょっとあるか」
昼休憩というには少し遅い十四時過ぎ。池が見える社務所の裏手で座るのにちょうどいい大きな石に腰掛けて、もらった弁当を食べていたゆかりの傍らに、玉垣神社の現祭神・玉垣吹雪丸が現れた。いつもは白い単に白い袴、エンより少し長い髪も垂らしたままだが、同じ真っ白でも平安時代の貴族のような装いに、髪を結い上げ冠を被っている。ゆかりは思わず、わぁ、と感心した声を漏らした。
「神様みたい」
「私一応神なんだよね」
「あ、そっか、そうだ」
「ふふふ。……いいものを、持っているね。懐の、その石」
胸元には財布を入れてある。現在の格好と業務にはそぐわないと思い、小銭入れの部分に朝エンから受け取った祖母の形見の指輪をしまってあった。
「これ?」
ゆかりが取り出して見せると、
「ふぅん、りつ子の指輪じゃないか。よく考えたものだ」
覗き込みながら指先をそっと近づけたが、触れる寸前にばちっと弾かれる。
「いったぁ!」
「えっ、大丈夫!?」
火花が散っているような、ちりちりとした小さな音が未だかすかに聞こえる指先を擦り合わせ、吹雪丸は苦笑した。
「アオの奴、かなり強めに呪いをかけたな……ま、このくらい強ければ神霊でも私程度なら除けられるか」
「え」
彼程度?
吹雪丸はこんな大きな社を継いだ、神の位にある狐ではないのか?
「何で? エンは妖怪で、神様じゃないでしょ? 吹雪さんのが強いんじゃないの?」
すると吹雪丸は、何故かどこか嬉しそうに、にっこり笑う。
「私よりアオの方が強いよ。聞いているだろう、アレはもうちょっとで千年に届く蛇、しかも土地神の加護を受けている。あんなだけれど、大妖怪といっても過言ではない」
大妖怪。
あの、へにゃりと笑う年寄りじみた優男が?
あの、さほど大きくもない、ちょっとしたペットのようなきれいな蛇が?
「全然見えないんですけど……」
少し、顔を顰めながら小さく零すと、吹雪丸は声を上げて笑った。
「見えないよね、わかるよ。彼には大層な欲も邪気もないからね。まぁこれもヒメが目をかけているおかげではある。……でもね、ゆかり。よく覚えておいて」
ふわ、と、心地よい風が吹いた。
「きみがこれから何年も祀るもの、きみを慈しみきみを護ろうとするものは、神ではなく妖怪。あのまま巳埜谷の里の者に慕われ続けていればいずれは神格を得るかもしれないけれど、それでもずっとずっと先、少なくともきみがこの世からいなくなった後のこと。きみの動向次第では、よくないものに変じてしまうかもしれないというのを、忘れないで。これは玉垣の里の神であるこの私、玉垣吹雪丸からの神勅だ」
気のせいか、吹雪丸が、その内に含んだようにほのかに光っているような。
冠と沓、瞳以外は白。真の純白。
なのに何故か、眩しくはなくて。
ああ、神だ――ゆかりはまた、理解した。
「見蕩れる」のとは違う、が、何かが引きつけられる感覚。
エンとは全く違う存在だ。
「……いや、やっぱりそんなに大げさなものじゃないな。言い直そう」
ふ、と、吹雪丸が少し崩れるように微笑んだのと同時に、光はおさまる。ゆかりも我に返る。
「アドバイス。そう、アドバイスってやつだ。その程度で考えておくといい。要はきみが尻に敷いておけば大丈夫ってことさ」
あまりにも軽い「言い直し」。ゆかりは笑ってしまう。
「そんな感じでいいんだ」
「そもそもあのアオのことだからね、私は全然心配なんかしていないよ。これでも付き合いが長いからそのくらいはわかる」
吹雪丸は週に一度は必ずやって来る。そんなに社を空けても大丈夫なのだろうかとゆかりは思うのだが、きっと問題ないのだろう。
そして来るたびにエンに絡んではすげなくされているのに何故か楽しそうにしている。友、というもの、なのかもしれない。
いや、それにしては……?
「もしかして吹雪さんエンのこと好き?」
神様に向かって不躾かな、という気持ちもあったが、思い切って訊いてみる。吹雪丸のことだから、こんなことを訊いても怒らない気がした。すると吹雪丸は、
「ふふ、そう見えている?」
やっぱりおかしそうに笑うだけだ。
「妬けるかい?」
「いや……全然……」
なぁんだ、と口調はつまらなそうだが、顔は笑っている。といっても、いつもの優美な微笑ではない――ニヤニヤしているような。
「私が幼い頃から構ってほしくて絡んでいるから、アオもヒメと一緒に相手をしてくれているというだけだよ。私としても口説くならアオよりヒメの方がいい。好きは好きだけれど恋情ではないから安心しなさい」
まるで自分がエンに好意を持っているような言い方に、ゆかりは割り箸を取り落としそうになった。
「ちょ、何それどういう意味別にっ、全然っ、違うからね!?」
「大丈夫だよ、異類婚なんて珍しくもない。きみも分家ではあるけれど永縄の大王の子孫じゃないか」
「だからちがっ…………って、そうなの!?」
「今初めて知った? そうだよ、ナギの一族は永縄のウカミヒコを祖としているからね」
信じられない。ウカミヒコといったら、あの大きくて真っ白な蛇ではないか。
「私、蛇の、子孫……?」
「蛇の形をとってはいるけれど永縄の大王は神霊だし、まぁきみ自身はほぼ人間という認識でいいと思うよ。永縄の大王が人間を娶ったのはヒメが生まれた少し後だと聞いているから少なくとも千年以上は昔の話だし。きみに至るまでの途中できみの先祖が人間でないものに手を出されていなければ、の話だけれど」
そう言いながら、吹雪丸はゆかりが傍らに置いていたほうじ茶のペットボトルを取って開け、勝手にぐびぐびと飲む。新品だったのに、あっという間に半分近くなくなってしまった。
「あっ! また! また人のお茶勝手に飲むこの神様は!」
「あ、すまないね、つい。返す……のもよくないか、陽菜に新しいの持ってきてもらおう」
髪を一本引き抜いて、ふっ、と息を吹きかけながら宙に舞わせると、半透明の小さな狐の姿に変わり、走り去っていく。それを見たゆかりは、永縄の里で束早が里中に巡らせた小蛇を思い出した。
「ねぇ。今のやつみたいなの、私も頑張ったら出せるかな? 本家の当主さんが、小さい蛇いっぱい出してたんだよね」
「うーん、どうかな。……ゆかり、きみは八乙女だね?」
そういえば説明していなかったが。
「やっぱりわかるもんなの?」
「一応神だからね。確かにナギは少し特殊な一族のようだし、力を持っている者は極端に人間離れしている。でも私が見た感じ、きみは八乙女の素質はあっても術者向きではない気がするな」
言われてみれば、束早は容姿からして特別感がある。今ここにいる神社の祭神と雰囲気は違うが、髪も肌も真っ白で神秘的で、よくできた人形が動いているようだった。あれが、父の双子の弟――ということは、ゆかりからしてみれば彼は叔父であり、かなり近い存在のはずなのだが。
「中途半端だなぁ、私」
ぼやきながら弁当に入っている煮物の椎茸を口に入れると、吹雪丸はくすくす笑った。
「神に仕える斎主だからといって、その全員が特殊な力を持っているとは限らない。玉垣だって、私が継いでから何代かの斎主は普通の人間だったんだよ。ケイがよくないものを祓えるのと、あとはシュウがきみと同程度の八乙女っていうぐらいのものさ」
「柊一郎さんって八乙女なの?」
「シュウの祝詞はとても心地いい。毎朝聞いても飽きないよ。…………あ、来た来た」
ペットボトルを抱えた緋袴姿の陽菜が小走りでやってくるのを見て、手を振る。
「ところでゆかり」
「何ですか」
「本当に、アオのことは何とも思っていないの?」
振り向いた吹雪丸の目が、きら、と光った途端、先日のことが頭をよぎった。
そっと握られた手。
車の中で見た、落とされそうになった視線。
顔が、熱くなる。
「なんともおもっていませんが!?」
「本当かなぁ」
「ほんとですが!? だってあいつは私のっ……一応今は祀る神様の代理だし!?」
「ふぅん? ……あぁ、そうだ、陽菜、ちょっとおいで」
茶を届けに到着したばかりの陽菜を招き、抱き上げると、ゆかりの隣に据える。
「そのままね。こっち向いて」
続いて懐から何かを取り出し――あれはもしや。
「え、なんでスマホ」
気付いた瞬間、シャッター音が聞こえた。写真を撮られたようだ。吹雪丸は満足げな顔で画面を見せてくる。
「ほら、かわいいのとかわいいのが写ってる。いいね、とても」
「あ、の、吹雪さん?」
「アオに送っちゃお」
「な!? あ!?」
ゆかりが止める間もなく、束帯姿の真っ白な神様は器用にスマートフォンを操作した。
「きみのことだ、どうせアオに来るなとか言ったんだろう? つれないこと言わずに見せてあげなよ」
「ちがっ、べつにっ、ちがっ! あいつ副業の納期がっ」
「あぁ、彼私と違ってお賽銭やお守りで稼げないからね。それは仕方ない」
「ふぶきさまみせてみせてヒナとゆかりいっしょの!」
「後でケイに印刷してもらおうか」
「やったー!」
陽菜が喜んでいる手前、消せとも言えない。ゆかりは深々嘆息して、昼食を再開した。
そんなところへ。
「あ、いたいた、梛木さーん」
柊一郎がやってきた。ゆかりがもらったのと同じ弁当、ほうじ茶のペットボトルをタオルと一緒に持っている。
「こら吹雪梛木さんが休んでるとこ邪魔すんな! 陽菜も! 休憩にならないだろ!」
「別に邪魔をしているわけじゃない。私は巳埜谷の土地神から斎主を預かった身、護る責任がある。陽菜だってゆかりの友だぞ」
「そうだぞゆかりはヒナのともだちだぞ!」
抗議する祭神とその許嫁に呆れた眼差しを向けながらため息をついた柊一郎だったが、ゆかりの方に向き直ると表情に元の明るさが戻る。
「ごめんねうちの神様たちが。馴れ馴れしいでしょこいつら」
「や、まぁ、……何度もうちに来てるし、慣れてるんで」
「ほんとごめんね土地神にあるまじき奴らで! ……あ、えぇと、ところで、なんですが…………」
少し、躊躇する素振りを見せたあと、玉垣柊一郎は思い切ったように口にした。
「あのさ、バイト終わった後、時間空いてる?」
一方その頃、巳埜谷町のエンはというと、
「何かと思えば……」
それまで真面目に副業に取り組んでいたところスマートフォンを持って立ち上がり、画面を拡大しながら移動する。廊下を経て障子を開けたその先は、八畳ある仏間だった。
「なつみ、玉垣のが送ってくれたぞ」
経机の左側に置かれた樹脂製の折りたたみの踏み台の上、白いカバーのかけられた骨壺の前でしゃがみ、スマートフォンの画面を向ける。
「緋袴も愛らしいといえばそうだな。でもお前さん、ゆかりの成人式も出してやれていないのはさぞ悔しかろう。涼しくなったら晴れ着を着せてやるからもう少し待っていろ」
骨壺は、応えない。
ふ、と、エンは笑い、スマートフォンを懐にしまった。
「何も思い残さなかったのか。元々さっぱりした子とは思っていたがまさかそこまで……いや、そうじゃないか。信じているんだなあの子のことを。確かにしっかりしているな、お前さんの娘だ。でもなぁなつみよ、あの子は存外強がりだぞ。そこはお前さんが選んだ男に似ているようだ」
カバーの上から骨壺を撫でる。
昔、彼女の頭をそうしたように、慈しむ手。
「あの小僧、俺にゆかりを任せおったが大丈夫か? …………俺も大丈夫だと言いたいんだけど、なぁ」
ひとつ、ため息をつくと、立ち上がり自室へと戻ろうとした
が。
「うふふ。少しはわたくしの気持ちがわかりましたか?」
声。
それは、美しく、嫋やかで、涼しげで――強い、力を含む響き。
エンは、ゆっくりと振り返った。
「ミナギ」
名を呼ばれた里の女神は、微笑した。




